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2007.02.25
東国原家
東国原(ひがしこくばる)とは、実にいい苗字だ。
独りよがりを承知で言えば、この文字から浮かぶのは、壮大な平原の風景。
しかも東から日が昇る、勢い盛んなイメージ。
しかも読み方が「仰々しい」
ヒガシコクバルヒデオさん、こんな立派な名前も、そうそう無い。
九州あたりでは、「村」をムラでなくソン、
「原」をハラでなくバルと読ませることが少なくない。
ただ九州以外では、少々エキゾチックに感じられる言葉である。
蛇足だが、今やほとんどの県民が歌えない「岩手県民歌」の歌詞にある「国原」は、
クニバラという読み方である。
そんなご当地・宮崎県知事の活躍ぶりが、盛んに報じられている。
何しろ注目度とユーモアのセンスでは群を抜くから、
他の知事さんたちが、彼以上に優れた業績を為しえていたとしても、
なかなか採り上げられない。
彼の名前自身が、それを後押ししている。
宮崎に限定的な苗字には宮崎の色が出ているし、
それに意識的な彼自身も、なかなかの策士だ。
「ひがしくにはら」と間違って読んでみせる側も、ユーモア人である。
彼はバイリンガルである。
東京でテレビに出れば、共通語を使い、
宮崎で県議会に出れば、努めて宮崎弁を駆使する。
この使い分けが、宮崎県の人々の心へ速やかに浸透しているのだ。
言葉というのは、武器であると思う。
詳しくは述べないが、昨年詐欺まがい商法が問題視・表面化され、
不法に出資を集めたとされた、とある情報通信系企業は、
東北地方での顧客獲得のために、社員の地元採用を行なっていた。
そこで条件に挙げられていたのは、「地元の方言に巧みな人材」だった。
いきなり東京や大阪から「切り込み隊長」を送り込むより、
地元の事情に敏い人間を使うことが有利だと知ったのだろう。
何しろ「出自」を問うのが好きな地域性だから、
地元は地元民で間接統治したほうがいい、と判断したわけだ。
そこで採用された人々が今、どうなっているのか知る由も無いが、
とにかくお騒がせな話ではある。
苗字と言えば、岩手・盛岡のように
苗字で出身地域が推測できるというのも、地元民には当たり前で意識されることが無い。
及川と言えば一関の、千葉と言えば水沢の、菊池といえば遠野の出身だと緩やかに括られる「岩手の常識」
ここに岩手県民は、「安心感」さえ抱いている。
逆に言えば、地元の人間ではない人間への警戒心も、半端ではない。
次長はと言えば、
怪しい投機を持ちかける営業電話の主が、大抵「○○弁」なのを体得して、
そこには注意するようにしているわけだが。
独りよがりを承知で言えば、この文字から浮かぶのは、壮大な平原の風景。
しかも東から日が昇る、勢い盛んなイメージ。
しかも読み方が「仰々しい」
ヒガシコクバルヒデオさん、こんな立派な名前も、そうそう無い。
九州あたりでは、「村」をムラでなくソン、
「原」をハラでなくバルと読ませることが少なくない。
ただ九州以外では、少々エキゾチックに感じられる言葉である。
蛇足だが、今やほとんどの県民が歌えない「岩手県民歌」の歌詞にある「国原」は、
クニバラという読み方である。
そんなご当地・宮崎県知事の活躍ぶりが、盛んに報じられている。
何しろ注目度とユーモアのセンスでは群を抜くから、
他の知事さんたちが、彼以上に優れた業績を為しえていたとしても、
なかなか採り上げられない。
彼の名前自身が、それを後押ししている。
宮崎に限定的な苗字には宮崎の色が出ているし、
それに意識的な彼自身も、なかなかの策士だ。
「ひがしくにはら」と間違って読んでみせる側も、ユーモア人である。
彼はバイリンガルである。
東京でテレビに出れば、共通語を使い、
宮崎で県議会に出れば、努めて宮崎弁を駆使する。
この使い分けが、宮崎県の人々の心へ速やかに浸透しているのだ。
言葉というのは、武器であると思う。
詳しくは述べないが、昨年詐欺まがい商法が問題視・表面化され、
不法に出資を集めたとされた、とある情報通信系企業は、
東北地方での顧客獲得のために、社員の地元採用を行なっていた。
そこで条件に挙げられていたのは、「地元の方言に巧みな人材」だった。
いきなり東京や大阪から「切り込み隊長」を送り込むより、
地元の事情に敏い人間を使うことが有利だと知ったのだろう。
何しろ「出自」を問うのが好きな地域性だから、
地元は地元民で間接統治したほうがいい、と判断したわけだ。
そこで採用された人々が今、どうなっているのか知る由も無いが、
とにかくお騒がせな話ではある。
苗字と言えば、岩手・盛岡のように
苗字で出身地域が推測できるというのも、地元民には当たり前で意識されることが無い。
及川と言えば一関の、千葉と言えば水沢の、菊池といえば遠野の出身だと緩やかに括られる「岩手の常識」
ここに岩手県民は、「安心感」さえ抱いている。
逆に言えば、地元の人間ではない人間への警戒心も、半端ではない。
次長はと言えば、
怪しい投機を持ちかける営業電話の主が、大抵「○○弁」なのを体得して、
そこには注意するようにしているわけだが。
2007.02.18
松坂屋大丸
松坂屋ホールディングスと大丸が、経営統合へ向け、動いている。
松坂屋は、東京・銀座と上野店のイメージが強くて、
名古屋のデパートだと知っている人が意外と少なかったりするが、
なかなかどうして、地元・名古屋経済界での存在感は大変なものである。
大丸と言えば、関西、ことに京都では「別格上位」である。
関東、さらに東北からだと「大丸=東京駅の駅ビル」ぐらいに
思われているふしがあるが、関西から見て、
あの大丸はちょっとイメージの違うものかも知れない。
そんな「格」のある百貨店同士が、手を結ぶ。
その規模、実に国内最大級。
売上高単純合算で、1兆1600億円超。
売上高だけでは計れない「格」の動向が、注目される。
この業界で常に頂点にいると目されるのが「三越」。
何しろ、日本で初めての百貨店。
三井グループの根源を為す企業である。
スケールメリットとは、ブランドの再構築にどう響くのか。
三越に売上で勝ることになる「松坂屋・大丸」連合は、
「西の雄」となって、「東の雄(=三越)」と対峙するのか否か。
それでもやはり、歴史と伝統に裏打ちされた「ブランド」への対抗には、余程の労力がいる。
「松坂屋・大丸」がどう出るか、楽しみではある。
何しろ、お使い物に「ブランド」は絶大だが、
商品の質そのものに、いまや消費者の意識はかなり流動的だからだ。
百貨店の中で近年とみに注目を集めるのが「伊勢丹」である。
「サロン・ド・ショコラ」の開催など、嗜好性の強い商品へ定評がある「攻めの百貨店」。
中高年層以下、伊勢丹への「信仰」は根強い。
2008年、副都心線の開通で駅と直結する予定の伊勢丹新宿本店は、
改装を続けている。
伊勢丹は、他人への贈り物というより、「自分への贈り物」を買う百貨店として、成功しているように思える。
その意味で、古いながらにも新しいブランドを構築したと言ってもいいだろう。
今週末から、百貨店業界の株の動向が顕著。
中でも、やはり「上位ブランド」とも言える上記各社銘柄が動いている。
こうした百貨店の空白地帯とも言えるのが、東北地方だ。
これも知られていないが、山形にはかつて松坂屋があった。
仙台には大丸の進出計画があった(現在も継続審議中?)。
松坂屋という商号自体が、「買収先の暖簾」である歴史からも、
今後、東北への視点が向けられておかしくはない。
先に三越は、宮城県に初めて「郊外型店舗」を建設する。
業態は違うものの、業界筆頭が同一都市圏に二つの店舗を構えるほど、
少なくとも「仙台商圏」は有益と見られている。
田んぼの中に三越、という驚きの先にあるのは、
ジャスコが同居するショッピングセンターであること。
さらに「今頃?」の感は拭えないが「パルコ」が仙台駅前に建設中。
これは、かつて盛岡駅前に開店される予定であった「盛岡市民が逃した魚」である。
宮城県に隣接する各県にとって、仙台商圏の存在感は、
「九州全体における福岡商圏の存在感」に似てきている。
当地もイオンができてひとしきり盛り上がってはみたが、
若い女性のブランド志向は一層強まっている。
「東北ではここだけ」というキャッチーなフレーズ、
JR「お買い物切符」の展開で、県(圏)外流出は後を絶たない。
仙台空港へのアクセス鉄道へ山形県が出資したと聞くと、
もはや今、宮城県と山形県は「一つの県」である。
その鉄道の駅に接続して、「三越とジャスコ」は共生する。
さてここで、「二つの三越」を実現しようとする仙台への出店を避け、
(現実味に乏しいが)盛岡へ松坂屋大丸が進出したと仮定する。
宮城県からの来客はほとんど無いだろうが
青森県や秋田県からの来客は間違いなく見込めるだろう。
百貨店ブランドを通過したブランド商品の価値が、高いからだ。
今のところ、盛岡へそうした経済力集中を実現しているのが、「専門学校」の存在だ。
盛岡の若年人口を保っているのは、この専門学校である。
少子高齢化が進む今後、盛岡が生きる道とは、
実に「青森県と秋田県と岩手県」を「一つの県」にする吸引力である。
仮定話ではあるが、「地元の潜在的需要」が喚起されるのは、間違いないだろう。
市内の学生の間では、「イオンができるまで(買い物先を)どうしてたの?」という会話が為されていると聞く。
無ければ無いで、無いものは欲しくなるし、
実際に無くて困るという意識は無かったのだろうが、
出来れば出来たで、無くなるとしたら失望は大きい。
全国規模の百貨店がなくとも、通信販売で買い物は可能である。
しかしそれでも、若い女性は東京や仙台へ足繁く買い物に通う。
何を買うのかと言えば、いわば「ブランド品の紙袋」を買いに行くのだ。
ブランド志向の女性は、中身と同様に紙袋にこだわるのである。
そして「場の空気」に触れる喜びを満たしに行く。
紀ノ国屋や虎屋の袋を提げている人を、盛岡で見かける。
どちらもココには無いので、奇異に映るし、
知らない人間にはその有り難味はわからないのだが、
本人いたって真面目である。
そうした意識のある客層が、潜在的に盛岡にはある。
翻って、地方ならではの欠乏感、渇望感を満たすのは
「都会で認められているブランド」であって、
渋谷を凝縮したようなイオン専門店街の品揃えに満足したら、
次は「百貨店的なもの」が欲しくなるだろう。
松坂屋大丸、次は地方からの地固めに入るのではないか?
松坂屋は、東京・銀座と上野店のイメージが強くて、
名古屋のデパートだと知っている人が意外と少なかったりするが、
なかなかどうして、地元・名古屋経済界での存在感は大変なものである。
大丸と言えば、関西、ことに京都では「別格上位」である。
関東、さらに東北からだと「大丸=東京駅の駅ビル」ぐらいに
思われているふしがあるが、関西から見て、
あの大丸はちょっとイメージの違うものかも知れない。
そんな「格」のある百貨店同士が、手を結ぶ。
その規模、実に国内最大級。
売上高単純合算で、1兆1600億円超。
売上高だけでは計れない「格」の動向が、注目される。
この業界で常に頂点にいると目されるのが「三越」。
何しろ、日本で初めての百貨店。
三井グループの根源を為す企業である。
スケールメリットとは、ブランドの再構築にどう響くのか。
三越に売上で勝ることになる「松坂屋・大丸」連合は、
「西の雄」となって、「東の雄(=三越)」と対峙するのか否か。
それでもやはり、歴史と伝統に裏打ちされた「ブランド」への対抗には、余程の労力がいる。
「松坂屋・大丸」がどう出るか、楽しみではある。
何しろ、お使い物に「ブランド」は絶大だが、
商品の質そのものに、いまや消費者の意識はかなり流動的だからだ。
百貨店の中で近年とみに注目を集めるのが「伊勢丹」である。
「サロン・ド・ショコラ」の開催など、嗜好性の強い商品へ定評がある「攻めの百貨店」。
中高年層以下、伊勢丹への「信仰」は根強い。
2008年、副都心線の開通で駅と直結する予定の伊勢丹新宿本店は、
改装を続けている。
伊勢丹は、他人への贈り物というより、「自分への贈り物」を買う百貨店として、成功しているように思える。
その意味で、古いながらにも新しいブランドを構築したと言ってもいいだろう。
今週末から、百貨店業界の株の動向が顕著。
中でも、やはり「上位ブランド」とも言える上記各社銘柄が動いている。
こうした百貨店の空白地帯とも言えるのが、東北地方だ。
これも知られていないが、山形にはかつて松坂屋があった。
仙台には大丸の進出計画があった(現在も継続審議中?)。
松坂屋という商号自体が、「買収先の暖簾」である歴史からも、
今後、東北への視点が向けられておかしくはない。
先に三越は、宮城県に初めて「郊外型店舗」を建設する。
業態は違うものの、業界筆頭が同一都市圏に二つの店舗を構えるほど、
少なくとも「仙台商圏」は有益と見られている。
田んぼの中に三越、という驚きの先にあるのは、
ジャスコが同居するショッピングセンターであること。
さらに「今頃?」の感は拭えないが「パルコ」が仙台駅前に建設中。
これは、かつて盛岡駅前に開店される予定であった「盛岡市民が逃した魚」である。
宮城県に隣接する各県にとって、仙台商圏の存在感は、
「九州全体における福岡商圏の存在感」に似てきている。
当地もイオンができてひとしきり盛り上がってはみたが、
若い女性のブランド志向は一層強まっている。
「東北ではここだけ」というキャッチーなフレーズ、
JR「お買い物切符」の展開で、県(圏)外流出は後を絶たない。
仙台空港へのアクセス鉄道へ山形県が出資したと聞くと、
もはや今、宮城県と山形県は「一つの県」である。
その鉄道の駅に接続して、「三越とジャスコ」は共生する。
さてここで、「二つの三越」を実現しようとする仙台への出店を避け、
(現実味に乏しいが)盛岡へ松坂屋大丸が進出したと仮定する。
宮城県からの来客はほとんど無いだろうが
青森県や秋田県からの来客は間違いなく見込めるだろう。
百貨店ブランドを通過したブランド商品の価値が、高いからだ。
今のところ、盛岡へそうした経済力集中を実現しているのが、「専門学校」の存在だ。
盛岡の若年人口を保っているのは、この専門学校である。
少子高齢化が進む今後、盛岡が生きる道とは、
実に「青森県と秋田県と岩手県」を「一つの県」にする吸引力である。
仮定話ではあるが、「地元の潜在的需要」が喚起されるのは、間違いないだろう。
市内の学生の間では、「イオンができるまで(買い物先を)どうしてたの?」という会話が為されていると聞く。
無ければ無いで、無いものは欲しくなるし、
実際に無くて困るという意識は無かったのだろうが、
出来れば出来たで、無くなるとしたら失望は大きい。
全国規模の百貨店がなくとも、通信販売で買い物は可能である。
しかしそれでも、若い女性は東京や仙台へ足繁く買い物に通う。
何を買うのかと言えば、いわば「ブランド品の紙袋」を買いに行くのだ。
ブランド志向の女性は、中身と同様に紙袋にこだわるのである。
そして「場の空気」に触れる喜びを満たしに行く。
紀ノ国屋や虎屋の袋を提げている人を、盛岡で見かける。
どちらもココには無いので、奇異に映るし、
知らない人間にはその有り難味はわからないのだが、
本人いたって真面目である。
そうした意識のある客層が、潜在的に盛岡にはある。
翻って、地方ならではの欠乏感、渇望感を満たすのは
「都会で認められているブランド」であって、
渋谷を凝縮したようなイオン専門店街の品揃えに満足したら、
次は「百貨店的なもの」が欲しくなるだろう。
松坂屋大丸、次は地方からの地固めに入るのではないか?
2007.02.12
壁に耳あり
東京や大阪など、大都市から地方へ赴任してくる人に、
噛んで含めて教えること、教えられることがある。
「アフターファイブも、そこは職場です」
何を言わんとしているのか、お判りだろうか。
居酒屋にでもなだれ込んで、そこでうっかり職場の話をするな、
という「教え」。
なぜかといえば、狭い田舎社会、良いことも悪いことも、
どこで誰が聞いているのか分からない。
守秘義務にまつわる話は当然のこと、職場内の話も原則ご法度。
どうしても言わざるをえない時には、
覆面座談会みたいだが「イニシャルトーク」で。
話す側はあんまり意識してないのだが、
実際、隣り合った席とか、目隠しの裏の話題と言うのは、
事の外はっきりと聞こえるもので、
明らかに利害関係のある方々の集いだったりすると、
早々に場を改めることさえある。
田舎のシガラミってのは、本当に厄介。
お取引のある方同士がお友達だ、とか、
対立する利害関係者が縁戚関係だ、とか、
どこぞの誰それさんの息子、娘、妻、というのは珍しくない。
人類みな兄弟、という偉大なる言葉があるが、
事実、田舎の中堅都市というのは、それが顕著だ。
付き合いでカラオケなんかに行ったりすると、
妙に巧い一団がいたりして、面識もないのに拍手しちゃったりする。
向こうも酔っ払ってるから、名刺を配り始めたりする(笑)。
そういう名刺を見ると、出張で盛岡へ来てるビジネスマンで、
思い切り羽根伸ばしてご機嫌である。
これも地方都市ならではの光景だと思うが、
さすがに駐在している身分でこれは出来ないのである。
その相手が、どんな接点を持っているのか分からないからさ・・・・。
アフターファイブが、億劫になった。(笑)
とある飲み屋で、隣のテーブルが賑やかだった。
「持つべきものは、バックボーンですよね」とか言ってるし・・・・。
縁故がなければ入社できない、入社しても大変だ、とかいう話。
現実かも知れないが、つまんない話だ・・・・。
田舎の会社はコネが優位で、
Uターンしたい学生にコネはなくて、
田舎の人口は減り人口ピラミッドは傾く、と言う悪循環。
売り手市場でも「売れ筋」「在庫」は確実に存在していて、
売り手にはコネというおまけが必要な場合がある、か。
言ってはなんだが、都会で正社員をやってる人間が優秀かと言えば、そんなことはない。
今は派遣や契約に優秀な人が多くいて、彼らもまた、「コネなし遊民」である。
彼らがいるからこそ、正社員がいて、企業が存在していると言っても過言ではない。
今や、企業に必要な人員は「社長と管理部門のための最低数の社員」だけだと思う。
それでも世間が正社員を採っているのは、
1、企業としての体裁を保つため
2、アウトソーシングできない逼迫した経営状態
3、コネ付き学生を入れなきゃならないから
の、いずれかだろう。
それでもみな、一様に正社員を目指すのは仕方あるまい。
だって、ここは都会じゃないんだから。
田舎は、売り手の側が体裁を保たなければならない状態にある。
自分が良くても家族が良くないとか、認めないとか、あるんだろう。
でも少なくとも、入ってからもコネが必要な末期的症状の会社になんて、入らないほうがいいと思うけどさ。(笑)
都会なら、こんな他人の事情に「他人は他人」と
意識することすらなく暮らせるのだが、
どうも田舎の空気ってのは、こういうところに意識を傾かせる。
というわけで次長、最近はあんまり外へ飲みに行かないようにしてる。(笑)
噛んで含めて教えること、教えられることがある。
「アフターファイブも、そこは職場です」
何を言わんとしているのか、お判りだろうか。
居酒屋にでもなだれ込んで、そこでうっかり職場の話をするな、
という「教え」。
なぜかといえば、狭い田舎社会、良いことも悪いことも、
どこで誰が聞いているのか分からない。
守秘義務にまつわる話は当然のこと、職場内の話も原則ご法度。
どうしても言わざるをえない時には、
覆面座談会みたいだが「イニシャルトーク」で。
話す側はあんまり意識してないのだが、
実際、隣り合った席とか、目隠しの裏の話題と言うのは、
事の外はっきりと聞こえるもので、
明らかに利害関係のある方々の集いだったりすると、
早々に場を改めることさえある。
田舎のシガラミってのは、本当に厄介。
お取引のある方同士がお友達だ、とか、
対立する利害関係者が縁戚関係だ、とか、
どこぞの誰それさんの息子、娘、妻、というのは珍しくない。
人類みな兄弟、という偉大なる言葉があるが、
事実、田舎の中堅都市というのは、それが顕著だ。
付き合いでカラオケなんかに行ったりすると、
妙に巧い一団がいたりして、面識もないのに拍手しちゃったりする。
向こうも酔っ払ってるから、名刺を配り始めたりする(笑)。
そういう名刺を見ると、出張で盛岡へ来てるビジネスマンで、
思い切り羽根伸ばしてご機嫌である。
これも地方都市ならではの光景だと思うが、
さすがに駐在している身分でこれは出来ないのである。
その相手が、どんな接点を持っているのか分からないからさ・・・・。
アフターファイブが、億劫になった。(笑)
とある飲み屋で、隣のテーブルが賑やかだった。
「持つべきものは、バックボーンですよね」とか言ってるし・・・・。
縁故がなければ入社できない、入社しても大変だ、とかいう話。
現実かも知れないが、つまんない話だ・・・・。
田舎の会社はコネが優位で、
Uターンしたい学生にコネはなくて、
田舎の人口は減り人口ピラミッドは傾く、と言う悪循環。
売り手市場でも「売れ筋」「在庫」は確実に存在していて、
売り手にはコネというおまけが必要な場合がある、か。
言ってはなんだが、都会で正社員をやってる人間が優秀かと言えば、そんなことはない。
今は派遣や契約に優秀な人が多くいて、彼らもまた、「コネなし遊民」である。
彼らがいるからこそ、正社員がいて、企業が存在していると言っても過言ではない。
今や、企業に必要な人員は「社長と管理部門のための最低数の社員」だけだと思う。
それでも世間が正社員を採っているのは、
1、企業としての体裁を保つため
2、アウトソーシングできない逼迫した経営状態
3、コネ付き学生を入れなきゃならないから
の、いずれかだろう。
それでもみな、一様に正社員を目指すのは仕方あるまい。
だって、ここは都会じゃないんだから。
田舎は、売り手の側が体裁を保たなければならない状態にある。
自分が良くても家族が良くないとか、認めないとか、あるんだろう。
でも少なくとも、入ってからもコネが必要な末期的症状の会社になんて、入らないほうがいいと思うけどさ。(笑)
都会なら、こんな他人の事情に「他人は他人」と
意識することすらなく暮らせるのだが、
どうも田舎の空気ってのは、こういうところに意識を傾かせる。
というわけで次長、最近はあんまり外へ飲みに行かないようにしてる。(笑)
2007.02.11
300億円
いわゆる「ヨン様」の、2005年の年収が先日公表された。
43億円だそうである。
「ベッカム様」の5年契約金は、300億円。
つまり、単純に言えば年収50億円と言うことで、ヨン様とは微妙な差が生じる。
大物の対価と言うのは、こういうレベルであるのか。
見たことも、もらう予定も見通しもない、遥か想像の産物・・・・。
この差額である「年間7億円」と言う差額でさえ、庶民レベルで計れる数値ではない。
「年収一千万円」が、一般ビジネスマンの一つの大きなカベとみなされている今、
7億円と言えば、当たり前だが年収一千万のビジネスマンが70人分が雇える、
ちょっと気の利いた料理屋でも開ける数字である。
もっと実感に近づくとすれば、サマージャンボ宝くじの一等前後賞が連番で当たったって、7億円には及ばない。
偶然手にするにも、あまりに天文学的な確立だ。
日本の誇り高きフラッグキャリア・JAL日本航空社長の年収は、今後960万円余に、
北海道夕張市長の年収は、今まさに370万円台にならんとしている。
これまで、いくらもらってたのか、
他人の懐具合も気になるのが、正直なところではあるが、
そんな観点からすると、お金と言うのは、持てる人のところにはしっかりと配分されてるんだな、とか、
世界をまたにかけて生きているスターの存在と言うのは、全く凄いものだと思う。
そして、大きなブランドを築いた大企業・有名自治体でさえ、
窮地に陥るときはあっという間なのだ、と思い至る。
経営責任とはいえ、そこで自らの待遇をマイナスに帰するのは、
それが必然的なものであれ、立派な行いだ。
そこまで自律することなく、崩壊の一途を辿る組織だって少なくないのだから。
そこで、「300億円」という数字である。
この数字を検索したら、一番上にヒットしたのは、
「アフィリエイト広告市場は300億円規模に成長」の文字だった。
メタボリック症候群で注目を浴びた「特定保健用食品」も、今や300億円市場である。
ベッカム様が5年分のお仕事の対価として受け取るぐらいだから、
それは大きくて当たり前なのである。
この数字、実は岩手県にとっても縁深いのである。
岩手県競馬組合の借金のうち、岩手県は300億円を肩代わりする。
人によってもこの受け止め方は違うだろうが、
次長、「ベッカム様×5年」かと思ったら、気が遠くなった。
ヨン様換算なら、「ヨン様(繁忙期料金)×7年」である。
あの、日本中のご婦人方が熱狂したムーブメントが、こうした数値で表れたのである。
300億円あれば、岩手県は日本の特定保健用食品を全て買い占めることさえ可能なのだ。
ヘルシア緑茶とか、蕃爽麗茶とか、エコナとか、全部が岩手県民のもの。
ヨン様を岩手県のイメージキャラクターに、って300億円払ったら、
彼は微笑んでそれを受け入れてくれる(はず)。
盛岡市だって25億円は拠出しなければならないらしい。
この25億円をヨン様に献納して、盛岡冷麺をプロモーションしてもらったら、どうなのか。
盛岡経済は大変な騒ぎになること、受けあい。
今ならもう、パクヨンハとかそのあたりにスライドした方がいいと思うけど。(笑)
パクヨンハ(かどうかは知らないが)、韓流スターが盛岡冷麺をPRしたら、
仮にパクヨンハ(じゃなくてもいいけど)が大ブレイクを果たしたとして、
その余波で、盛岡冷麺界は空前の右肩上がりを経験するかも知れないのである。
この辺は、肖像権の扱いを明確に契約書へ記載しておくべきだな・・・・。
机上では、そういう皮算用。
ここに生まれる波及効果は、計り知れない。
やはり、借りたものは返すのが人の道。
岩手県は然るべき筋を通したともいえるのだが、
何しろこの「300億円」の重さが、県民には伝わっていない気がする。
岩手競馬を存続するという主張は、余程の説得力と根拠を要する事態に陥ってしまったのである。
それはJAL日本航空社長の年収が、パイロットの年収の二分の一になることを認めた決断に重なる。
騎手への賞金が下げられないならば、管理者以下、役員事務職員の全てに到るまで、極限まで最低レベルの年収を認めなければなるまい。
もう、そうしないと認められない「時代の空気」である。
そこまでして、気高く誇りを貫き通せるのか。
現場レベルでは、それでも、いいのか。
人も減り、産業も停滞してゆくこの県で、
過去との決別に要する手切れ金は、あまりに大きい。
43億円だそうである。
「ベッカム様」の5年契約金は、300億円。
つまり、単純に言えば年収50億円と言うことで、ヨン様とは微妙な差が生じる。
大物の対価と言うのは、こういうレベルであるのか。
見たことも、もらう予定も見通しもない、遥か想像の産物・・・・。
この差額である「年間7億円」と言う差額でさえ、庶民レベルで計れる数値ではない。
「年収一千万円」が、一般ビジネスマンの一つの大きなカベとみなされている今、
7億円と言えば、当たり前だが年収一千万のビジネスマンが70人分が雇える、
ちょっと気の利いた料理屋でも開ける数字である。
もっと実感に近づくとすれば、サマージャンボ宝くじの一等前後賞が連番で当たったって、7億円には及ばない。
偶然手にするにも、あまりに天文学的な確立だ。
日本の誇り高きフラッグキャリア・JAL日本航空社長の年収は、今後960万円余に、
北海道夕張市長の年収は、今まさに370万円台にならんとしている。
これまで、いくらもらってたのか、
他人の懐具合も気になるのが、正直なところではあるが、
そんな観点からすると、お金と言うのは、持てる人のところにはしっかりと配分されてるんだな、とか、
世界をまたにかけて生きているスターの存在と言うのは、全く凄いものだと思う。
そして、大きなブランドを築いた大企業・有名自治体でさえ、
窮地に陥るときはあっという間なのだ、と思い至る。
経営責任とはいえ、そこで自らの待遇をマイナスに帰するのは、
それが必然的なものであれ、立派な行いだ。
そこまで自律することなく、崩壊の一途を辿る組織だって少なくないのだから。
そこで、「300億円」という数字である。
この数字を検索したら、一番上にヒットしたのは、
「アフィリエイト広告市場は300億円規模に成長」の文字だった。
メタボリック症候群で注目を浴びた「特定保健用食品」も、今や300億円市場である。
ベッカム様が5年分のお仕事の対価として受け取るぐらいだから、
それは大きくて当たり前なのである。
この数字、実は岩手県にとっても縁深いのである。
岩手県競馬組合の借金のうち、岩手県は300億円を肩代わりする。
人によってもこの受け止め方は違うだろうが、
次長、「ベッカム様×5年」かと思ったら、気が遠くなった。
ヨン様換算なら、「ヨン様(繁忙期料金)×7年」である。
あの、日本中のご婦人方が熱狂したムーブメントが、こうした数値で表れたのである。
300億円あれば、岩手県は日本の特定保健用食品を全て買い占めることさえ可能なのだ。
ヘルシア緑茶とか、蕃爽麗茶とか、エコナとか、全部が岩手県民のもの。
ヨン様を岩手県のイメージキャラクターに、って300億円払ったら、
彼は微笑んでそれを受け入れてくれる(はず)。
盛岡市だって25億円は拠出しなければならないらしい。
この25億円をヨン様に献納して、盛岡冷麺をプロモーションしてもらったら、どうなのか。
盛岡経済は大変な騒ぎになること、受けあい。
今ならもう、パクヨンハとかそのあたりにスライドした方がいいと思うけど。(笑)
パクヨンハ(かどうかは知らないが)、韓流スターが盛岡冷麺をPRしたら、
仮にパクヨンハ(じゃなくてもいいけど)が大ブレイクを果たしたとして、
その余波で、盛岡冷麺界は空前の右肩上がりを経験するかも知れないのである。
この辺は、肖像権の扱いを明確に契約書へ記載しておくべきだな・・・・。
机上では、そういう皮算用。
ここに生まれる波及効果は、計り知れない。
やはり、借りたものは返すのが人の道。
岩手県は然るべき筋を通したともいえるのだが、
何しろこの「300億円」の重さが、県民には伝わっていない気がする。
岩手競馬を存続するという主張は、余程の説得力と根拠を要する事態に陥ってしまったのである。
それはJAL日本航空社長の年収が、パイロットの年収の二分の一になることを認めた決断に重なる。
騎手への賞金が下げられないならば、管理者以下、役員事務職員の全てに到るまで、極限まで最低レベルの年収を認めなければなるまい。
もう、そうしないと認められない「時代の空気」である。
そこまでして、気高く誇りを貫き通せるのか。
現場レベルでは、それでも、いいのか。
人も減り、産業も停滞してゆくこの県で、
過去との決別に要する手切れ金は、あまりに大きい。
2007.02.11
千葉県という選択
千葉県の観光キャンペーン「ちばデスティネーションキャンペーン」が、喧しい。
ふとテレビ画面から、一足早い春の便りのように、
一面の花畑が映し出されて、暖冬とは言えいまだ「冬」を満喫させられている身には堪える。
これは、千葉県とJRの共同キャンペーンなのだ。
しかも、JR東日本だけではない。
JR6社との共同作業だ。
千葉県といえば、「ちば」という新しいロゴマークで揺れたことも記憶に新しいが、
東京の隣にありながら、比較的地味なポジションに置かれがち。
ディズニーランドや成田空港など、東京を補完するという意味での存在感は大きいながら、
千葉県としての注目度となると、どうしても「房総のお花畑」「九十九里浜」に落ち着くのだろうか。
なんとも、気の毒な側面ではある。
しかし、JR6社との共同が可能だという一点において、
やはりの千葉、さすがの千葉である。
この点は、他県の追随を許さないだろう。
これは他でもなく「地の利」である。
翻って、いまや巷で話題の「団塊の世代Uターンキャンペーン」である。
田舎に生まれ、都会に生きてきた彼らを、今こそ郷里へ取り戻そうという動きがある。
それはそれで一向に構わないのだが、ふるさと体験ツアーとやらが怪しい。
「蕎麦打ち体験」だの「絵付け体験」だのと、
どうも実生活に直結する雰囲気ではない。
ただ単に、「都会人となった彼ら」の「田舎への幻想」を満たす観光ツアーである。
これで田舎暮らしを選んだ人がいるとしたら、その人の未来はとても保証できたものではない。
田舎に暮らして、毎日そんな生活をしている人が、一体どれだけいますか?
田舎の子どもですら就農体験をしたことがない時代に、
修学旅行で都会の子どもたちを田舎へ引き連れて、稲を手植えさせた挙句、
「お百姓さんはこんなに大変な思いをしてお米を作っているのです」って教える教師と同水準。
今どき手植えなんてまあ珍しいし、田舎の子どもは塾とお稽古とゲームで大忙し。
都会の子どもたちより、フィールドワークは少ないかもよ。
こうなると、「ちばデスティネーションキャンペーン」は脅威だろう。
東京からはるか遠くへ引っ越さなくても、意外とすぐそばに「いい環境」はある。
気候は温暖で、何より関東にあって東京文化圏だ。
田舎暮らしにほとほと飽きたら、電車で銀座へ行けばいい。
そんな「逃げ道」すら確保できるのが「千葉県という選択」である。
相手がどんな気持ちで来るのか解らないのに、
「移住」を前提で「観光」を提供すべきではない。
「退職したら農業でも・・・・」なんて甘い考えで入植されても、世の中そんなに甘くはないから。
本気でそう言う人を選抜して、農業を始める心意気のある人にそれを伝えなければ、
はかなく散った夢に逆恨みする都会人を増やすだけである。
楽しい思い出を作りたい方は、どうぞ自腹で思う存分田舎を満喫してくださいよ。
田舎に長く住んでいると、都会の状況が見えなくなるのだ。
都会に長く住む人に物事を訴えるなら、それなりの都会の人に教えを請うのが良策だろう。
その意味で千葉県は、都会でも田舎でもあるという「最大の利点」を自覚し、アピールしているのがわかる。
そこで敢えて、セールスとしては「都会的な香り」を一切排除しているのだ。
こういう卓越したセンスを持っているのは、やはり「JR」の側だと思うが、
そこにうまく乗せたのは、さすが千葉県である。
ふとテレビ画面から、一足早い春の便りのように、
一面の花畑が映し出されて、暖冬とは言えいまだ「冬」を満喫させられている身には堪える。
これは、千葉県とJRの共同キャンペーンなのだ。
しかも、JR東日本だけではない。
JR6社との共同作業だ。
千葉県といえば、「ちば」という新しいロゴマークで揺れたことも記憶に新しいが、
東京の隣にありながら、比較的地味なポジションに置かれがち。
ディズニーランドや成田空港など、東京を補完するという意味での存在感は大きいながら、
千葉県としての注目度となると、どうしても「房総のお花畑」「九十九里浜」に落ち着くのだろうか。
なんとも、気の毒な側面ではある。
しかし、JR6社との共同が可能だという一点において、
やはりの千葉、さすがの千葉である。
この点は、他県の追随を許さないだろう。
これは他でもなく「地の利」である。
翻って、いまや巷で話題の「団塊の世代Uターンキャンペーン」である。
田舎に生まれ、都会に生きてきた彼らを、今こそ郷里へ取り戻そうという動きがある。
それはそれで一向に構わないのだが、ふるさと体験ツアーとやらが怪しい。
「蕎麦打ち体験」だの「絵付け体験」だのと、
どうも実生活に直結する雰囲気ではない。
ただ単に、「都会人となった彼ら」の「田舎への幻想」を満たす観光ツアーである。
これで田舎暮らしを選んだ人がいるとしたら、その人の未来はとても保証できたものではない。
田舎に暮らして、毎日そんな生活をしている人が、一体どれだけいますか?
田舎の子どもですら就農体験をしたことがない時代に、
修学旅行で都会の子どもたちを田舎へ引き連れて、稲を手植えさせた挙句、
「お百姓さんはこんなに大変な思いをしてお米を作っているのです」って教える教師と同水準。
今どき手植えなんてまあ珍しいし、田舎の子どもは塾とお稽古とゲームで大忙し。
都会の子どもたちより、フィールドワークは少ないかもよ。
こうなると、「ちばデスティネーションキャンペーン」は脅威だろう。
東京からはるか遠くへ引っ越さなくても、意外とすぐそばに「いい環境」はある。
気候は温暖で、何より関東にあって東京文化圏だ。
田舎暮らしにほとほと飽きたら、電車で銀座へ行けばいい。
そんな「逃げ道」すら確保できるのが「千葉県という選択」である。
相手がどんな気持ちで来るのか解らないのに、
「移住」を前提で「観光」を提供すべきではない。
「退職したら農業でも・・・・」なんて甘い考えで入植されても、世の中そんなに甘くはないから。
本気でそう言う人を選抜して、農業を始める心意気のある人にそれを伝えなければ、
はかなく散った夢に逆恨みする都会人を増やすだけである。
楽しい思い出を作りたい方は、どうぞ自腹で思う存分田舎を満喫してくださいよ。
田舎に長く住んでいると、都会の状況が見えなくなるのだ。
都会に長く住む人に物事を訴えるなら、それなりの都会の人に教えを請うのが良策だろう。
その意味で千葉県は、都会でも田舎でもあるという「最大の利点」を自覚し、アピールしているのがわかる。
そこで敢えて、セールスとしては「都会的な香り」を一切排除しているのだ。
こういう卓越したセンスを持っているのは、やはり「JR」の側だと思うが、
そこにうまく乗せたのは、さすが千葉県である。
2007.02.10
わが道
本宮の「ホーマック」へ行った時のことである。
その前を走るバイパスの路面が、妙にキレイだと感じた。
「道が広い」ということの他に、
何か違うと感じさせる要素があった。
お気づきの方も多いだろうが、「アスファルト」が違うのである。
あの、高速道路を走ったときに気づく感覚と同じ。
さながら黒いカーペットのように、
真っ黒な美しいアスファルトが、そこには敷かれている。
なぜこんなことを言うのかというと、
他の道路がそうではないからである。
よく見ると、混合物の多い舗装道路がよくある。
ここにどういった「効果」があるのかどうかは知らないが、
経験的に「国」と「自治体」では、
手がけた結果に大きな違いを見出すことが出来る。
そしてどうしてこれだけ違うのか、という疑問にも繋がる。
これを如実に感じるのは、県によっても道路のつくりが大きく違うことだ。
盛岡の歩道は、縁石で区切られているだけではない。
多くが、車道より一段高くなっている。
これは「違法駐車防止」のためだと思うが、
一戸一戸の入り口で低くなって、全体では波打つから、
歩行者、特に高齢者には結構な負担だ。
自転車に乗った中学生がこの歩道を走っているのだが、
車を運転する身にとっては、本当に怖い。
いつどこから車道に出てくるか、予想がつかないのだ。
秋田県を走っていると、道路はフラットである。
が、トンネルを越えて岩手県に入った途端に、ガタガタと車が揺れたりする。
あちこちを掘っては埋めて貼り付ける、そんな作業が実に多い。
アスファルトは通常、耐性10年だそうだが、
10年持っているのかどうか、分からない。
気候の厳しさだけでなく、そこには人為的な工事が存在するから。
10年そのまま、という道はあまり存在しないだろう。
道路の改良は、当然必要不可欠だ。
しかし、ガスだの上下水道だの、ライフラインの工事が
その時々に応じてバラバラに行なわれている感は否めない。
これは特に市町村レベルの話だろうが。
「イオン盛岡」から「イオン盛岡南」へ到るバイパス(笑)沿いに、道路標示板が立つ。
その先にある「アイスアリーナ」や「先人記念館」など、数多くの公共施設の存在を知らせる、
言わば「盛岡南新都市」の賑やかしだ。
ここにも、気になることがある。
この標示板が一つにまとまっているとすっきりするのだが、
「志波城古代公園」や「盛岡競馬場」など、
それぞれが個々に看板を掲げて、見上げて煩雑なことこの上ない。
次から次と、眼前に看板が現れては存在を主張する。
設置時期がちがうとか、設置者がちがうとか、
そんなことは当然解っているのだが、
どうもこういうところに統一感を求めてしまう自分がいる。
こういうものを調整する役割・立場というのは、どこにあるのだろうか。
一方で、こうした標示を実に美しくまとめている都市がある。
なんと「盛岡市」である。
都南総合支所附近の市立施設は、まとめて標示しているので一目瞭然だ。
ところが本宮のあたりでは、まだまだ立ち遅れている。
「考えすぎ」という向きもあるだろうが、
同じ盛岡市立の施設なのに、一方には「MUNICIPAL(市立の)」をつけて
もう一方にはつけない、というのは英語としても日本語としてもおかしい。
もし県立・市立にこだわらないのならば、
「盛岡南新都市」内の施設として、一括標示して欲しいものだが。
それが誰に対しても親切だろう。
その前を走るバイパスの路面が、妙にキレイだと感じた。
「道が広い」ということの他に、
何か違うと感じさせる要素があった。
お気づきの方も多いだろうが、「アスファルト」が違うのである。
あの、高速道路を走ったときに気づく感覚と同じ。
さながら黒いカーペットのように、
真っ黒な美しいアスファルトが、そこには敷かれている。
なぜこんなことを言うのかというと、
他の道路がそうではないからである。
よく見ると、混合物の多い舗装道路がよくある。
ここにどういった「効果」があるのかどうかは知らないが、
経験的に「国」と「自治体」では、
手がけた結果に大きな違いを見出すことが出来る。
そしてどうしてこれだけ違うのか、という疑問にも繋がる。
これを如実に感じるのは、県によっても道路のつくりが大きく違うことだ。
盛岡の歩道は、縁石で区切られているだけではない。
多くが、車道より一段高くなっている。
これは「違法駐車防止」のためだと思うが、
一戸一戸の入り口で低くなって、全体では波打つから、
歩行者、特に高齢者には結構な負担だ。
自転車に乗った中学生がこの歩道を走っているのだが、
車を運転する身にとっては、本当に怖い。
いつどこから車道に出てくるか、予想がつかないのだ。
秋田県を走っていると、道路はフラットである。
が、トンネルを越えて岩手県に入った途端に、ガタガタと車が揺れたりする。
あちこちを掘っては埋めて貼り付ける、そんな作業が実に多い。
アスファルトは通常、耐性10年だそうだが、
10年持っているのかどうか、分からない。
気候の厳しさだけでなく、そこには人為的な工事が存在するから。
10年そのまま、という道はあまり存在しないだろう。
道路の改良は、当然必要不可欠だ。
しかし、ガスだの上下水道だの、ライフラインの工事が
その時々に応じてバラバラに行なわれている感は否めない。
これは特に市町村レベルの話だろうが。
「イオン盛岡」から「イオン盛岡南」へ到るバイパス(笑)沿いに、道路標示板が立つ。
その先にある「アイスアリーナ」や「先人記念館」など、数多くの公共施設の存在を知らせる、
言わば「盛岡南新都市」の賑やかしだ。
ここにも、気になることがある。
この標示板が一つにまとまっているとすっきりするのだが、
「志波城古代公園」や「盛岡競馬場」など、
それぞれが個々に看板を掲げて、見上げて煩雑なことこの上ない。
次から次と、眼前に看板が現れては存在を主張する。
設置時期がちがうとか、設置者がちがうとか、
そんなことは当然解っているのだが、
どうもこういうところに統一感を求めてしまう自分がいる。
こういうものを調整する役割・立場というのは、どこにあるのだろうか。
一方で、こうした標示を実に美しくまとめている都市がある。
なんと「盛岡市」である。
都南総合支所附近の市立施設は、まとめて標示しているので一目瞭然だ。
ところが本宮のあたりでは、まだまだ立ち遅れている。
「考えすぎ」という向きもあるだろうが、
同じ盛岡市立の施設なのに、一方には「MUNICIPAL(市立の)」をつけて
もう一方にはつけない、というのは英語としても日本語としてもおかしい。
もし県立・市立にこだわらないのならば、
「盛岡南新都市」内の施設として、一括標示して欲しいものだが。
それが誰に対しても親切だろう。
2007.02.09
サクラ咲く
政府共催のイベントで、地方新聞社等が謝礼を支払って動員。
その動きに、次々とお詫びの動き。
「何が悪いの?」というのが、正直なところである。
確かに、その源泉は「税」だ。
民が汗して働いたその成果から、お国のために捧げた大切なお金である。
しかし、税金の無駄な使われ方について、
我々は結構良く知っている。
が、知らない部分の方が多いと思うし、
見方によっては知らない方が良いような気もする。
呼びかけたけど人が少なかった、というのは、
確かにその点で「主催者の努力」に責めはあると思う。
しかし、この問題が顕在化したのは、いずれも地方。
そこに人が集まらないほど人口が減った事実はあるのだし、
地域に興味が向かない人々を教育した国にも責任にはあるのだし、
都会と同様の集客を期待した側の責任だってあるだろう。
同じお膳立てで、全国を巡回したのだとすれば、
その地域特有の事情は当然あるわけで、
全国にあまねく同じ基準を当てはめる「均質の幻想」が、間違いの始まりだと思う。
田舎で学生に「バイトでシンポジウムに来ない?」って言ったって、
人並みは押し寄せて来ないでしょ。それが現実。
第一、若者が少なくて活気がないというのが地方の悩みそのもので、
そこで幅広い層の集客なんて望めない。
高齢者団体に呼びかけて、タクシー代や日当に相当するような額で
参加してもらうというのは、それほど「悪いこと」なのか?
年金をもらってたって、税金は徴収される国なのに。
それを「サクラ」と呼ぶならば、
サクラに誘われてやってきた人間などいるのか。
想定問答集で質問を投げかけるような「演出」があったのならともかく、
「地域について勉強してみませんか」という、
孝行・親切な呼びかけ以外の何物でもないんじゃないの?
これは地方の実情を知っている、至極当然でまともな方法である。
むしろその点は、評価にすら値すると思う。
果たして、国と新聞社との間に、
「全国均質な動員力と充実」を求めた存在は無かったのか。
原因の所在は、むしろそこにあると思う。
その動きに、次々とお詫びの動き。
「何が悪いの?」というのが、正直なところである。
確かに、その源泉は「税」だ。
民が汗して働いたその成果から、お国のために捧げた大切なお金である。
しかし、税金の無駄な使われ方について、
我々は結構良く知っている。
が、知らない部分の方が多いと思うし、
見方によっては知らない方が良いような気もする。
呼びかけたけど人が少なかった、というのは、
確かにその点で「主催者の努力」に責めはあると思う。
しかし、この問題が顕在化したのは、いずれも地方。
そこに人が集まらないほど人口が減った事実はあるのだし、
地域に興味が向かない人々を教育した国にも責任にはあるのだし、
都会と同様の集客を期待した側の責任だってあるだろう。
同じお膳立てで、全国を巡回したのだとすれば、
その地域特有の事情は当然あるわけで、
全国にあまねく同じ基準を当てはめる「均質の幻想」が、間違いの始まりだと思う。
田舎で学生に「バイトでシンポジウムに来ない?」って言ったって、
人並みは押し寄せて来ないでしょ。それが現実。
第一、若者が少なくて活気がないというのが地方の悩みそのもので、
そこで幅広い層の集客なんて望めない。
高齢者団体に呼びかけて、タクシー代や日当に相当するような額で
参加してもらうというのは、それほど「悪いこと」なのか?
年金をもらってたって、税金は徴収される国なのに。
それを「サクラ」と呼ぶならば、
サクラに誘われてやってきた人間などいるのか。
想定問答集で質問を投げかけるような「演出」があったのならともかく、
「地域について勉強してみませんか」という、
孝行・親切な呼びかけ以外の何物でもないんじゃないの?
これは地方の実情を知っている、至極当然でまともな方法である。
むしろその点は、評価にすら値すると思う。
果たして、国と新聞社との間に、
「全国均質な動員力と充実」を求めた存在は無かったのか。
原因の所在は、むしろそこにあると思う。
2007.02.07
15分の民間感覚
某県庁で、休み時間の見直しだそうである。
「休息時間」「休憩時間」の再考。
どっちがどうでどうなんだ、という議論に発展することは無く、
どちらも民間では考えられないから止めたら?という
人事院の意見に基づく。
それぞれ15分。
このとばっちりで、ランチタイムが15分削られる。
たかが15分、されど15分。
朝の15分が貴重であるように、昼の15分もまた、貴重だとは思わない?
私的意見で言えば、
その15分を削ったことで、どれだけ職員が効率的かつ
有効的に業務遂行がなされるのかと言えば、
これは甚だ疑問である。
ランチにありつけないかもしれない緊張感、
全て食べ終われないかも知れない焦燥感、
そんな無駄な思いに気を取られるのが正午15分前だとしたら、
実質的に45分に削られた休憩時間は、正味1時間のままではないのか?
しかもそこに、「休憩」という感覚はない。
そこまでして、県職員を責めを負わなければならないものだろうか?
せめてお昼休みぐらい、一般人と同じのレベルでありつける状態に置けないものだろうか。
・・・・などと語るに足りない休憩談義に花を咲かせるのも、口惜しい。
そもそも、昼食時間は昼食を取る時間であって、
これを「休憩」だの「休息」だのと呼ぶことにすら、抵抗がある。
世には、「ランチミーティング」という言葉がある。
これ、さすがに45分では終われない。
ただ物を口に運ぶという動きって、人間離れしてない?
大都会ならともかく、地産地消を推進するスローフードの本場が、
こんなことしちゃいけない。
スローって、別に食べる速さの事じゃないけどさ。
よもや、昼食時間まで仕事かよ、と哂う勿れ。
確かに、嫌いな上司と食事まで一緒にするのはどうかと思う。
異邦人のような部下の話題についていけない上役は、尚更である。
いえいえ、ランチミーティングとは、
直接的な上下関係の無い者同士が、異文化交流的に行なうのに意味があるのであって、
同じ部課でそんなことやってたら、パワーハラスメントの一種。
岩手には、ランチミーティングってないのかな?
つまりは、45分なんていう「餌の摂取」みたいな真似は辞めたらどうなんだ、と。
個々が本当に充実した業務遂行を図るために、
そんなドタバタを続けていたら、精神衛生上もよろしくないのではないか、と。
言ってはなんだけれど、
15分をカットしたからといって、その分余計に仕事が出来る保証など無いわけだし、
その15分にだらだら過ごすも、キッチリ仕事するのも、
当人の心がけと組織の体質にかかっているわけ。
県民はそういうところに着眼していると思うし、
総時間30分が、積もり積もって年間でどれだけの時間になるかという計算上の話より、
今目の前で県職員がどれだけの成果を見せてくれるか、に注目してると思う。
「45分のランチタイム」というのは、「民間感覚」ではないと思う。
なぜそこで、「時間差ランチ」という発想が生まれないのか。
そう言えば、いま「時差出勤」ってあるのかな?
同じ時間に、大量に人が同じ動きをするってことこそ、
人の負担とロスが生まれやすいのではないか。
そんな「余計なお世話」も少々。
30分を仕事時間に当てるくらいなら、
月あたり600分=10時間余の給与を引き下げれば?
それが本当の「民間感覚」というものなんでね。
「休息時間」「休憩時間」の再考。
どっちがどうでどうなんだ、という議論に発展することは無く、
どちらも民間では考えられないから止めたら?という
人事院の意見に基づく。
それぞれ15分。
このとばっちりで、ランチタイムが15分削られる。
たかが15分、されど15分。
朝の15分が貴重であるように、昼の15分もまた、貴重だとは思わない?
私的意見で言えば、
その15分を削ったことで、どれだけ職員が効率的かつ
有効的に業務遂行がなされるのかと言えば、
これは甚だ疑問である。
ランチにありつけないかもしれない緊張感、
全て食べ終われないかも知れない焦燥感、
そんな無駄な思いに気を取られるのが正午15分前だとしたら、
実質的に45分に削られた休憩時間は、正味1時間のままではないのか?
しかもそこに、「休憩」という感覚はない。
そこまでして、県職員を責めを負わなければならないものだろうか?
せめてお昼休みぐらい、一般人と同じのレベルでありつける状態に置けないものだろうか。
・・・・などと語るに足りない休憩談義に花を咲かせるのも、口惜しい。
そもそも、昼食時間は昼食を取る時間であって、
これを「休憩」だの「休息」だのと呼ぶことにすら、抵抗がある。
世には、「ランチミーティング」という言葉がある。
これ、さすがに45分では終われない。
ただ物を口に運ぶという動きって、人間離れしてない?
大都会ならともかく、地産地消を推進するスローフードの本場が、
こんなことしちゃいけない。
スローって、別に食べる速さの事じゃないけどさ。
よもや、昼食時間まで仕事かよ、と哂う勿れ。
確かに、嫌いな上司と食事まで一緒にするのはどうかと思う。
異邦人のような部下の話題についていけない上役は、尚更である。
いえいえ、ランチミーティングとは、
直接的な上下関係の無い者同士が、異文化交流的に行なうのに意味があるのであって、
同じ部課でそんなことやってたら、パワーハラスメントの一種。
岩手には、ランチミーティングってないのかな?
つまりは、45分なんていう「餌の摂取」みたいな真似は辞めたらどうなんだ、と。
個々が本当に充実した業務遂行を図るために、
そんなドタバタを続けていたら、精神衛生上もよろしくないのではないか、と。
言ってはなんだけれど、
15分をカットしたからといって、その分余計に仕事が出来る保証など無いわけだし、
その15分にだらだら過ごすも、キッチリ仕事するのも、
当人の心がけと組織の体質にかかっているわけ。
県民はそういうところに着眼していると思うし、
総時間30分が、積もり積もって年間でどれだけの時間になるかという計算上の話より、
今目の前で県職員がどれだけの成果を見せてくれるか、に注目してると思う。
「45分のランチタイム」というのは、「民間感覚」ではないと思う。
なぜそこで、「時間差ランチ」という発想が生まれないのか。
そう言えば、いま「時差出勤」ってあるのかな?
同じ時間に、大量に人が同じ動きをするってことこそ、
人の負担とロスが生まれやすいのではないか。
そんな「余計なお世話」も少々。
30分を仕事時間に当てるくらいなら、
月あたり600分=10時間余の給与を引き下げれば?
それが本当の「民間感覚」というものなんでね。
2007.02.02
驚異的スピード減量法
タイトルの誘われてお越しの方、お疲れ様。
お帰りはこちら・・・・。
余剰を抱えたこの国で、減量を銘打てば物が売れる時代。
答えはもう、一つしかないのに、
誰も彼も「減量」の文言に目が無い。
太らないためには、食事量を制限することです。
痩せるためには、適度な運動を続けることです。
これ以外に正しい方法なんて、何もありません。
それなのに、「楽に痩せる」なんて真に受けて健康食品を買い漁る消費者。
楽に痩せられるなら、もうその商品が世界を席巻しているとは思わないの?
それがまだ世の中に無いということは、そこに答えは無い、ということなのです。
口にするものには細心の注意を払う人が、
健康食品については意外と無頓着だったりします。
お菓子を買うように漢方薬を買って、
ご飯を食べずにサプリメントを飲む。
そこで生まれるリスク全体を考えていない。
「有名メーカーの製品だから」とか「成分が表示されているから」とか。
そこにあるのは「ブランド力と信用」のみ。
危険はあらゆる方面から回避すべきなのに。
不二家の例の事件については、思うところがある。
新聞を見ると「不二家は社内の賞味期限基準を超え」とあるが、
賞味期限の設定自体が「社の一任」であったとすれば、
他社ではもっと緩い賞味期限を設定しているかも知れない。
結果として、不二家よりも危険な食品メーカーがあってもおかしくない。
その先の原材料である牛乳の安全性はどうなのか。
精製糖や純粋塩の人体への影響、卵を生む鶏の衛生環境、餌の内容、
全く次元の違う話ではあるが、そんなに体が心配ならば、
大手メーカーが大量生産するものなど買わなければ良いのである。
ここには「買わない」という選択肢が残されているのだから。
究極的には、
雑菌と害虫の少ない岩手に住んで自給自足と地産地消を推進するのが、世界情勢から見てもっともトレンドである。(笑)
水清らかで全国へ雑穀を供給する岩手県の北部なんかは、魅力的だ。
ただ、完全無欠の地域内循環というのは、もはや不可能になっている。
この地域が目指すべきは、雑穀と言う有用資源を通じて、その価値観を全国へ広め、
その収益で地域内循環を促進することだろう。
そもそも、ダイエットを目指す人間が脂肪たっぷりのシュークリームを食べて
「減量」を謳う健康食品をのんでいるような現況を、
多くの企業はビジネスチャンスととらえているのである。
よほど志の高い人間以外は、そんな戦略の思う壺。
さて、事件が公になって以来、
新聞の「お詫び広告」欄が一気に賑やかになったことを、どれだけの人が気づいているだろう。
この機会に乗じて発表しておけば、不二家ほどの報道はなされない。
そういう見方も出来るし、
改めて確認したら大変なことが次々と発覚した、という見方も出来る。
さらに恐ろしいのは、こうした発表ができるのは新聞広告できる資金力のある会社・幾許かの良心のある会社だけで、
実際、もっともっと色んな「衛生管理の落ち度」があることは、疑いないのだ。
健康食品には、薬品ほどの規制はない。
今をときめく有名なダイエット成分にだって、
将来、どんな発がん性が疑われるかも分からない未解読な部分がある。
かつて美白成分と持て囃され化粧品に多用された「コウジ酸」も、その一種。
これを説明する文言として使われたのは、「杜氏さんは肌がきれい」というもの。
驚くべきことに、現在もこのフレーズを使っているお店がある。
しかし平成15年、厚生労働省は、経過措置として添加物としてのコウジ酸入り化粧品の輸入・販売を禁じた。
「明らかにガンになる食べ物」と断定するには到っていないが、
医薬部外品として肌に塗った場合において、発ガンの可能性がある、というもので現在もその結論は出ていない。
これより先は、まさに「自己責任」。
使うも使わないも、その人の意思一つ。
それ以前に、この事実がどこまで知られているか、という問題があるが。
同様、「高麗人参」にも同じことが言える。
高麗人参は、それ自体に薬理効果が認められる有用植物。
何ら責められるところは無い。
が、この加工製品に日本では認められていない基準以上の農薬が見つかった。
先日、国はこの事実を公表。次長はその資料を見た。
ところが「有用成分の含有量」まではグラフつきで商品名まで明らかなのだが、
そのうちのどの製品に「農薬」が見つかったのか、記されていない。
有用植物を謳いながら、たいして中身のない商品がありました、
という哀しいお知らせのみ。
つまりは、そのどれかが安全でどれかが危険、というロシアンルーレット。
結論としては、どれも口にしないのが最大の危険回避なのである。
こうなってくると、何が良くて何が悪いのか、
消費者はさらに注意深く「口にするもの」を選んでいかねばなるまい。
先般、栃木のいちごから大量に農薬が見つかった事件も、あくまで氷山の一角だろう。
信用をかけて品質保持に努めている企業以外、日常的に商品分析しているところなど無いのである。
企業とて「生産者の良心」に、消費者は「企業の看板」に、信頼を置くだけなのだから。
お帰りはこちら・・・・。
余剰を抱えたこの国で、減量を銘打てば物が売れる時代。
答えはもう、一つしかないのに、
誰も彼も「減量」の文言に目が無い。
太らないためには、食事量を制限することです。
痩せるためには、適度な運動を続けることです。
これ以外に正しい方法なんて、何もありません。
それなのに、「楽に痩せる」なんて真に受けて健康食品を買い漁る消費者。
楽に痩せられるなら、もうその商品が世界を席巻しているとは思わないの?
それがまだ世の中に無いということは、そこに答えは無い、ということなのです。
口にするものには細心の注意を払う人が、
健康食品については意外と無頓着だったりします。
お菓子を買うように漢方薬を買って、
ご飯を食べずにサプリメントを飲む。
そこで生まれるリスク全体を考えていない。
「有名メーカーの製品だから」とか「成分が表示されているから」とか。
そこにあるのは「ブランド力と信用」のみ。
危険はあらゆる方面から回避すべきなのに。
不二家の例の事件については、思うところがある。
新聞を見ると「不二家は社内の賞味期限基準を超え」とあるが、
賞味期限の設定自体が「社の一任」であったとすれば、
他社ではもっと緩い賞味期限を設定しているかも知れない。
結果として、不二家よりも危険な食品メーカーがあってもおかしくない。
その先の原材料である牛乳の安全性はどうなのか。
精製糖や純粋塩の人体への影響、卵を生む鶏の衛生環境、餌の内容、
全く次元の違う話ではあるが、そんなに体が心配ならば、
大手メーカーが大量生産するものなど買わなければ良いのである。
ここには「買わない」という選択肢が残されているのだから。
究極的には、
雑菌と害虫の少ない岩手に住んで自給自足と地産地消を推進するのが、世界情勢から見てもっともトレンドである。(笑)
水清らかで全国へ雑穀を供給する岩手県の北部なんかは、魅力的だ。
ただ、完全無欠の地域内循環というのは、もはや不可能になっている。
この地域が目指すべきは、雑穀と言う有用資源を通じて、その価値観を全国へ広め、
その収益で地域内循環を促進することだろう。
そもそも、ダイエットを目指す人間が脂肪たっぷりのシュークリームを食べて
「減量」を謳う健康食品をのんでいるような現況を、
多くの企業はビジネスチャンスととらえているのである。
よほど志の高い人間以外は、そんな戦略の思う壺。
さて、事件が公になって以来、
新聞の「お詫び広告」欄が一気に賑やかになったことを、どれだけの人が気づいているだろう。
この機会に乗じて発表しておけば、不二家ほどの報道はなされない。
そういう見方も出来るし、
改めて確認したら大変なことが次々と発覚した、という見方も出来る。
さらに恐ろしいのは、こうした発表ができるのは新聞広告できる資金力のある会社・幾許かの良心のある会社だけで、
実際、もっともっと色んな「衛生管理の落ち度」があることは、疑いないのだ。
健康食品には、薬品ほどの規制はない。
今をときめく有名なダイエット成分にだって、
将来、どんな発がん性が疑われるかも分からない未解読な部分がある。
かつて美白成分と持て囃され化粧品に多用された「コウジ酸」も、その一種。
これを説明する文言として使われたのは、「杜氏さんは肌がきれい」というもの。
驚くべきことに、現在もこのフレーズを使っているお店がある。
しかし平成15年、厚生労働省は、経過措置として添加物としてのコウジ酸入り化粧品の輸入・販売を禁じた。
「明らかにガンになる食べ物」と断定するには到っていないが、
医薬部外品として肌に塗った場合において、発ガンの可能性がある、というもので現在もその結論は出ていない。
これより先は、まさに「自己責任」。
使うも使わないも、その人の意思一つ。
それ以前に、この事実がどこまで知られているか、という問題があるが。
同様、「高麗人参」にも同じことが言える。
高麗人参は、それ自体に薬理効果が認められる有用植物。
何ら責められるところは無い。
が、この加工製品に日本では認められていない基準以上の農薬が見つかった。
先日、国はこの事実を公表。次長はその資料を見た。
ところが「有用成分の含有量」まではグラフつきで商品名まで明らかなのだが、
そのうちのどの製品に「農薬」が見つかったのか、記されていない。
有用植物を謳いながら、たいして中身のない商品がありました、
という哀しいお知らせのみ。
つまりは、そのどれかが安全でどれかが危険、というロシアンルーレット。
結論としては、どれも口にしないのが最大の危険回避なのである。
こうなってくると、何が良くて何が悪いのか、
消費者はさらに注意深く「口にするもの」を選んでいかねばなるまい。
先般、栃木のいちごから大量に農薬が見つかった事件も、あくまで氷山の一角だろう。
信用をかけて品質保持に努めている企業以外、日常的に商品分析しているところなど無いのである。
企業とて「生産者の良心」に、消費者は「企業の看板」に、信頼を置くだけなのだから。
2007.02.01
盛岡ナンバー
「盛岡ブランドフォーラム」が、開催されたらしい。
市が「盛岡はブランド」なる名乗りをあげてから、
一年を経てのお祭りだったらしい。
「らしい」というのは、
それが開催される事前情報をどこでも目にしなかったし、
行われたと言う話も、ネット上で見かけるまで知らなかったからだ。
住む町の情報が、ネットを介して初めて事後確認とは、
随分この町もブログ人口を着実に増やしたものだ。
そして一つ、思った。
これは一体、どこの誰のためのお祭りなのか。
盛岡という地域名を、広くアピールしたい気持ちは分かる。
が、「盛岡はブランドです」という展開が唐突ではないか。
盛岡の何がどのように希少価値を持って高められるのか、
説明が後に来て、はじめにブランドありき、の印象が拭えない。
「もりおか雪あかり」を見に行った。
お祭りとしては、非常に美しく気品のあるものだと思った。
雪と闘う地域では為しえない、雪を愛でる穏やかな雰囲気のあるものだ。
雪がほぼ皆無という条件下で、関係者の苦労が偲ばれる。
地域に根ざしたまつりというのは、こういうものを言うのだろう。
この町がやっと、それを見出したことを嬉しく思った。
ところが、ここに「厄介なもの」を見るのである。
パンフレットには、「盛岡城跡公園」の文字がオンパレード。
さながら、この祭りが「盛岡城跡公園」のPRイベントのようにさえ受け止められかねない状態。
多くの市民の反対を圧して決定された「岩手公園の愛称」としての「盛岡城跡公園」が、
こうした祭りを通じて強引なまでに徹底されていく「不自然さ」を、
やはり看過することが出来なかった。
なぜここまでに、市は「盛岡城跡公園」の名称にこだわらねばならないのか。
「岩手公園(国指定史跡・盛岡城跡)」だとか、
「盛岡城跡・岩手公園」といった表記で蒙る不都合とは、何なのか。
そこまでに「盛岡城跡公園」を謳いながら、
市駐車場公社が営む「岩手公園地下駐車場」の名称は従前のままである。
この矛盾に答えずして、「盛岡城跡公園の名称使用を薦める文書」を各方面に出したと言うのだから、不思議でしょうがない。
自分がやらないことを人に薦めるって、どうなの???
ここで今さら「盛岡城跡公園地下駐車場」に改名されたら、
「よほどこのブログに影響力があるんだな」と次長はほくそ笑むだけだが(笑)。
「ブランドを謳うこと」と「知名度を上げること」の根本的な違いが、見えていないのではないか。
「盛岡にはブランド力がある」と声高に唱えても、誰も耳を貸すことは無いだろう。
なぜなら、それは唱える側の主観的思い入れであって、客観的事実が見えないからである。
しかも、主観側=市民でさえ、その認識が曖昧だ。
なぜなら、「盛岡ブランド」のなんたるかを、多くの市民はまだ知らない。
これを客観側=市外・県外・海外に伝えるのは、困難と言わざるをえない。
市はまず、「伝えたい盛岡のイメージ」を「共感できる形で」市民に知らしめるべきなのだ。
ブランドを語るのは、それからである。
「盛岡ナンバー」議論が、沸かない。
湘南、仙台、そして県境を越えた「富士山」が認められるという段になってなお、
この機運が盛り上がらない状況もまた、不思議だ。
「盛岡ブランド」そのものともいえる「盛岡ナンバー」は、
車社会の地方にあって、まったく暮らしそのものといえる。
「もりおか暮らし物語」を標榜する「盛岡ブランド推進」に、
無くてはならないツールだと思うのだが。
盛岡は東北新幹線ターミナルの地位を失い、いま列車は八戸へ向かう。
その八戸には、既にずっと以前から「八戸ナンバー」がある。
いくつもの新幹線や車が走るたびに、沿線や沿道で「八戸」の名前は各地で人々に認識されているのに、
盛岡はそれを失い、求めることも無いままいきなり「盛岡はブランド」と言い出した。
それは順序が違うのではないか。
「岩手公園」の名前がそんなに嫌ならば、
「岩手」というナンバープレートも、早々に返上することだと思う
・・・・といっては意地悪な言い方にもなるが、
「盛岡ナンバー」創設こそが、市民の共感を得やすいブランド政策の一つだと思う。
市が「盛岡はブランド」なる名乗りをあげてから、
一年を経てのお祭りだったらしい。
「らしい」というのは、
それが開催される事前情報をどこでも目にしなかったし、
行われたと言う話も、ネット上で見かけるまで知らなかったからだ。
住む町の情報が、ネットを介して初めて事後確認とは、
随分この町もブログ人口を着実に増やしたものだ。
そして一つ、思った。
これは一体、どこの誰のためのお祭りなのか。
盛岡という地域名を、広くアピールしたい気持ちは分かる。
が、「盛岡はブランドです」という展開が唐突ではないか。
盛岡の何がどのように希少価値を持って高められるのか、
説明が後に来て、はじめにブランドありき、の印象が拭えない。
「もりおか雪あかり」を見に行った。
お祭りとしては、非常に美しく気品のあるものだと思った。
雪と闘う地域では為しえない、雪を愛でる穏やかな雰囲気のあるものだ。
雪がほぼ皆無という条件下で、関係者の苦労が偲ばれる。
地域に根ざしたまつりというのは、こういうものを言うのだろう。
この町がやっと、それを見出したことを嬉しく思った。
ところが、ここに「厄介なもの」を見るのである。
パンフレットには、「盛岡城跡公園」の文字がオンパレード。
さながら、この祭りが「盛岡城跡公園」のPRイベントのようにさえ受け止められかねない状態。
多くの市民の反対を圧して決定された「岩手公園の愛称」としての「盛岡城跡公園」が、
こうした祭りを通じて強引なまでに徹底されていく「不自然さ」を、
やはり看過することが出来なかった。
なぜここまでに、市は「盛岡城跡公園」の名称にこだわらねばならないのか。
「岩手公園(国指定史跡・盛岡城跡)」だとか、
「盛岡城跡・岩手公園」といった表記で蒙る不都合とは、何なのか。
そこまでに「盛岡城跡公園」を謳いながら、
市駐車場公社が営む「岩手公園地下駐車場」の名称は従前のままである。
この矛盾に答えずして、「盛岡城跡公園の名称使用を薦める文書」を各方面に出したと言うのだから、不思議でしょうがない。
自分がやらないことを人に薦めるって、どうなの???
ここで今さら「盛岡城跡公園地下駐車場」に改名されたら、
「よほどこのブログに影響力があるんだな」と次長はほくそ笑むだけだが(笑)。
「ブランドを謳うこと」と「知名度を上げること」の根本的な違いが、見えていないのではないか。
「盛岡にはブランド力がある」と声高に唱えても、誰も耳を貸すことは無いだろう。
なぜなら、それは唱える側の主観的思い入れであって、客観的事実が見えないからである。
しかも、主観側=市民でさえ、その認識が曖昧だ。
なぜなら、「盛岡ブランド」のなんたるかを、多くの市民はまだ知らない。
これを客観側=市外・県外・海外に伝えるのは、困難と言わざるをえない。
市はまず、「伝えたい盛岡のイメージ」を「共感できる形で」市民に知らしめるべきなのだ。
ブランドを語るのは、それからである。
「盛岡ナンバー」議論が、沸かない。
湘南、仙台、そして県境を越えた「富士山」が認められるという段になってなお、
この機運が盛り上がらない状況もまた、不思議だ。
「盛岡ブランド」そのものともいえる「盛岡ナンバー」は、
車社会の地方にあって、まったく暮らしそのものといえる。
「もりおか暮らし物語」を標榜する「盛岡ブランド推進」に、
無くてはならないツールだと思うのだが。
盛岡は東北新幹線ターミナルの地位を失い、いま列車は八戸へ向かう。
その八戸には、既にずっと以前から「八戸ナンバー」がある。
いくつもの新幹線や車が走るたびに、沿線や沿道で「八戸」の名前は各地で人々に認識されているのに、
盛岡はそれを失い、求めることも無いままいきなり「盛岡はブランド」と言い出した。
それは順序が違うのではないか。
「岩手公園」の名前がそんなに嫌ならば、
「岩手」というナンバープレートも、早々に返上することだと思う
・・・・といっては意地悪な言い方にもなるが、
「盛岡ナンバー」創設こそが、市民の共感を得やすいブランド政策の一つだと思う。
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