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2007.01.28
岩手空港
神奈川に住んでる人に、
「岩手って、空港無いんですよね」って言われた。
「いや、ありますよ一応」って答えたら、
「岩手空港なんてありましたかぁ?」と返された。
・・・・無いよ、そんなもん。
花巻ってそもそも無名だし、岩手という県すらもマイナー。
岩手を知らない人に説明するのは一苦労。
「花巻空港では無名だから、東北空港にすれば即解決」
ってわけにいかないけど、
「いわて花巻空港」っていう苦肉でもなんでもない「愛称」とやらが
公式に認められているところに、一番の「痛さ」を感じる。
問題の所在が、あまりにも曖昧。
それ、愛称じゃなくて「いわて」つけただけなんちゃうんか?
岩手の花巻にある空港をPRしたいのは、
岩手県民に対してなんちゃうんか、と。
各地と結ばれるはずの空港利用促進ってのは、
何も県民だけではなく、岩手を訪れるお客人を増やすことにもあるわけで。
お客さんに分かりにくい玄関というのは、
店で言えば「客を寄せたくないの?」という勘ぐりにさえ繋がる。
「空港保全のために」県民への利用を促したいのはわかるけど、
離着陸時間なんかより、旅のプランを広報するべきで、
もっと「民間の感覚」で利用促進をアピールすべきなんじゃないのかな?
川徳がやってる各地の物産展なんかに、積極的に関わって協働すべきだと思うんだけど。
それが、関わる全ての利益に繋がるわけだから。
そもそも、岩手県の中央部に空港を置くってことが、有利な選択だったのか。
次長は「人口集積のある盛岡側に寄せて置けばよかったのでは?」と今さらながら思うけど。
あるいは気流とか、気象条件の問題があって、あそこに建設したのかも知れない。
が、だとすれば東北新幹線建設ルートが花巻を通過するときに、
真っ直ぐ進んで「新幹線花巻空港駅」をつくっておくべきではなかったのか。
現状の、「新花巻・花巻空港・花巻」の三駅体制というのは、いかにも観光客には不親切だ。
北上からも盛岡からも、新幹線で20分弱で着く空港って、魅力的だ。
たとえ飛行機と新幹線が競合路線とは言え、
総合的に見て、新幹線と空港が直結しているメリットは他所に対する優位性ともなったはずだ。
空港は「単体では採算が危ういかも知れないお土産屋」を入居させるリスクを回避できるし、
駅と一体になっていれば、JRはレベルの高いノウハウで空港と一緒にあるメリットで商売が出来ただろう。
花巻空港は、関係当局の働きかけもあって、
なんとか生きながらえているとの感も否定できないが、
お隣宮城県の仙台空港には仙台駅からの「空港直通鉄道」が思いのほか早めに開通とのこと。
花巻は羽田などと違ってビジネス路線としては頻繁に利用されていないだけに、この影響は免れないだろう。
たまに乗るなら、新幹線に乗ってアクセス鉄道に乗って、という煩わしさも旅の楽しみの一つだ。
岩手県南部の住民なら尚の事、意識は既に「宮城県寄り」である。
仙台へ流れる客は後を絶たないと思う。
客が増えれば路線は増える、路線が増えれば客は流れる、
そんな繰り返しで、不採算路線は削られる一方。
その一端が、花巻空港の福岡便廃止。
現状で、これを繋ぎとめるのは不可能だろう。
何しろ、「花巻空港」という名前はやっぱり、認知されにくい。
小松や千歳ほどの知名度は無い。
違和感はあるけど、本来「岩手空港」が妥当なんだろう。
初めて花巻空港を利用したとき、「県庁みたいだな」って思った。
展示物やデザインから来る「県の威信を掛けました!」っていう意気込みは凄いんだけど、
どうも建物に回遊性がなくて、開港以来、時が止まってしまったような印象。
最低二時間前に来てチェックして、その後の時間つぶしにストレスをためてしまう。
持て余して、目の前のバイパス渡って吉牛食べに行ったよ。(笑)
もし次長が、莫大な余剰金を抱える篤志家なら、
紫波あたりの土地を買収して新空港を造り、
新幹線の新駅を誘致して丸ごと岩手県にプレゼントしたいところだが、
(花巻空港跡地は花巻農業高校の敷地にして下さい・・・・)
残念ながら今のところ持ち合わせが無いので、
せめて新しいターミナルビルは内容を充実して欲しい。
コンビニの一つも入れるとか、温泉施設と手を結ぶとか、さ。
国道4号線沿いにあって一般の消費需要が見込めるのに、あれではあまりに寂しい。
空港でマルカンのどでかいソフトクリームでも食べられたら、
それだけで岩手の印象が増すだろうに・・・・。
「岩手って、空港無いんですよね」って言われた。
「いや、ありますよ一応」って答えたら、
「岩手空港なんてありましたかぁ?」と返された。
・・・・無いよ、そんなもん。
花巻ってそもそも無名だし、岩手という県すらもマイナー。
岩手を知らない人に説明するのは一苦労。
「花巻空港では無名だから、東北空港にすれば即解決」
ってわけにいかないけど、
「いわて花巻空港」っていう苦肉でもなんでもない「愛称」とやらが
公式に認められているところに、一番の「痛さ」を感じる。
問題の所在が、あまりにも曖昧。
それ、愛称じゃなくて「いわて」つけただけなんちゃうんか?
岩手の花巻にある空港をPRしたいのは、
岩手県民に対してなんちゃうんか、と。
各地と結ばれるはずの空港利用促進ってのは、
何も県民だけではなく、岩手を訪れるお客人を増やすことにもあるわけで。
お客さんに分かりにくい玄関というのは、
店で言えば「客を寄せたくないの?」という勘ぐりにさえ繋がる。
「空港保全のために」県民への利用を促したいのはわかるけど、
離着陸時間なんかより、旅のプランを広報するべきで、
もっと「民間の感覚」で利用促進をアピールすべきなんじゃないのかな?
川徳がやってる各地の物産展なんかに、積極的に関わって協働すべきだと思うんだけど。
それが、関わる全ての利益に繋がるわけだから。
そもそも、岩手県の中央部に空港を置くってことが、有利な選択だったのか。
次長は「人口集積のある盛岡側に寄せて置けばよかったのでは?」と今さらながら思うけど。
あるいは気流とか、気象条件の問題があって、あそこに建設したのかも知れない。
が、だとすれば東北新幹線建設ルートが花巻を通過するときに、
真っ直ぐ進んで「新幹線花巻空港駅」をつくっておくべきではなかったのか。
現状の、「新花巻・花巻空港・花巻」の三駅体制というのは、いかにも観光客には不親切だ。
北上からも盛岡からも、新幹線で20分弱で着く空港って、魅力的だ。
たとえ飛行機と新幹線が競合路線とは言え、
総合的に見て、新幹線と空港が直結しているメリットは他所に対する優位性ともなったはずだ。
空港は「単体では採算が危ういかも知れないお土産屋」を入居させるリスクを回避できるし、
駅と一体になっていれば、JRはレベルの高いノウハウで空港と一緒にあるメリットで商売が出来ただろう。
花巻空港は、関係当局の働きかけもあって、
なんとか生きながらえているとの感も否定できないが、
お隣宮城県の仙台空港には仙台駅からの「空港直通鉄道」が思いのほか早めに開通とのこと。
花巻は羽田などと違ってビジネス路線としては頻繁に利用されていないだけに、この影響は免れないだろう。
たまに乗るなら、新幹線に乗ってアクセス鉄道に乗って、という煩わしさも旅の楽しみの一つだ。
岩手県南部の住民なら尚の事、意識は既に「宮城県寄り」である。
仙台へ流れる客は後を絶たないと思う。
客が増えれば路線は増える、路線が増えれば客は流れる、
そんな繰り返しで、不採算路線は削られる一方。
その一端が、花巻空港の福岡便廃止。
現状で、これを繋ぎとめるのは不可能だろう。
何しろ、「花巻空港」という名前はやっぱり、認知されにくい。
小松や千歳ほどの知名度は無い。
違和感はあるけど、本来「岩手空港」が妥当なんだろう。
初めて花巻空港を利用したとき、「県庁みたいだな」って思った。
展示物やデザインから来る「県の威信を掛けました!」っていう意気込みは凄いんだけど、
どうも建物に回遊性がなくて、開港以来、時が止まってしまったような印象。
最低二時間前に来てチェックして、その後の時間つぶしにストレスをためてしまう。
持て余して、目の前のバイパス渡って吉牛食べに行ったよ。(笑)
もし次長が、莫大な余剰金を抱える篤志家なら、
紫波あたりの土地を買収して新空港を造り、
新幹線の新駅を誘致して丸ごと岩手県にプレゼントしたいところだが、
(花巻空港跡地は花巻農業高校の敷地にして下さい・・・・)
残念ながら今のところ持ち合わせが無いので、
せめて新しいターミナルビルは内容を充実して欲しい。
コンビニの一つも入れるとか、温泉施設と手を結ぶとか、さ。
国道4号線沿いにあって一般の消費需要が見込めるのに、あれではあまりに寂しい。
空港でマルカンのどでかいソフトクリームでも食べられたら、
それだけで岩手の印象が増すだろうに・・・・。
2007.01.26
消費と給食費
給食費を支払わない親が、増えているらしい。
テレビは「外車を乗り回してるのに給食費を払わないバカ親」の増加を嘆き、
「学校も教師も事務員も困惑」という大筋の流れで報道を重ねる。
「豊かな時代の親のモラル低下」は、その大きな理由だろうが、
必ずしも、そればかりではないだろう。
まず、「実際に貧しくなっている家庭」が本当に生まれていると思う。
衣食住に事足りる人間から見れば、この現代にそんな家庭があるのか、と思われるだろうが、
昔に比べ、貧しさと言うものが見えにくくなっている現状はあると思う。
なぜかと言えば、「貧しさ」という概念そのものが分からない世代が増えているからだ。
北海道、沖縄、宮城、岩手と、
軒並み「日本の端っこ」に、給食費滞納上位県は目立つ。
これらの道県は、県民所得も俄然低い。
実際に生活に困窮して支払えない家庭は多いと思う。
共通して言えるのは、同じ県の中での格差が顕著なことだ。
また、消費教育や食育なんていう、
「生活教育の貧しさ」が響いている「教育貧乏」の可能性も否定できない。
「バランスよく食べる」という基本を外れれば、
健康を害し医療費を要し所得を減らす。
身の丈以上の浪費を繰り返せば、身を滅ぼす。
学校の勉強ができるかできないかという問題よりも、
現状を把握し、生きてゆくための基礎知識が伝承されるかどうかが、大切だと思う。
先日、タレントのビートたけしが幼少時を振り返って
「うちって貧乏だったんだって気づいたんだ。早く気づいて良かったよ、あの時」とコメントしていた。
彼の母親はその自覚強く、「貧乏から抜け出すには教育しかない」と彼を教育したという。
勉強させることだけが教育ではなくて、
勉強をしなければならない理由として「無知を知ることの大切さ」を教えたことこそが、彼女にとって最大の教育だったのだ。
今、貧しさのレベルは「往時の水準」では計れない。
空腹を満たすことが第一の目標ではないからだ。
金が無くとも、高級外車をローンで購入して乗り回してしまう。
返済計画が練られないのに、欲求のままに資金を調達する。
行き詰って削る順番を違える。
そういう生活力の低さ、つまり「教育の欠如」が、親自体に見られるのではないか?
今月12日に内閣府が発表した、国民経済計算にある家計純貯蓄率を見れば、最新の2005年度でその数値は過去最低だ。
最高だった1975年度の23.1%から比べると、実に8分の1弱。
しかもこの大きな要因が、「消費の伸び」だというから驚く。
「義務教育だから給食費を払う必要は無い」と断言する親がいるそうだが、
これこそが「親の水準の低さ」を物語っている。
義務教育の「義務」とは、「親が教育を受けさせる義務」であって、「学校が教育を与える義務」ではない。
自分の義務を棚に上げて、「払わなかったから給食を食べさせないのは子どもが可哀想」とは、およそ親の資格さえ問われる。
義務教育の規定を知らない「バカ親」が、
「義務教育だから給食費は払う必要が無いのよ」と子どもに教育すれば、
ここに「バカの再生産」が行なわれるってわけ。
その理論でいけば、教材からノートからペンの類まで、すべて義務教育で学ぶ子どもの使用物は学校支給でなければならないはずっ、と唱えるべきなんだけど、
バカ親にそんな理論武装が出来るはずもなく、
ただただ可哀想なのは、そんな親に翻弄される子どもたち。
「払わなかった奴は逃げ得じゃん」って
まともな家庭の親までも巻き込んでバカ親が増殖したとしたら、
感染した人間に潜在的バカの素質があったとしても他に与える影響は大きく、
さらに「総バカ化」が進行するおそれは否めないわけで、
「バカ親ウィルス」は徹底的に駆除してもらいたいもの。
そして「本当に支払えない経済状況にある家庭」へのとばっちり。
貧しさが見えにくい現代だけに、この問題は混迷を極めそうです。
テレビは「外車を乗り回してるのに給食費を払わないバカ親」の増加を嘆き、
「学校も教師も事務員も困惑」という大筋の流れで報道を重ねる。
「豊かな時代の親のモラル低下」は、その大きな理由だろうが、
必ずしも、そればかりではないだろう。
まず、「実際に貧しくなっている家庭」が本当に生まれていると思う。
衣食住に事足りる人間から見れば、この現代にそんな家庭があるのか、と思われるだろうが、
昔に比べ、貧しさと言うものが見えにくくなっている現状はあると思う。
なぜかと言えば、「貧しさ」という概念そのものが分からない世代が増えているからだ。
北海道、沖縄、宮城、岩手と、
軒並み「日本の端っこ」に、給食費滞納上位県は目立つ。
これらの道県は、県民所得も俄然低い。
実際に生活に困窮して支払えない家庭は多いと思う。
共通して言えるのは、同じ県の中での格差が顕著なことだ。
また、消費教育や食育なんていう、
「生活教育の貧しさ」が響いている「教育貧乏」の可能性も否定できない。
「バランスよく食べる」という基本を外れれば、
健康を害し医療費を要し所得を減らす。
身の丈以上の浪費を繰り返せば、身を滅ぼす。
学校の勉強ができるかできないかという問題よりも、
現状を把握し、生きてゆくための基礎知識が伝承されるかどうかが、大切だと思う。
先日、タレントのビートたけしが幼少時を振り返って
「うちって貧乏だったんだって気づいたんだ。早く気づいて良かったよ、あの時」とコメントしていた。
彼の母親はその自覚強く、「貧乏から抜け出すには教育しかない」と彼を教育したという。
勉強させることだけが教育ではなくて、
勉強をしなければならない理由として「無知を知ることの大切さ」を教えたことこそが、彼女にとって最大の教育だったのだ。
今、貧しさのレベルは「往時の水準」では計れない。
空腹を満たすことが第一の目標ではないからだ。
金が無くとも、高級外車をローンで購入して乗り回してしまう。
返済計画が練られないのに、欲求のままに資金を調達する。
行き詰って削る順番を違える。
そういう生活力の低さ、つまり「教育の欠如」が、親自体に見られるのではないか?
今月12日に内閣府が発表した、国民経済計算にある家計純貯蓄率を見れば、最新の2005年度でその数値は過去最低だ。
最高だった1975年度の23.1%から比べると、実に8分の1弱。
しかもこの大きな要因が、「消費の伸び」だというから驚く。
「義務教育だから給食費を払う必要は無い」と断言する親がいるそうだが、
これこそが「親の水準の低さ」を物語っている。
義務教育の「義務」とは、「親が教育を受けさせる義務」であって、「学校が教育を与える義務」ではない。
自分の義務を棚に上げて、「払わなかったから給食を食べさせないのは子どもが可哀想」とは、およそ親の資格さえ問われる。
義務教育の規定を知らない「バカ親」が、
「義務教育だから給食費は払う必要が無いのよ」と子どもに教育すれば、
ここに「バカの再生産」が行なわれるってわけ。
その理論でいけば、教材からノートからペンの類まで、すべて義務教育で学ぶ子どもの使用物は学校支給でなければならないはずっ、と唱えるべきなんだけど、
バカ親にそんな理論武装が出来るはずもなく、
ただただ可哀想なのは、そんな親に翻弄される子どもたち。
「払わなかった奴は逃げ得じゃん」って
まともな家庭の親までも巻き込んでバカ親が増殖したとしたら、
感染した人間に潜在的バカの素質があったとしても他に与える影響は大きく、
さらに「総バカ化」が進行するおそれは否めないわけで、
「バカ親ウィルス」は徹底的に駆除してもらいたいもの。
そして「本当に支払えない経済状況にある家庭」へのとばっちり。
貧しさが見えにくい現代だけに、この問題は混迷を極めそうです。
2007.01.23
再チャレンジ
朝日新聞が、年頭に一面で「ロストジェネレーション」という特集を組んでいた。
元来、その言葉には
「第一次大戦後に新たな価値観を求めて彷徨った若者たち」
といった風な意味が込められ使われていて、
今回この語が使われているのは、朝日新聞社独自の見解なのだと思う。
少なくとも、「あの人、ロストジェネレーションだよね」なんて聞いたことが無い。
「バブル崩壊後の就職難で、正社員になれなかった人間が多い世代(25歳〜35歳)」を指すには、
あまりにも美しく切なく、またどこかぼんやりとした希望、転換への期待を匂わせる表現ではある。
まずもっておかしな話なんだけど、
世の中には、大学を出て企業に勤めるという流れを基礎単位にしている風潮がある。
生命保険のライフプランを見れば一目瞭然だが、望ましい生涯設計というものが暗黙のうちに決められていて、
これを外れた途端に「誤算」そして「不幸」、みたいな暗黙の圧力が存在しているのである。
まずは大学を出た人だけに焦点を絞って、
その中で卒業直後に正規雇用を得られなかった人々を
「やり直しの利かない可哀想な人たち」と断じた印象は拭えない。
だとすれば、大学を出なかった人はどう表現されてしまうのか。
また、中途退職して新たな道を歩んだのは、何も大卒の中に一つまみしかいない「いわゆるエリート層」ばかりではない。
これを採り上げるのであれば、今後「大学進学率が上昇した今の高卒労働者の環境」まで採り上げて欲しいものだ。
世の中には、いろんな人がいて社会を成立させているんだから。
言いたいことは、よく分かるのだ。
ただ、今後の期待も込めて言っておきたい。
大卒でいずれにも就職が決まらなかった「就職浪人」と呼ばれる人々が、
そうそう簡単に企業へ入社できないことを、次長は知っている。
かつてバブル世代には、新卒でどこにも入社できないと言うことはあり得なかった。
が、そんな中でも「就職浪人」は疎んじられたのである。
近頃では、新卒でも就職後3年以内に辞めてゆく若い世代が増えているのも、知っている。
けれど一方で、着実なステップアップを重ねる人間が一部には存在する。
彼らがそれほど社会実績を重ねているわけも無く、
むしろ身軽さと言う点で勝っているに過ぎない。
努力がないとは言わないが、その上の世代よりは執着力が無い。
反面、一生一度の仕事、と粘り強い人間よりも、
時代の趨勢をキャッチして流れに乗った方が、むしろいい場合が増えた。
結論を言えば、再チャレンジが利きにくいのは昔から変わらない。
時代は進むにつれて、社会は明確な区別を容認し、格差は広がっている。
朝日新聞が「ロストジェネレーション」と呼ぶ年代の人々は、
他世代と相対的に見て、「努力をしても結実しなかった世代」だ。
「楽をしてきた上の世代」と「楽を選ぼうとする世代」に挟まれ、
「楽することを軽蔑し、努力を冷ややかに見ている世代」かも知れない。
人口が多く競争の激しい時期を過ごした彼らは、堅実で優秀だと思う。
しかし、認められて花開く機会に乏しく、どこまでも不完全燃焼。
達成感のない世代に未婚率が高いのは当たり前だと思う。
相対的に実力未満の評価を下され、将来すら見えないはずだ。
富を生みにくい労働形態は、その子の世代に「教育投資力」という形で相続、継承される。
常に競争にさらされてきた年代は、お金が無ければ高い教育が受けられない事実を、身をもって知っている。
誰も自分が、その子が辛い思いをすると知って、やみ雲に子を育てたりはしない。
何より自分自身が、いまだ満足な目標を達成できていないのだから。
そんな彼らを「ロスト=失われた」と評するのは、あまりに酷である。
折も折、バブル世代のそのまんま東氏が、
「究極の再チャレンジ」で宮崎県知事に当選した。
いわばどん底からトップへの返り咲き。
これは時代の要請でもあろうが、大なり小なりの「成功体験」を基にした
彼自身の努力の結果だと思う。
「ロストジェネレーション」がこれを為しえるかと言えば、これは甚だ疑問だ。
一度も成功したことのない人間が夢見る「再チャレンジ」には、
具体的なイメージが無い。
企業は、成功体験を持つ人間を採用したがる。
およそ頭脳明晰とはかけ離れていても、なんとか部の主将だった、なんて聞くとお勉強の出来不出来はさておいて、
その名声と自信に掛けてしまう。
ある意味、怖いことでもあるが。
それだけ「成功体験」と「自信」というものが重要であり、
なかなか生み出しにくい要素だと企業が感じているからだろう。
逆に言えば、
「ロストジェネレーション」がどこかで成功体験を得ない限り、
その人口からして、日本の将来の行く末が危ういのだ。
この年代は、地方に生まれてそのまま地方に残った人口がもっとも多いのだと言う。
それは受験競争が厳しく、都会へ出ることが叶わなかった人間が多いからだそうだ。
都会へ出た人間は、いま軒並み「IT長者」となって都会を席巻している。
そしてその行く末もそれぞれ、悲喜こもごもだ。
一方、バブルの残像さえ知らず、田舎にくすぶっている頭脳が眠っている。
この年代を生かすことこそが、今後の日本のカギになると思うのだが。
元来、その言葉には
「第一次大戦後に新たな価値観を求めて彷徨った若者たち」
といった風な意味が込められ使われていて、
今回この語が使われているのは、朝日新聞社独自の見解なのだと思う。
少なくとも、「あの人、ロストジェネレーションだよね」なんて聞いたことが無い。
「バブル崩壊後の就職難で、正社員になれなかった人間が多い世代(25歳〜35歳)」を指すには、
あまりにも美しく切なく、またどこかぼんやりとした希望、転換への期待を匂わせる表現ではある。
まずもっておかしな話なんだけど、
世の中には、大学を出て企業に勤めるという流れを基礎単位にしている風潮がある。
生命保険のライフプランを見れば一目瞭然だが、望ましい生涯設計というものが暗黙のうちに決められていて、
これを外れた途端に「誤算」そして「不幸」、みたいな暗黙の圧力が存在しているのである。
まずは大学を出た人だけに焦点を絞って、
その中で卒業直後に正規雇用を得られなかった人々を
「やり直しの利かない可哀想な人たち」と断じた印象は拭えない。
だとすれば、大学を出なかった人はどう表現されてしまうのか。
また、中途退職して新たな道を歩んだのは、何も大卒の中に一つまみしかいない「いわゆるエリート層」ばかりではない。
これを採り上げるのであれば、今後「大学進学率が上昇した今の高卒労働者の環境」まで採り上げて欲しいものだ。
世の中には、いろんな人がいて社会を成立させているんだから。
言いたいことは、よく分かるのだ。
ただ、今後の期待も込めて言っておきたい。
大卒でいずれにも就職が決まらなかった「就職浪人」と呼ばれる人々が、
そうそう簡単に企業へ入社できないことを、次長は知っている。
かつてバブル世代には、新卒でどこにも入社できないと言うことはあり得なかった。
が、そんな中でも「就職浪人」は疎んじられたのである。
近頃では、新卒でも就職後3年以内に辞めてゆく若い世代が増えているのも、知っている。
けれど一方で、着実なステップアップを重ねる人間が一部には存在する。
彼らがそれほど社会実績を重ねているわけも無く、
むしろ身軽さと言う点で勝っているに過ぎない。
努力がないとは言わないが、その上の世代よりは執着力が無い。
反面、一生一度の仕事、と粘り強い人間よりも、
時代の趨勢をキャッチして流れに乗った方が、むしろいい場合が増えた。
結論を言えば、再チャレンジが利きにくいのは昔から変わらない。
時代は進むにつれて、社会は明確な区別を容認し、格差は広がっている。
朝日新聞が「ロストジェネレーション」と呼ぶ年代の人々は、
他世代と相対的に見て、「努力をしても結実しなかった世代」だ。
「楽をしてきた上の世代」と「楽を選ぼうとする世代」に挟まれ、
「楽することを軽蔑し、努力を冷ややかに見ている世代」かも知れない。
人口が多く競争の激しい時期を過ごした彼らは、堅実で優秀だと思う。
しかし、認められて花開く機会に乏しく、どこまでも不完全燃焼。
達成感のない世代に未婚率が高いのは当たり前だと思う。
相対的に実力未満の評価を下され、将来すら見えないはずだ。
富を生みにくい労働形態は、その子の世代に「教育投資力」という形で相続、継承される。
常に競争にさらされてきた年代は、お金が無ければ高い教育が受けられない事実を、身をもって知っている。
誰も自分が、その子が辛い思いをすると知って、やみ雲に子を育てたりはしない。
何より自分自身が、いまだ満足な目標を達成できていないのだから。
そんな彼らを「ロスト=失われた」と評するのは、あまりに酷である。
折も折、バブル世代のそのまんま東氏が、
「究極の再チャレンジ」で宮崎県知事に当選した。
いわばどん底からトップへの返り咲き。
これは時代の要請でもあろうが、大なり小なりの「成功体験」を基にした
彼自身の努力の結果だと思う。
「ロストジェネレーション」がこれを為しえるかと言えば、これは甚だ疑問だ。
一度も成功したことのない人間が夢見る「再チャレンジ」には、
具体的なイメージが無い。
企業は、成功体験を持つ人間を採用したがる。
およそ頭脳明晰とはかけ離れていても、なんとか部の主将だった、なんて聞くとお勉強の出来不出来はさておいて、
その名声と自信に掛けてしまう。
ある意味、怖いことでもあるが。
それだけ「成功体験」と「自信」というものが重要であり、
なかなか生み出しにくい要素だと企業が感じているからだろう。
逆に言えば、
「ロストジェネレーション」がどこかで成功体験を得ない限り、
その人口からして、日本の将来の行く末が危ういのだ。
この年代は、地方に生まれてそのまま地方に残った人口がもっとも多いのだと言う。
それは受験競争が厳しく、都会へ出ることが叶わなかった人間が多いからだそうだ。
都会へ出た人間は、いま軒並み「IT長者」となって都会を席巻している。
そしてその行く末もそれぞれ、悲喜こもごもだ。
一方、バブルの残像さえ知らず、田舎にくすぶっている頭脳が眠っている。
この年代を生かすことこそが、今後の日本のカギになると思うのだが。
2007.01.21
若者の仕事
「企業より起業へ」
今日び、新たに会社を興す若者が脚光を浴びている。
一方で、正社員採用の手控えで「契約社員」「派遣社員」が増加、
昔なら「定職にも就かないで」とオトナたちに一蹴されるような状況が、
ごく当たり前のものとなっている。
一方で、契約や派遣がそんなに良くないかといえば、
当の本人は苦痛でも苦行でもなかったりするから、面白い。
むしろ、いつ駄目になるかもしれない一定の会社に縛られて、
サービス残業を当たり前にさせられて、
さらにその行為にお墨付きが得られるかも知れない危機から比べたら、
将来の保証が無いという一点についてさえ、
正社員と何ら変わらないのが実態だ。
しかも契約社員に限って言えば、大都市ほどその時給は高い。
地方の契約社員とは、全く別の雇用契約であるとさえ、言える。
むしろ、働いた分だけの給与を適正に支出して頂く、
という至極真っ当な権利を、派遣ならばエージェンシーを経由して
正当に主張できると言う点で、正社員よりも有利である。
正社員がそれを権利として主張したとき、
経営者から見た「義務」を履行していないと責められるのは、
想像に難くない。
義務を負わずに何が権利か、というのは常套句。
結局、正社員と言う選択が保証を伴う雇用形態だったのは、
いまや昔話でしかないと、次長は思う。
結果、いつでも後腐れなく辞められるのは、むしろ優位である。
ある者は転職し、ある者は起業し、ある者はステップアップを目指して海外へと旅立つのだ。
中央官庁などでは、国費で留学してそのまま辞めてしまう役人もいる。
それが後に日本で国のためになるのなら、それはそれでいいんじゃないかと次長は思うけど。
さて、若者が起業するとき、
そこに絶対的に欠けているのは、通常「資金力」である。
ところが世間には、その謎を追うことなく
「あの人は若くして起業家だ。立派だ。」と誉めそやす。
この場合、若者には二つあるのである。
一つは、株で儲けたデイトレーダー。
もっとも、デイトレードの道に入って敢えて起業するのは
「趣味・道楽」の領域でしかないのだが、
原資がが「IT株」だったりすると、理解は早い。
また、蒐集趣味が嵩じて店を開くパターンもある。
もう一つが、「親の資産」である。
厄介なことだが、若者の所得格差が広がっているのは、
その親の世代で既に「持てる者・持たざる者」の差が開いているのも一因である。
なんとなく都会へ出て遊びを覚えて、
なんとなく飽きたから田舎へ帰って、
なんとなく趣味の店を開きました、と言う場合、
資産家の令嬢・子息であることが少なくない。
銀行は、「なんとなく金を貸したり」はしないのである。
しかし、両者を比較して、
責められるのは前者であることが多い。
虚業でアブク銭を稼いで、訳の分からない商売に転じた、と非難される。
そういう人間は、「成り上がり」と責められる。
それが金融に対する学習の成果だとしても、
世間は「努力の結果」と認めるのに相当の時間を掛ける。
これは、十分な「格差問題」なのだ。
努力が認められる社会でなくなっているのは、
他でもなく社会全体が「格差容認社会」に向かっているからに他ならない。
能力の差を認めるべき、と言う意見がこれを肯定するが、
能力の差を評価する土壌の醸成が追いつかない。
「近頃の若者には、やる気が無い」と責める前に、
そういう「時代の気分」を作ってきた社会に思いを馳せるべきだろう。
実際、おしなべて「若者にやる気がない」とは思わない。
社会に対する関心が低いことを除けば。
社会に関心が低い若者が増えると言うことは、
格差社会に対する自覚が失われていると言うことでもある。
これは果たして、誰にとって都合のいい状況なのか。
「冨の固定化」が、新たな意識の階層化を生み出してゆく。
このことに、注意深くなければならないだろうねぇ。
今日び、新たに会社を興す若者が脚光を浴びている。
一方で、正社員採用の手控えで「契約社員」「派遣社員」が増加、
昔なら「定職にも就かないで」とオトナたちに一蹴されるような状況が、
ごく当たり前のものとなっている。
一方で、契約や派遣がそんなに良くないかといえば、
当の本人は苦痛でも苦行でもなかったりするから、面白い。
むしろ、いつ駄目になるかもしれない一定の会社に縛られて、
サービス残業を当たり前にさせられて、
さらにその行為にお墨付きが得られるかも知れない危機から比べたら、
将来の保証が無いという一点についてさえ、
正社員と何ら変わらないのが実態だ。
しかも契約社員に限って言えば、大都市ほどその時給は高い。
地方の契約社員とは、全く別の雇用契約であるとさえ、言える。
むしろ、働いた分だけの給与を適正に支出して頂く、
という至極真っ当な権利を、派遣ならばエージェンシーを経由して
正当に主張できると言う点で、正社員よりも有利である。
正社員がそれを権利として主張したとき、
経営者から見た「義務」を履行していないと責められるのは、
想像に難くない。
義務を負わずに何が権利か、というのは常套句。
結局、正社員と言う選択が保証を伴う雇用形態だったのは、
いまや昔話でしかないと、次長は思う。
結果、いつでも後腐れなく辞められるのは、むしろ優位である。
ある者は転職し、ある者は起業し、ある者はステップアップを目指して海外へと旅立つのだ。
中央官庁などでは、国費で留学してそのまま辞めてしまう役人もいる。
それが後に日本で国のためになるのなら、それはそれでいいんじゃないかと次長は思うけど。
さて、若者が起業するとき、
そこに絶対的に欠けているのは、通常「資金力」である。
ところが世間には、その謎を追うことなく
「あの人は若くして起業家だ。立派だ。」と誉めそやす。
この場合、若者には二つあるのである。
一つは、株で儲けたデイトレーダー。
もっとも、デイトレードの道に入って敢えて起業するのは
「趣味・道楽」の領域でしかないのだが、
原資がが「IT株」だったりすると、理解は早い。
また、蒐集趣味が嵩じて店を開くパターンもある。
もう一つが、「親の資産」である。
厄介なことだが、若者の所得格差が広がっているのは、
その親の世代で既に「持てる者・持たざる者」の差が開いているのも一因である。
なんとなく都会へ出て遊びを覚えて、
なんとなく飽きたから田舎へ帰って、
なんとなく趣味の店を開きました、と言う場合、
資産家の令嬢・子息であることが少なくない。
銀行は、「なんとなく金を貸したり」はしないのである。
しかし、両者を比較して、
責められるのは前者であることが多い。
虚業でアブク銭を稼いで、訳の分からない商売に転じた、と非難される。
そういう人間は、「成り上がり」と責められる。
それが金融に対する学習の成果だとしても、
世間は「努力の結果」と認めるのに相当の時間を掛ける。
これは、十分な「格差問題」なのだ。
努力が認められる社会でなくなっているのは、
他でもなく社会全体が「格差容認社会」に向かっているからに他ならない。
能力の差を認めるべき、と言う意見がこれを肯定するが、
能力の差を評価する土壌の醸成が追いつかない。
「近頃の若者には、やる気が無い」と責める前に、
そういう「時代の気分」を作ってきた社会に思いを馳せるべきだろう。
実際、おしなべて「若者にやる気がない」とは思わない。
社会に対する関心が低いことを除けば。
社会に関心が低い若者が増えると言うことは、
格差社会に対する自覚が失われていると言うことでもある。
これは果たして、誰にとって都合のいい状況なのか。
「冨の固定化」が、新たな意識の階層化を生み出してゆく。
このことに、注意深くなければならないだろうねぇ。
2007.01.20
テレビ
「言葉は生き物」と言う。
どんなに制御してみても、つかみ所の無い言葉は形を変えて、
時代に沿って使われ方も変わってゆく、と言う。
現代の言葉の変化のスピードは、かつて無いほどに加速度的だ。
が、一方であっという間に廃れて消えてゆくのも事実。
方言がブームだと言われたのもつい最近だが、今や話題にすらならない。
そんな移ろいの中で、いまだ勢力を持つのが「テレビ」である。
いくらネット全盛の今でも、好むと好まざるに関わらず、
一方的に情報を噴出してくれるテレビ。
ある程度の規制はあるんだろうが、どうにも解せない「言葉遣い」が最近多い。
例を挙げれば、
「全然大丈夫だって・・・」
「就活は・・・」
無論、それが一般的に使われている言葉、という前提であるのは分かるのだが、
送り手に「社会に影響を与えている自覚」があれば、是非とも改めてもらいたい表現だ。
「テレビで言っていたから間違いない」と信じている人がいまだ少なくない現状では、
そこに「本当を知らない人」への思わぬ教育効果が内在しているのだから。
「全然」の後には、否定形が繋がるのが本当。
ここに敢えて全然をつけなくともよい。
しかもアナウンサーが読むことに違和感を憶える。
さすがに本人には自覚があるんだろうが、
これはこう読まなければならない「お膳立て」がしてあるんだろうか。
だとすれば、重ねて気の毒。
「就活」を連呼する若いタレントに、次長は共感できない。
たとえ若者が、その言葉に親近感を覚えたとしても、
一生に何度もあるわけではない重要な「就職活動」を
百戦錬磨のベテラン風情で「就活」と軽んじて欲しくない。
テレビに大きな影響力がある今、
テレビが紹介するものは売れる。
さらにテレビ番組が「良い」と喧伝すれば、なお売れる。
例えば世間の関心の高い、健康番組で「納豆がいい」といわれれば、
一般大衆はそれに応じて素直に納豆を買い漁る。
そしてこの度、その内容が「嘘」だと判明した。
「需要に間に合いません」と小売業者は客に謝罪し、
流通業者と生産業者を巻き込んで、お詫び合戦。
その結果、「情報そのものが嘘でした」と謝罪されては、
世論を動かした責任は重い。
売れると思って身の丈以上に納豆を生産した業者と、
それを運ばなければならないと休日返上の流通業者と、
売れ続けることを確信して仕入れた小売業者に対して、謝罪はないのでしょうか?
もしここで納豆が売れなければ、
大変な損失をこうむる人々が、沢山いるわけです。
もっとも、近年話題の「消費期限切れの商品」を売るわけにはいかないのですから。(笑)
たかがテレビ、されどテレビ。
思惑と思想を「看板」というフィルターを通して
信用と信頼に変えてゆくテレビって、やっぱり脅威です。
どんなに制御してみても、つかみ所の無い言葉は形を変えて、
時代に沿って使われ方も変わってゆく、と言う。
現代の言葉の変化のスピードは、かつて無いほどに加速度的だ。
が、一方であっという間に廃れて消えてゆくのも事実。
方言がブームだと言われたのもつい最近だが、今や話題にすらならない。
そんな移ろいの中で、いまだ勢力を持つのが「テレビ」である。
いくらネット全盛の今でも、好むと好まざるに関わらず、
一方的に情報を噴出してくれるテレビ。
ある程度の規制はあるんだろうが、どうにも解せない「言葉遣い」が最近多い。
例を挙げれば、
「全然大丈夫だって・・・」
「就活は・・・」
無論、それが一般的に使われている言葉、という前提であるのは分かるのだが、
送り手に「社会に影響を与えている自覚」があれば、是非とも改めてもらいたい表現だ。
「テレビで言っていたから間違いない」と信じている人がいまだ少なくない現状では、
そこに「本当を知らない人」への思わぬ教育効果が内在しているのだから。
「全然」の後には、否定形が繋がるのが本当。
ここに敢えて全然をつけなくともよい。
しかもアナウンサーが読むことに違和感を憶える。
さすがに本人には自覚があるんだろうが、
これはこう読まなければならない「お膳立て」がしてあるんだろうか。
だとすれば、重ねて気の毒。
「就活」を連呼する若いタレントに、次長は共感できない。
たとえ若者が、その言葉に親近感を覚えたとしても、
一生に何度もあるわけではない重要な「就職活動」を
百戦錬磨のベテラン風情で「就活」と軽んじて欲しくない。
テレビに大きな影響力がある今、
テレビが紹介するものは売れる。
さらにテレビ番組が「良い」と喧伝すれば、なお売れる。
例えば世間の関心の高い、健康番組で「納豆がいい」といわれれば、
一般大衆はそれに応じて素直に納豆を買い漁る。
そしてこの度、その内容が「嘘」だと判明した。
「需要に間に合いません」と小売業者は客に謝罪し、
流通業者と生産業者を巻き込んで、お詫び合戦。
その結果、「情報そのものが嘘でした」と謝罪されては、
世論を動かした責任は重い。
売れると思って身の丈以上に納豆を生産した業者と、
それを運ばなければならないと休日返上の流通業者と、
売れ続けることを確信して仕入れた小売業者に対して、謝罪はないのでしょうか?
もしここで納豆が売れなければ、
大変な損失をこうむる人々が、沢山いるわけです。
もっとも、近年話題の「消費期限切れの商品」を売るわけにはいかないのですから。(笑)
たかがテレビ、されどテレビ。
思惑と思想を「看板」というフィルターを通して
信用と信頼に変えてゆくテレビって、やっぱり脅威です。
2007.01.19
暖冬
決して「暖かい」わけじゃないんだけど、
世に言う「暖冬」で、利益不利益に泣く人笑う人、悲喜こもごも。
スキー場は雪が無いと泣くけれど、
「人口減少」と「若者のスポーツ離れ」で、
ゴルフ場営業の方が利益に繋がるっていう、ウレシイ誤算も。
エアコン・ヒーターが売れない、
使うはずだった雪かきスコップを早々と買うも用なし。
で、除雪が必要なくなったらその予算はどのように使われるのか。
これが今、一番の疑問。
どうしても消化しなければならない予算なら、
せめて雪かき用の車両、100歩譲ってスコップでも買って欲しいけど、
それがどのように使われたのか、一般市民のあずかり知らぬところとなるのか?
暖冬が、心に与える影響ってのも大きい。
寒いと外に出るのも億劫だが、陽射しと地面が見えれば、
それだけで外へ出かけたくなる気持ちが生まれる。
人が動くってことは、そこに「流れ」が生まれるということだ。
流れってのは大切ですよ、どんな場面でも。
停滞する人・場所・時間に、決してメリットは多くない。
「寒い冬には閉ざされるのが当たり前」
そんな思い込みから解き放たれて、意識は外へ向かってゆく。
「雪の無い冬」を寂しいと感じる向きもあるだろうが、
「雪の無いのが当たり前」っていう常識も世の中にはあるわけで、
「意識に流れが生まれること」も大切なわけ。
環境問題への意識然り、気候の変化を生かした商売然り、
「変化を意識する心」が、暖冬がもたらした最大の効果だと思うね。
世に言う「暖冬」で、利益不利益に泣く人笑う人、悲喜こもごも。
スキー場は雪が無いと泣くけれど、
「人口減少」と「若者のスポーツ離れ」で、
ゴルフ場営業の方が利益に繋がるっていう、ウレシイ誤算も。
エアコン・ヒーターが売れない、
使うはずだった雪かきスコップを早々と買うも用なし。
で、除雪が必要なくなったらその予算はどのように使われるのか。
これが今、一番の疑問。
どうしても消化しなければならない予算なら、
せめて雪かき用の車両、100歩譲ってスコップでも買って欲しいけど、
それがどのように使われたのか、一般市民のあずかり知らぬところとなるのか?
暖冬が、心に与える影響ってのも大きい。
寒いと外に出るのも億劫だが、陽射しと地面が見えれば、
それだけで外へ出かけたくなる気持ちが生まれる。
人が動くってことは、そこに「流れ」が生まれるということだ。
流れってのは大切ですよ、どんな場面でも。
停滞する人・場所・時間に、決してメリットは多くない。
「寒い冬には閉ざされるのが当たり前」
そんな思い込みから解き放たれて、意識は外へ向かってゆく。
「雪の無い冬」を寂しいと感じる向きもあるだろうが、
「雪の無いのが当たり前」っていう常識も世の中にはあるわけで、
「意識に流れが生まれること」も大切なわけ。
環境問題への意識然り、気候の変化を生かした商売然り、
「変化を意識する心」が、暖冬がもたらした最大の効果だと思うね。
2007.01.11
勝つ
全国高校サッカー選手権で、盛岡商業高校が優勝。
お め で と う !
「全国優勝」という文字ではなく、「全国制覇」という文字が
町なかを踊っているように見えるのはなぜだろう?
これ、何か規定があるんだろうか?
「日本一」とも、あんまり言わないよねぇ・・・遠慮?
とにかく、どんな世界でも「一位になるってこと」は、
本当に大変なことなのは変わりないけどね。
「頂点に立ったから」こそ、なんだけれど、
多くの岩手県民は期待こそあれ、まさか優勝は・・・という本音があったと思う。
誰を責めるでもないけど、優勝してすぐに祝賀ムードではなかった。
つまり、「時差・温度差がある」ってこと。
手作りでも「おめでとう」「祝・優勝」って文字が並ぶのかと思ったのに、
店も商店街も比較的クールな対応。
「お国柄」と言えばそれまでだけど、
「勝つという事に慣れていない」のが最大の要因なのだと思う。
どこが一番熱かったかといえば、当日から始まった盛岡駅・フェザンの大幅割引セールだねぇ。
OB・OGの方々が大勢いるんだろうか。
岩手・盛岡の学校が全国一になることってあんまり無くて、
どんな競技であれ、「準々決勝までいければ立派」なんていう
暗黙の了解みたいなものを享有している気がする。
これ、この地域特有のメンタリティ。
「勝てるわけないよ」という諦めとも悲壮感ともつかない感情が、
あらゆる面にこびり付いていて離れない。
確かにそれは、経済力をはじめとした「他地域との格差」を自覚した言葉でもあるのだ。
またそれは、スポーツの世界に限ったことではない。
実際、スポーツの強豪高校ってのは、私立で自由が利いて
コーチの大きな裁量に任されていて、各地から生徒をかき集めている。
プロも顔負けの施設や環境が十分に整っている。
でも、地方の公立高校が全国優勝っていう仰天のこの事実。
普通の人間が普通に努力して成し遂げた成果とはわけが違う。
格段に優れた指導力があったことは幸運だっただろうが、
同時に、色々な示唆に富む話題だと思った。
県知事も市長も応援に行ったというのは、とてもいい話題だ。
県議時代、「スポーツ立県」を掲げたという市長は、この優勝を感慨深く感じただろう。
「元気な盛岡」という盛岡ブランドの合言葉(?)に合致すると感じたかも知れない。
県知事にしても、県立高校の名誉ある地位を高めたと、讃えるだろう。
でもよく考えてみよう。
彼らの能力を伸長させるために、地域は何をなしえたのか。
そしてこれからもこの流れを継承させてゆくために、地域住民には何が出来るのか。
全国優勝してみれば、初めて「よくやった」と讃えるけれど、
これきりの祭りで終わるようでは、意味が無いのではないか?
この優勝は、岩手・盛岡の人々に「誇り」を与えた。
子どもたちには、「自分にも出来るかも知れない」という希望と契機を与えた。
そういう感情が、この地域には絶対的に不足している。
他の誰もそれを意図して行なうのは難しいのに、
無意識の努力と才能は、「誇り」という最大の副産物を生み出したのだ。
十分とはいえないであろう施設の中で、
彼らはそれでも、他の強豪をすべてなぎ倒したのである。
「もうしばらく無いね、こういうこと(優勝)は」と
ここで平然と口にするのが、東北人の悪い癖。
一度勝てたんだから、次も勝とうじゃないか、というのが九州人。
前向きに行こうよ、前向きに。
大雑把な分類だけど、そういう気概は必要。
公立学校であろうが、商業高校であろうが、
サッカーが強いという実績を伴う学校には、
それなりの方策を講じて、地域が育てていくべきだと思う。
教育と言えどもシステムとは、ソフトによってハードを動かすものだからだ。
とあるスポーツ番組で、静岡出身の元Jリーガーが、
盛岡商業の勝因を分析できていなかった。
相手校の敗因さえ、微妙だった。
「サッカー王国・静岡」という「自負」が、彼らの自信に繋がっていると感じた瞬間ではある。
彼にとって、王国以外の動向は興味の範囲外であったのかもしれない。
経済的豊かさと言う点において、
確かに地方、特に東北地方は不利だ。
サッカーだけにかける金など無い、と言われるかも知れない。
しかし、「有形無形の見えない利益」が生まれているのも確か。
商業高校の名誉なんだから、盛岡の商業界だって、どんどん協賛セールやって町を盛り上げればいい。
「応援して育てて伸ばしていこう」という気持ちならば、
誰もが今すぐにでも生み出すことが出来る。
ごく個人的には、
暖冬で浮いた除雪費用を教育予算にあててもらいたい所だけれど、
そういうシステムじゃないんだよね、行政って。
お め で と う !
「全国優勝」という文字ではなく、「全国制覇」という文字が
町なかを踊っているように見えるのはなぜだろう?
これ、何か規定があるんだろうか?
「日本一」とも、あんまり言わないよねぇ・・・遠慮?
とにかく、どんな世界でも「一位になるってこと」は、
本当に大変なことなのは変わりないけどね。
「頂点に立ったから」こそ、なんだけれど、
多くの岩手県民は期待こそあれ、まさか優勝は・・・という本音があったと思う。
誰を責めるでもないけど、優勝してすぐに祝賀ムードではなかった。
つまり、「時差・温度差がある」ってこと。
手作りでも「おめでとう」「祝・優勝」って文字が並ぶのかと思ったのに、
店も商店街も比較的クールな対応。
「お国柄」と言えばそれまでだけど、
「勝つという事に慣れていない」のが最大の要因なのだと思う。
どこが一番熱かったかといえば、当日から始まった盛岡駅・フェザンの大幅割引セールだねぇ。
OB・OGの方々が大勢いるんだろうか。
岩手・盛岡の学校が全国一になることってあんまり無くて、
どんな競技であれ、「準々決勝までいければ立派」なんていう
暗黙の了解みたいなものを享有している気がする。
これ、この地域特有のメンタリティ。
「勝てるわけないよ」という諦めとも悲壮感ともつかない感情が、
あらゆる面にこびり付いていて離れない。
確かにそれは、経済力をはじめとした「他地域との格差」を自覚した言葉でもあるのだ。
またそれは、スポーツの世界に限ったことではない。
実際、スポーツの強豪高校ってのは、私立で自由が利いて
コーチの大きな裁量に任されていて、各地から生徒をかき集めている。
プロも顔負けの施設や環境が十分に整っている。
でも、地方の公立高校が全国優勝っていう仰天のこの事実。
普通の人間が普通に努力して成し遂げた成果とはわけが違う。
格段に優れた指導力があったことは幸運だっただろうが、
同時に、色々な示唆に富む話題だと思った。
県知事も市長も応援に行ったというのは、とてもいい話題だ。
県議時代、「スポーツ立県」を掲げたという市長は、この優勝を感慨深く感じただろう。
「元気な盛岡」という盛岡ブランドの合言葉(?)に合致すると感じたかも知れない。
県知事にしても、県立高校の名誉ある地位を高めたと、讃えるだろう。
でもよく考えてみよう。
彼らの能力を伸長させるために、地域は何をなしえたのか。
そしてこれからもこの流れを継承させてゆくために、地域住民には何が出来るのか。
全国優勝してみれば、初めて「よくやった」と讃えるけれど、
これきりの祭りで終わるようでは、意味が無いのではないか?
この優勝は、岩手・盛岡の人々に「誇り」を与えた。
子どもたちには、「自分にも出来るかも知れない」という希望と契機を与えた。
そういう感情が、この地域には絶対的に不足している。
他の誰もそれを意図して行なうのは難しいのに、
無意識の努力と才能は、「誇り」という最大の副産物を生み出したのだ。
十分とはいえないであろう施設の中で、
彼らはそれでも、他の強豪をすべてなぎ倒したのである。
「もうしばらく無いね、こういうこと(優勝)は」と
ここで平然と口にするのが、東北人の悪い癖。
一度勝てたんだから、次も勝とうじゃないか、というのが九州人。
前向きに行こうよ、前向きに。
大雑把な分類だけど、そういう気概は必要。
公立学校であろうが、商業高校であろうが、
サッカーが強いという実績を伴う学校には、
それなりの方策を講じて、地域が育てていくべきだと思う。
教育と言えどもシステムとは、ソフトによってハードを動かすものだからだ。
とあるスポーツ番組で、静岡出身の元Jリーガーが、
盛岡商業の勝因を分析できていなかった。
相手校の敗因さえ、微妙だった。
「サッカー王国・静岡」という「自負」が、彼らの自信に繋がっていると感じた瞬間ではある。
彼にとって、王国以外の動向は興味の範囲外であったのかもしれない。
経済的豊かさと言う点において、
確かに地方、特に東北地方は不利だ。
サッカーだけにかける金など無い、と言われるかも知れない。
しかし、「有形無形の見えない利益」が生まれているのも確か。
商業高校の名誉なんだから、盛岡の商業界だって、どんどん協賛セールやって町を盛り上げればいい。
「応援して育てて伸ばしていこう」という気持ちならば、
誰もが今すぐにでも生み出すことが出来る。
ごく個人的には、
暖冬で浮いた除雪費用を教育予算にあててもらいたい所だけれど、
そういうシステムじゃないんだよね、行政って。
2007.01.05
栄枯盛衰
今さらなネタながら、盛岡市月が丘の「シティ青山」がスーパーを閉店とのこと。
ダイエー本体の不振を受けて、まず「ダイエー盛岡店」が消えた。
次にダイエーフランチャイズの解消が元となり、
ダイエーシティ青山から、「ダイエー」の冠が取れた。
それからわずか、一年の歳月だとか。
ダイエーからの商品供給が途絶えたことで、不振に陥ったとすれば、
ダイエーの商品は、盛岡の消費者に多大なる支持を受けていたと言うことか?
だとすれば、ダイエーはむしろ、盛岡店こそ残し、
シティ青山にこそ命脈を託すべきだったんじゃないの?w
滝沢ニュータウン、岩手県交通、シティ青山。
そんな一連の街づくりの根幹に関わる企業の戦略。
大阪で阪急がターミナル梅田に阪急百貨店を作り阪急電鉄沿いに分譲して客を誘引するような、そんな流れです。
お膝元にアルテマルカン、マイヤ、ジョイス、生協、ジャスコなど、
流通一筋で生きてきたお歴々の進出。
なんともはや、これも時代の流れです。
シティ青山が、どの程度までダイエーの指導を受けていたのか判らない。
がしかし、売場配置を替えてしまったところに「あれ?」という感想はあった。
そこまで変えるのなら、「シティ青山」という名前も変えてしまうべきだったんじゃないかと。
道行く人は、みな一様にその建物をなお「ダイエー」と呼んでいたくらいだ。
全く「ブランド力」というのは凄いし、同時に「シティ青山」っていうのは呼びにくいきらいはある。
特に、高齢者に。
商業施設はここが結構、肝だったりするんですよね。
あれだけの駐車場・フードコートがあって、
むしろ海外のショッピングセンターを彷彿とする雰囲気に、
結構期待していた。
詰まるところ、盛岡のSCってのは、食料品が人気を左右するんだなっていう教訓みたいなものを憶えたりもした。
消費者のニーズをつかむって言うのは、
時に現場担当者の直感にゆだねられる部分も大きいわけだけど、
日々移り変わる食料品の世界ってのは、熾烈な世界ですねぇ。
今しずかに世間で話題の「おやじ味噌」
http://www.ganko-oyaji.com/
が、「スーパーセンター」でさりげなく売られてたのはすごいなぁって思った。
やっぱり、目の付け所がシャープですねぇ。
ダイエー本体の不振を受けて、まず「ダイエー盛岡店」が消えた。
次にダイエーフランチャイズの解消が元となり、
ダイエーシティ青山から、「ダイエー」の冠が取れた。
それからわずか、一年の歳月だとか。
ダイエーからの商品供給が途絶えたことで、不振に陥ったとすれば、
ダイエーの商品は、盛岡の消費者に多大なる支持を受けていたと言うことか?
だとすれば、ダイエーはむしろ、盛岡店こそ残し、
シティ青山にこそ命脈を託すべきだったんじゃないの?w
滝沢ニュータウン、岩手県交通、シティ青山。
そんな一連の街づくりの根幹に関わる企業の戦略。
大阪で阪急がターミナル梅田に阪急百貨店を作り阪急電鉄沿いに分譲して客を誘引するような、そんな流れです。
お膝元にアルテマルカン、マイヤ、ジョイス、生協、ジャスコなど、
流通一筋で生きてきたお歴々の進出。
なんともはや、これも時代の流れです。
シティ青山が、どの程度までダイエーの指導を受けていたのか判らない。
がしかし、売場配置を替えてしまったところに「あれ?」という感想はあった。
そこまで変えるのなら、「シティ青山」という名前も変えてしまうべきだったんじゃないかと。
道行く人は、みな一様にその建物をなお「ダイエー」と呼んでいたくらいだ。
全く「ブランド力」というのは凄いし、同時に「シティ青山」っていうのは呼びにくいきらいはある。
特に、高齢者に。
商業施設はここが結構、肝だったりするんですよね。
あれだけの駐車場・フードコートがあって、
むしろ海外のショッピングセンターを彷彿とする雰囲気に、
結構期待していた。
詰まるところ、盛岡のSCってのは、食料品が人気を左右するんだなっていう教訓みたいなものを憶えたりもした。
消費者のニーズをつかむって言うのは、
時に現場担当者の直感にゆだねられる部分も大きいわけだけど、
日々移り変わる食料品の世界ってのは、熾烈な世界ですねぇ。
今しずかに世間で話題の「おやじ味噌」
http://www.ganko-oyaji.com/
が、「スーパーセンター」でさりげなく売られてたのはすごいなぁって思った。
やっぱり、目の付け所がシャープですねぇ。
2007.01.04
いわき
盛岡は、劇的な町の変化を語り継ぐことなく、ここまで来ているんだと思う。
結果良かったのか悪かったのか、いろんな意見があるとは思うものの、
パルコだって長崎屋だってマイカルだってシネコンだって、
悉く反対運動の末に盛岡には進出できなかった。
それを自衛と言えば自衛、でもその過程で、
盛岡の人々は消費環境の変化とか、全国的な消費環境の栄枯盛衰を
あんまり知ることなく推移してきたわけだ。
最近上映された映画「フラガール」では、
「炭鉱の町」が「観光の町」に変わる過程を、コミカルに描いている。
しかしその実、非常にドラマチックだ。
石炭需要も石油に押され、いわきの炭鉱はリストラを余儀なくされる。
主人公の親友は炭鉱の町「夕張」へ転校。
その夕張は、今や「あのような状況」で・・・。
町ぐるみで猛反対を受けながら、温泉リゾートへと移行する炭鉱企業。
一方、それに未来を見出してフラを率先して学ぶ町の少女。
都会からフラと「新しい価値観」を移入して対立する指導者。
冨司純子演じる炭鉱労働者の妻の台詞が、印象的だ。
「この町に生まれたからには、石炭を掘るだけが仕事だと思ってたけど、人を喜ばせる仕事があってもいいじゃないか」
歩んできた道のりが違うとはいえ、
東北の小さな町が「産業構造の変化」に対応してきた歴史が凝縮されてる。
福島県いわき市は、他に先駆けて広域合併を実践した自治体でもある。
スパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)に対する見方が、変わったね。
そういう思いが凝縮しているんだとは。
変化を受け止めて生きていこう、と発奮した町があれば、
明文化されない暗黙の了解で、なんとなく調和が保たれた町がある。
でも、町が変わらなくても人は変わるんだよね。
蛇足ですが、「いわき」って
「以和貴(和を以って貴しとなす)」っていう
聖徳太子の言葉に由来するって、知ってました?
結果良かったのか悪かったのか、いろんな意見があるとは思うものの、
パルコだって長崎屋だってマイカルだってシネコンだって、
悉く反対運動の末に盛岡には進出できなかった。
それを自衛と言えば自衛、でもその過程で、
盛岡の人々は消費環境の変化とか、全国的な消費環境の栄枯盛衰を
あんまり知ることなく推移してきたわけだ。
最近上映された映画「フラガール」では、
「炭鉱の町」が「観光の町」に変わる過程を、コミカルに描いている。
しかしその実、非常にドラマチックだ。
石炭需要も石油に押され、いわきの炭鉱はリストラを余儀なくされる。
主人公の親友は炭鉱の町「夕張」へ転校。
その夕張は、今や「あのような状況」で・・・。
町ぐるみで猛反対を受けながら、温泉リゾートへと移行する炭鉱企業。
一方、それに未来を見出してフラを率先して学ぶ町の少女。
都会からフラと「新しい価値観」を移入して対立する指導者。
冨司純子演じる炭鉱労働者の妻の台詞が、印象的だ。
「この町に生まれたからには、石炭を掘るだけが仕事だと思ってたけど、人を喜ばせる仕事があってもいいじゃないか」
歩んできた道のりが違うとはいえ、
東北の小さな町が「産業構造の変化」に対応してきた歴史が凝縮されてる。
福島県いわき市は、他に先駆けて広域合併を実践した自治体でもある。
スパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)に対する見方が、変わったね。
そういう思いが凝縮しているんだとは。
変化を受け止めて生きていこう、と発奮した町があれば、
明文化されない暗黙の了解で、なんとなく調和が保たれた町がある。
でも、町が変わらなくても人は変わるんだよね。
蛇足ですが、「いわき」って
「以和貴(和を以って貴しとなす)」っていう
聖徳太子の言葉に由来するって、知ってました?
2007.01.04
マンション
とあるマンションの建設現場に、
タバコの吸い殻が、山のように落ちていた。
正月三が日で、どっと憂鬱な気分に。
人通りの少ないそこから始まって、
行く先々に連なるように、ポイ捨ての跡。
昔話はしたくないけど、昔こんなに汚い道はこの町に無かったと思う。
あれだけ局所的にあるってことは、工事関係者の仕業か。
あるいは、通りすがりの車の窓からドサッ?
今やマンションの建設ラッシュは歓迎ムードで、
景観がどうのこうの言われなくなった感のある盛岡。
中心市街地振興、人口集中結構、お年寄りにはマンションを、
脱郊外、インフラ逓減、都心部回帰のシュプレヒコール(死語)。
その陰に、こんな問題が埋まっていくことも忘れないで欲しい。
町に人が集うということは、昔生きていた人が戻ってくるわけじゃない。
新しい価値観と教育で育った人が、そのままの感覚で古い町に住み着くということ。
「どこの誰それさん」っていう名刺の無い人同士が、
既存のコミュニティの中にばらばらに立ち入ってくると言うこと。
それを認めなければ、都心回帰という言葉は反故になる。
いわゆる2007年問題、大量退職者の発生で、
あるいはこの町も、幾許かのUターン者を受け入れるだろう。
仮にその人たちが「ふるさと」としてこの町を選んだとしても、
彼らとこの町の間には、優に30年以上もの開きがある。
その歳月の間に、彼ら自身もこの町も、大きく変わっているはずだ。
次長が危惧するのは、そこだ。
当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないことに気づく生活。
遠くにありて思っていたことが、単なる理想でしかなかったときの落胆。
IターンやUターンには、そんな壁が高く立ちはだかっている。
思えばこの町は、特定の産業に依存することを選ばなかった。
工場の煙で町並みが煤けることこそ無かったが
30年前とはおよそ別の空間である。
山並みや河の流れが変わらないことを除けば・・・。
そんな移ろいに「住んでいる人々」が意識的でないことも、非常に特徴的だ。
この話、次に「映画」で例えます。
タバコの吸い殻が、山のように落ちていた。
正月三が日で、どっと憂鬱な気分に。
人通りの少ないそこから始まって、
行く先々に連なるように、ポイ捨ての跡。
昔話はしたくないけど、昔こんなに汚い道はこの町に無かったと思う。
あれだけ局所的にあるってことは、工事関係者の仕業か。
あるいは、通りすがりの車の窓からドサッ?
今やマンションの建設ラッシュは歓迎ムードで、
景観がどうのこうの言われなくなった感のある盛岡。
中心市街地振興、人口集中結構、お年寄りにはマンションを、
脱郊外、インフラ逓減、都心部回帰のシュプレヒコール(死語)。
その陰に、こんな問題が埋まっていくことも忘れないで欲しい。
町に人が集うということは、昔生きていた人が戻ってくるわけじゃない。
新しい価値観と教育で育った人が、そのままの感覚で古い町に住み着くということ。
「どこの誰それさん」っていう名刺の無い人同士が、
既存のコミュニティの中にばらばらに立ち入ってくると言うこと。
それを認めなければ、都心回帰という言葉は反故になる。
いわゆる2007年問題、大量退職者の発生で、
あるいはこの町も、幾許かのUターン者を受け入れるだろう。
仮にその人たちが「ふるさと」としてこの町を選んだとしても、
彼らとこの町の間には、優に30年以上もの開きがある。
その歳月の間に、彼ら自身もこの町も、大きく変わっているはずだ。
次長が危惧するのは、そこだ。
当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないことに気づく生活。
遠くにありて思っていたことが、単なる理想でしかなかったときの落胆。
IターンやUターンには、そんな壁が高く立ちはだかっている。
思えばこの町は、特定の産業に依存することを選ばなかった。
工場の煙で町並みが煤けることこそ無かったが
30年前とはおよそ別の空間である。
山並みや河の流れが変わらないことを除けば・・・。
そんな移ろいに「住んでいる人々」が意識的でないことも、非常に特徴的だ。
この話、次に「映画」で例えます。
2007.01.02
まちの表札
盛岡駅に、新しく駅名表示がついてた。
「JR 盛岡駅 Morioka Station」
別に珍しくもなんともないんだけど、
なーんか違和感を感じてしまった。
黄土色地に漆黒っていう配色が、なのか、
あの手の看板には珍しい「毛筆書体」が、なのか、
全体の駅舎に対しての大きさが、なのか、
多分全てなんだと思うけど、どうにも腑に落ちないのだ。
これに限ったことではないんだけど、
やっぱりデザインってのは「全体のバランス」が考えられていて、
後から良かれと思って手を加えると、予期せぬ事態に陥ることがある。
そのままの状態が、それで完成形なのだから。
あの場所にあの手の駅名を貼る事は、想定されてないんだと思う。
なぜって、よく知られてるように「もりおか」っていう
石川啄木の自筆書体を拾って、あの場所にさりげなく貼ることが、
「計算されたデザイン」だからだ。
JRっていうロゴを貼るのは、まだ分かるんだけど、
どうして今さら、あんなに大きく貼り付けるんだろう?
「盛岡駅だと分からないという意見があった」というんだけど、
それなら夜中にあの文字はライトアップしてなきゃ意味が無い。
それが為されてないのは、なぜなのか?
おそらくは、「城下町盛岡」なイメージで毛筆書体にしたんだろう。
外国人観光客も来るから、英語表記を加えたんだろう。
その意図は汲めるんだが、どうにもしっくり来ない。
むしろ同時進行で貼り付けられた「FES"AN」の文字が目につくし・・・。
「いずれ慣れるよ」という人がいるんだけど、
慣れないと思うなぁ。
あれはこの町の表札だから、
ちょっと一言、言ってみたくなった。
「JR 盛岡駅 Morioka Station」
別に珍しくもなんともないんだけど、
なーんか違和感を感じてしまった。
黄土色地に漆黒っていう配色が、なのか、
あの手の看板には珍しい「毛筆書体」が、なのか、
全体の駅舎に対しての大きさが、なのか、
多分全てなんだと思うけど、どうにも腑に落ちないのだ。
これに限ったことではないんだけど、
やっぱりデザインってのは「全体のバランス」が考えられていて、
後から良かれと思って手を加えると、予期せぬ事態に陥ることがある。
そのままの状態が、それで完成形なのだから。
あの場所にあの手の駅名を貼る事は、想定されてないんだと思う。
なぜって、よく知られてるように「もりおか」っていう
石川啄木の自筆書体を拾って、あの場所にさりげなく貼ることが、
「計算されたデザイン」だからだ。
JRっていうロゴを貼るのは、まだ分かるんだけど、
どうして今さら、あんなに大きく貼り付けるんだろう?
「盛岡駅だと分からないという意見があった」というんだけど、
それなら夜中にあの文字はライトアップしてなきゃ意味が無い。
それが為されてないのは、なぜなのか?
おそらくは、「城下町盛岡」なイメージで毛筆書体にしたんだろう。
外国人観光客も来るから、英語表記を加えたんだろう。
その意図は汲めるんだが、どうにもしっくり来ない。
むしろ同時進行で貼り付けられた「FES"AN」の文字が目につくし・・・。
「いずれ慣れるよ」という人がいるんだけど、
慣れないと思うなぁ。
あれはこの町の表札だから、
ちょっと一言、言ってみたくなった。
2007.01.01
年頭ご挨拶
謹賀新年。
今年も本ブログ、誰が読んでることをも期待せず、
淡々と書き綴って行きたいと思います。
気づいていても言わないのか、
単に気づいていないだけなのか、
書くのが面倒だから書かないのか、
興味がないから関わらないということか。
この町の人たちは、本当に不思議。
「次長のブログ」は、そのどれでもなくて、
美化できない現実が目の前に立ちはだかるとき、
嫌だなぁと思いながらも、やっぱりそれを直せば
ココはもっと良くなるよ、という静かなメッセージ。
ずっとこの場所で生きつづける人へ、
ここで死ぬことはないであろう人間からの意見なんて
全く無責任で余計なお世話だとは思いながらも、
やっぱり言わずにはいられない。
それは、なぜなのか。
ココで生きられる期間は限られていて、
ここを変えてゆく力は自分には無くて、
それでいて絶対的に変わってほしい部分と、
変わって欲しくないジレンマがわだかまってる。
ふるさとっていうのは、そういうものなのかも知れないね。
今年も本ブログ、誰が読んでることをも期待せず、
淡々と書き綴って行きたいと思います。
気づいていても言わないのか、
単に気づいていないだけなのか、
書くのが面倒だから書かないのか、
興味がないから関わらないということか。
この町の人たちは、本当に不思議。
「次長のブログ」は、そのどれでもなくて、
美化できない現実が目の前に立ちはだかるとき、
嫌だなぁと思いながらも、やっぱりそれを直せば
ココはもっと良くなるよ、という静かなメッセージ。
ずっとこの場所で生きつづける人へ、
ここで死ぬことはないであろう人間からの意見なんて
全く無責任で余計なお世話だとは思いながらも、
やっぱり言わずにはいられない。
それは、なぜなのか。
ココで生きられる期間は限られていて、
ここを変えてゆく力は自分には無くて、
それでいて絶対的に変わってほしい部分と、
変わって欲しくないジレンマがわだかまってる。
ふるさとっていうのは、そういうものなのかも知れないね。
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