2007.03.25 街区表示板
盛岡の繁華街「大通」に、新たに街区表示板が掲げられたという。

全く無知だったのだが、
この大通に「亀楽町通り」「高砂町通り」という通りが存在したのだと言う。
といっても「大通なのに、さらに『〜通り』って何なんだ?」と訝る向きもあるだろうから、説明しておく。

盛岡と言うところは、
いわゆる「ストリート」に対してのみならず、
「街区」に対しても「通り」という言葉を住居表示として用いている。
つまり、「大通り」というメインストリートがありながら、
それに面していない場所も「大通〜丁目」という住所で呼ばれているのだ。
蛇足ながら、ストリートは「大通り」と表記されるが、住居表示は「大通」だ。
(尚更ややこしいか?)

もっとややこしいのは、「中央通り」である。
県庁の前は「中央通り」と呼ばれているが、県庁の住所は「内丸」である。
つまり、中央通りに面しているからといって、必ずしも住所が「中央通〜丁目」ではない。
もっとも、次長が幼い頃は、今で言う「中央通り」は「県庁通り」と呼ばれていたものだが。

ややこしいついでに言うと、
「開運橋通り」は、人によってそのストリートがどれなのか、認識が違う。
「開運橋通り=開運橋から菜園に到る通り」という認識と、
「開運橋通り=開運橋から大通りに到る通り」という認識である。
これも同様、「開運橋通」という住居表示があるが、
曖昧で紛らわしいことこの上ない。

「盛岡駅前北通」となると、もう悲劇である。
「盛岡駅前北通り」というストリートはどれか、と訊かれても答えようがない。
さらにたちの悪いことに、「新町通」という表示があるのだが、
そういう呼び方が市民権を得ているとは到底思えない。
むしろ初耳である。これが「新町通」ならば、
「盛岡駅前北通り」というストリートは、想像上の産物なのか?

「盛岡駅西通」まで来るともはや、言葉もない。
新たに生まれた盛岡駅西口に面しているからそうつけたのだろうが、
そんなストリートは端から無いし、出張族には大変な混乱をきたしていると聞く。

通りの名前だけを言えば、昔「菜園通り」と呼ばれていたストリートは今、
一部の方面から「公園通り」と呼ばれている。
ただ、正式名称が菜園通りだという根拠も無い。

「本町通り」は「本町通〜丁目」を貫いているが、
あまりに通りが長いので、通りを言われても場所の見当が付かない。
それぐらい、盛岡では通りの名前と言うものは曖昧としたものである。

だいぶ寄り道になった。
つまるところ、「大通〜丁目」と呼ばれる街区は碁盤目状になった飲み屋街で、
メインストリート「大通り」と交差する横丁に、
「亀楽町通り」「高砂町通り」という通り名を掲げるというのだ。

その由来についてまでは分からないが、面白い試みだとは思う。
で、その表示はどんなものかと思ったのだが・・・・。

「予想外」である。
でかい。それなのに、目立たない。
早い話が、「電柱看板」である。
残念だが、これでは定着はしないだろう。
しかもそれでも由来があるところを見せようとしたのか、「毛筆楷書体」である。
あの「盛岡駅」の「仰々しいのに立体感のない」新看板を見た思いだ。

確かに予算面や許認可などで、易々と石碑や金属プレートなんかは建てられなかったんだろう。
しかし折角の名案、これでは魅力も半減である。
何とかならなかったのか。
2007.03.24 球児
「球児」とは、高校野球をする生徒だけを指す。
球を蹴ってもドリブルしても、永遠に「球児」とは呼ばれない。
それほどまでに特別な「球」ってなんで野球なんだ!?と
ずっと思っていた人の戯言。

いわゆる「西武裏金問題」である。

「裏金」と聞けば穏やかではない。
が、日本語というのは本当に便利と言うかデリケートと言うか、
面を返しただけでたちまち「ダークな印象」を与えるから不思議だ。

物は言いよう、話しよう、考えようである。
確かに現在のシステムでは、こうした金銭の流れは「裏」なのかもしれない。
が、そのシステム自体を改善する(覆す、とも言う)としたら、
これは裏も表もないのである。

日本は、貧しい人間が能力を発揮できる環境に無い。
この風潮は今後、ますます顕在化してゆくだろう。
今回採り上げられた当事者の貧富についてまで、次長は与り知らないが、
富を保つ側「球団」が、片田舎の一球児に白羽の矢を当て、
その教育環境について補助を申し出るということが、
そんなにいけないことなのか?

「アマチュアがプロと練習するとは言語道断」というのがアマチュア側の意見だが、
早いうちに「本物」に出会って、イメージトレーニングするということは、大変素晴らしいことだと思う。
むしろ、そうした機会に対してプロは広く門戸を開き、
アマチュアの側も、そんな「夢」を「現実」へ近づける努力を、当然為すべきだろう。

大学であれ、有名選手の獲得については躍起になっているではないか。
スポーツ特待生が、学費免除なんてのは、高校ですら普通にある事実。
大学に到っても、当然存在している。
東京六大学のスポーツ対決は、全国からかき集めた俊英のぶつかり合いだし、
大学は良くて球団がダメ、という論理的な説明が得られない。
そこが「アマチュアとプロの差」なのだとすれば、
「早稲田に進学しなさい」と球団側が選手に指示する根拠って、何なんだ?
球団の意志で、特定大学への入学が可能になるの?

ともかく、球団がそこまでして欲しい、と思える人材が
たとえ地方にあっても注目されて、
育成にまで注力してくれるなんて、有り難い話じゃない?
そこに対して「ダメ出し」ってのは、要は制度が追いついていないと言わざるを得ないのだ。

いくら成人とは言え、
実名で報道した上に、謝罪会見をさせ退部とは、どういうことなのか。
さらに立場的に弱い側の「高校」へも影響は波及。
こういうときには「連帯責任問題」が出てこない。
末端だけが切られてサヨウナラ、なのか?

いつも思うのだが、
たかだか生徒一人の不祥事で、チーム全体が出場停止になったりする高校野球の仕組みも解せない。
高校までは究極の縦社会なのに、プロに到ると途端に自由。
こういう世界は、他のスポーツではなかなか無い。
だからこそ、野球界はプロとアマとに厳密な線を引きたがるの?

他人の不手際で一生が台無しになるかもしれない高校野球ってのは、
リスク回避の一番難しいスポーツである。
嘘も方便と考えたらいいのか、正直に告白した彼が立派過ぎて、
その潔さに右往左往するオトナたちが、哀しい。
2007.03.21 ウマし国
はじめに言っときますが、馬の話ではありません。(笑)

宮城県が、来年JRグループと行なう「デスティネーションキャンペーン」での使用する予定の
観光キャッチコピー・「美味(うま)し国 伊達な旅」に対し、
三重県が、自県の「美し国、まいろう。」とかぶるんじゃないか?と抗議の姿勢を見せているという。

まぁ、どっちの言い分も分からないではないが、
総じて三重県に軍配が上がるような気がする。

同様のキャッチフレーズが他県にあることは事前に分かることだし、宮城県側が当然調べておくべきことだ。
それが宮城県職員の仕事かどうかは別だが、少なくとも広告代理店に依頼していたのなら、依頼先の責任問題だと思う。
何しろ、三重県側の「美し国」の由来が「日本書紀」だと言われては一たまりもない。(笑)
そこは三重県のプライドであり、「字が違う」では済まされない問題である。
「ウマし国」が頭に並ぶ以上、類似していることは否定しようがない。

一方、美しさでなく「美味しさ」を売り出している宮城県、
それは誰が否定できるものでもない。
実際に、農漁業生産について、非常に豊かで恵まれたところだと思う。

が、宮城県がつらいところは、その「所在の曖昧さ」である。
宮崎県知事が有名になれば、その「間違い例」としての、
浅野史郎氏が都知事選に出馬すれば、その「前任地としての位置づけ」と、
宮城県そのものがフィーチャーされた記憶は、あまりない。

しかも県庁所在都市・仙台市の存在感を無視できないながら、
仙台を前面に出せば、その知名度ゆえに宮城県が全て「杜の都」のイメージに呑み込まれてしまう恐れがある。
実際に観光客が訪れるのは、大方「仙台圏」だろうが、生産地としてPRしないことには、宮城県のPRにはならないのである。

しかしここで注目。
シンボルマークが「おにぎりに伊達政宗の兜」って一体・・・・。
味覚=宮城県、文化=仙台市という微妙な棲み分けと、
その折衷案を地で行くシンボルマークの存在である。

むしろ、宮城・仙台に期待されているのは、
「伊達政宗」という異色で奇抜なヒーローの存在ではないのか。
詳しくないのだが、ゲームの世界では、彼の名前は相当に人気があるそうである。
岩手県で南部の殿様をキャラクターにしたら、いろんな意味で暴動が起こるだろうが(笑)
宮城県が伊達政宗をキャラクターにしたところで、
誰もが一様にうなづくだけの話である。
ただ、「伊達な国、参らん。」は避けた方がいいハズ。

宮城県を模して舞台にした漫画に「ジョジョの奇妙な冒険」というのがあるが、
これなどは、宮城県に「キャラクター世界を探求する」ツアーすらあるのだと聞く。
消費と言うものは、どこにその可能性があるのか、表面だけでは分からないものだ。
「イメージと現実」のスキマを埋めるキャッチフレーズとしては、
三重県の「美し国、まいろう。」が断然優れている。

さて、「抗議は三重県のイメージ低下になる」という意見もあるようだが、
まずもって、これが三重と宮城のPRに寄与している事実は無視できない。
キャッチフレーズで旅行先を決めている人間などいない、と
言ってしまえば元の木阿弥だが、
何を言われようが三重県のため、ひいては宮城県のためになっている
三重県知事の一言は、重みを持つのである。
その費用対効果たるや、大変なものである。
これが実は水面下での手打ちでした・・・なんてことだったらホントすごいよ、そのプロジェクト。

ただ気になるのは、「日本書紀の著作権問題」である。(笑)
「美し国」というフレーズを使うことによって生活に支障をきたす人はいないと思うけど、
文学上のフレーズを使うことに不快感を感じる人がいない、とはいい切れない。(ややこしいね)

その点、各地域の成り立ちがこれだけバラバラな岩手県が、
何のしがらみもなく「イーハトーブ」の一語に集約できてることは、
宮沢賢治さんの偉業と言わざるを得ないね。
2007.03.20 馬耳東風
面倒と言えば、面倒な話である。

県議会の県競馬組合に対する融資案否決から一転、
「岩手競馬の存続」が決まった。
いや、存続と言うよりも正確には「廃止の先延ばし」だ。
段階的縮小と言う意味では、関係者の精神的ショックをやんわりと回避できただろう。
がしかし、そこに「光明」を見出したとすれば、信じた人間は報われない。
誰がどう見ても考えぬいても、明るい希望は、そこには無いのである。
金が無いのに賞を出すとは、一体どういうことなのか?

「大切だから残す」有形文化財とは、訳が違うのである。
歴史を辿っていけば、馬産地岩手の競馬とは、いわばそのものが文化財級価値を持つ。
しかし、今ある人間の生活をよりよくするために、
埋蔵文化財でさえ、調査記録のみを施して破壊されているのが実情である。
競馬という「岩手県内陸部最大の祭事であり民俗」を残すという選択は、
文化を尊重するために社会保障を犠牲にする行為である。
見方によっては、自己犠牲の上に文化を成立させるという清貧な思想にも見えて、
「対外的にも美しい」という自認と、一部の人間には十分な満足感さえをも与えかねない。

過去を遡って、輝かしい栄冠を誉めそやし讃えるのは、一向に構わない。
しかし今、巨額の負債を抱えて「備蓄」を大放出、
それでも尚足りないと、一般県民の生活そのものを覆すのだ。
これからさらに、地方から都会へと富が集う時代に。

どこを見ても、岩手は貧しい。
企業は部分的に潤ってはいるが。
過去30年で、往年の貧しさから一転して一時的に所得を増やしつつも、
人口の減少が再び貧しさへと回帰させている。

そこへ来て、競馬論議が「岩手県民全ての関心事」のような取り上げられぶり。
岩手県が「県北・沿岸振興本部」を置くなど、
県北・沿岸地域を名指しで振興しなければならない「格差の現実」を見るとき、
県南・内陸地域は、これの対義語として位置づけられる。
ところが、この地域は「競馬」による「振興」を目されている。
今回の決定とは、まさにそういうことなのである。

「県北・沿岸」は、豊かなはずの「県南・内陸」に巻き添えを食った形。
「県北・沿岸」は「生産地」として期待されているが、ここにはそれを将来担う子どもたちがいない。
そういうところから、問題は始まっているのである。

岩手県が、県として初めて「財政再建団体」に陥ることさえ、想定する時期が来た。
借りたものは返すのが筋だから、融資した側にも責任を問えばいいのでは、というのは愚問だと思う。
何しろ、貸す側にだって地域貢献への無言の圧力があるわけだし、
よもや地方公共団体が借金を踏み倒すなんていうのは、ありえない(あってはならない)ことだからだ。
借りたもは、きちっと返す。
その上で、だめならだめで、だめになった責任の所在を明確にし、
以後、このような「不手際」を繰り返さない宣言をすれば良いのである。

しかし現実はこの逆へ進んでいる。
誇り高い文化と社会的関心のために、貧しい県がこつこつ貯めた未来への投資金を、ギャンブルよろしく花と散らすのである。
それを決めた人たちが、せめてもと給与の半分でも拠出するというのなら、見上げた根性だが。

時流を追う、開催都市二つ。
まさか、自分たちが財政的に豊かなんだと勘違いしているのではあるまいか?
これは大いに疑問である。
可哀想とか気の毒とか、思うのは自由だが、いずれ思われる側にならないよう努めてもらいたいものだ。
競馬は優れた文化であり歴史であり地場産業ではあるが、
今、他のあらゆるものを投げ打ってでも特別視しなければならないものではない。
他県の人に、ここ数日岩手で起こっていることを伝えたら、こんな答えが返ってきた。

「競馬が、そんなに重要なことなのかしらねぇ?」

傍目には、そんな感覚の出来事である。
それほどまでに、「馬事」は岩手県民のDNAに深く刻み込まれていると言うことなんだろう。
それほどに神聖不可侵のものを守るために、なぜ徹底的な取り組みをしなかったのだろう。
競馬に拮抗する競輪・競艇・パチンコの類は、すべて岩手県の審査に基づき営業を許可するとか。(笑)

感性とか感情とか、
理路整然と説明できない感覚に負う決定ほど、厄介なものはない。
同族意識の中で生まれる「それ」は、
関係のない人からしてみれば、実に下らない采配に映るのである。
競馬に携わる人がかわいそうなのは事実だが、
そういった感情が先にたった議論では、
冷静な総合的判断はできない。

本当に可哀想なのは、
やるんだかやらないんだか、よく分からない情報に振り回されている
岩手県民そのものである。

県民の声は、どこへ届いているのか。
2007.03.18 蒼ざめた馬
岩手県競馬組合に対する、300億円を超える融資案が県議会で否決された。
わずかな望みを繋ぐ人々が依然いるが、事実上、県からの廃止宣告である。

様々な意見が巷間を走る。
「もっと早くに手を打てば良かった」
いや、手は打ったのではないか? その方法が手ぬるかったかも知れないだけで。
「競馬は文化だ」
それが文化として遍く認識されるために、関係者はどこまで「馬券を買わない一般人」への周知をしたのか。

無くなると言う現実が目前に来て初めて、
「やっぱり勿体無い」という論調に傾く人もいる。
つまりは、岩手の内陸部で長く「特別な存在」であり続けた
「競馬」という「神聖なる馬事」について、
よもや今すぐに無くなると言う方向性が打ち出されるとは、
大方半信半疑であったのだと思う。

「ギャンブルに税金を使ってもらいたくない」
そう言われてしまえば、競馬の成り立ちから根本的に否定されたことになる。
好むと好まざるとに関わらず、間接的にその恩恵を県民が受けていたのは事実で、
それが今、無くなったことに対して原点から否定するのも如何なものかと思う。
岩手競馬成立以来、この産業に携わり、また関わってきた産業も間違いなく多いわけで、
「これで終わりです」と宣告をしたところから、
見えない部分への影響がじわり浸透してゆくことは、想像に難くない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないけれど、
馬が走らなくなったところから、経済の流れも一気に停滞するのは目に見えている。
しかし現状、県がこれ以上の追加融資をして救済するのは、得策ではない。
趣味の多様化が進む今、人口自体が減っているのに岩手県で競馬人口を増やすのは、はっきり言ってもう無理だ。
全国規模で売り出すという声もあるが、岩手だけに特化して地方競馬に興味を持ってもらう方法と言うのは、
なおさら金のかかることである。

ただ、この事実が地域に与えるインパクトは、あまりに大きい。
県が県の責任で行なうには、段階的な縮小と言う手もあったはずだ。
そして、選挙という政治的な駆け引きに関わってしまったことにも不満は残る。
そして何が不思議かと言えば、経営の建て直しには県ばかりが関わっていて、
肝心の収入確保を一番良く知っているような民間企業出身者が導入されないことである。

殊に奥州市の対応は切実である。
かたや、盛岡市の場合はどこ吹く風。
そもそも、オーロパーク(新盛岡競馬場)建設以後の経営状態が問題となっているらしいが、
その場所の選定過程にも、様々な地域事情が交錯していたと聞く。
これには、大いに盛岡の商業事情が関わっており、
奥州市にとっては、とんだとばっちりだ。

ところで、
最近の競馬報道にあたっては、「奥州市・盛岡市」と
奥州市を前に、盛岡市を後に列記する例が多いように思う。
かつての水沢時代なら「盛岡市・水沢市」だった。
この並びから言えば、五十音順の原則ではない。

奥州市という名前のスケール、壮大さから来るものなのか、
奥州市の競馬に対する悲壮感からなのか。
いずれ、競馬会館をサラッと購入してなお、
批判も少ない盛岡市の、深刻度の低さが際立つ。

これは、豊かさの為せる業なのか、それとも・・・・。
今年のチャグチャグ馬コに影響が無ければ、幸いだが。


これは、とある学習塾の先生に聞いた話。

「地域間格差」が、広がっているという。
何を今さら、という向きもあるだろうが、
この地域の幅が問題である。

広域圏ではもちろん、同じ市内でも、その差が顕著だと言う。
敢えてここまで言う根拠と必然性とは、一体何なのか。

詳しく聞くと、「教師の質の問題」と返された。
いや、確かにそれもそうだが、「親の問題」でもあるようだ。

とある中学校では、その学年に当然習得しておくべき内容が、生徒たちの頭に入っていないという。
その理由を聞くと、一様に彼らは「学校で教わっていない」と答えたらしい。
その生徒の習熟度に関わらず、どの生徒も同様の答えを返すことに疑問を感じて、
「塾の先生」は、詳しく聞き取り調査をしたのだという。
すると、学校教育、特に公立中学校の驚くべき実態にぶち当たったそうだ。

いわゆる「教育にうるさい親」が多い学校では、
必要に迫られて、先生たちが奮起するという。
もしくはそれに対応しうる人事によって、「まともな環境」が整うらしい。
ところが「無関心な親」が多い学校では、
教師もそれなりの対応しかせず、結果、授業内容も惨憺たる状況のまま、推移するという。

不幸にして後者の学校へ子どもを入れざるをえない状況に置かれると、
自覚の高い親は「越境入学」という手段に出るのは昔から変わらない。
が、よほど親の視野が広かったり、自覚が高くなければ、
普通はそこまで出来ない、やらないというのが実情だろう。

とかく、「普通に学校の勉強していれば大丈夫」という言葉が
絶対正義のようにまかり通っているが、それは学校の側が
いわゆる「普通」であれば成り立つ言葉であって、
学校が普通でなければ、子どもは学校を越えてそれ以上の努力を為さなければならない、ということである。
人格形成途中で、右も左も分からないような井の中の蛙に、
「大海を見よ」と言ったって、それは土台、無理な話。

めぐり合わせで「教師の良からぬ学校」へ振り分けられてしまった生徒は、
その時点で既に、大きなハンデを背負わされることになる。
そうなってくると、世に言う「教育バウチャー制度」の待望論となるわけだが、
制度上の問題として、これには「特定の学校に生徒が集中するのが明らか」なのと、
「人口の少ない地域では選択肢がない」という2点で、大きな問題は残る。
もっとも、これが全県規模、全国規模でどこでもお好きなところへどうぞ、っていうなら(経済的問題は残るにせよ)別だろうが。

公立学校の制度は既に、制度疲労だと思っている。
大学が全国区になっている以上、高校教育が地方行政に組み込まれているのが、既に時代遅れのような気もする。
もはや、都道府県立学校は、国に一元化されて本当の意味で「均等化」(均質化ではない)された方が良いのではないか。

市町村立学校に、県が教師を配分しているというのも、見方によればおかしな話ではある。
その市町村に必要な教師は、その自治体が決めればいいようにも思うのだが。

今年、福島県教育委員会は、ベネッセコーポレーションに
授業だけでなく、教職員の学習指導方法まで含めた事業委託をしたらしい。
大変結構なことである。
さらに素晴らしいのは、この選択の経緯が、
全国から公募であること、教員・親・教委の話し合いによるものであることだ。

振り返って、「同じ市内で格差が顕著」と指摘された当地である。
無論、これを公に指摘して糾弾したではないが、
「塾の先生」の驚きと愕然は、想像に難くない。
何しろ、学校の授業を補完する塾という「分相応」を心がけた結果がこれである。
「学校の授業そのものが充足していない」以上、塾は生徒にそれ以前の、そしてそれ以上の教育を施す必要に迫られたのだ。
「塾に行っても成績が上がらない」のは、
塾が悪いのでも本人が悪いのでもなく、学校の授業をまともに受けた結果、である場合だって否定は出来ないわけ。
「基礎的なことすら教えてないのに授業は時間で進んでいる」とは、
「塾の先生」の話。
もっとも、本人の努力や能力による部分が大きいのは確かだけど。

地域によっては、「学校の授業が第一」とは言えない状況。
そういう前提で、今後も公立中学校への不信感は、なおいっそう続くだろうね。

「バカだと思って教えると伸びない、天才だと思って教えると伸びる」っていうのは、教育研究では有名な実験結果。
次長、少なくとも職場では、そう思ってやってます・・・・。
実際、結論はその通りですよ。
2007.03.06 チンジャラ
夜も10時を過ぎた頃から、
岩手のテレビは随分と賑やかだ。

パチンコ、パチンコ。またパチンコ。
手を変え品を変え画を変え音を変え、
次から次と色んなパチンコ店のCMばかりが続く。

次長、これにはウンザリ。

パチンコが悪いとか嫌いとかではない。
ただ、恒常的にパチンコのCMばかり見せられては、具合が悪い。
しかもそのどれもが、特徴的なCMソングをうたい、
耳をつんざくような雄叫びに彩られ、
技術を駆使したような機械音にまみれている。
どうにかならないのか、ホント。
ただでさえ、同じコマーシャルばかり流れてるのに、
そのスキマを縫うように、パチンコパチンコ!

同じ機種をいろんなパチンコ店が導入すれば、
皆が一斉にその台をPRする。
これまた、耳障り。

むしろ、これだけ同じような自己主張を続けるよりも、
しっとり静かで高級感のあるものとか、
芸術的な切り口の方が余程目立つし好印象じゃないかと思う。

おそらく、それなりのお金でこういうコマーシャルをしてるんだろうけど、
せめて、それぐらいの配慮は欲しい。
子どもがパチンコ店のCMソングを真似してうたってる状況ってのは、
かなり不健全だと思う。

意外に知られて無いみたいだけど、
パチンコ店のコマーシャルって、全国的によくあるものではない。
都会に行くほど無いし、特に東北地方は極端に多い気がする。

朝から晩まで、「新台入替」の連呼、本当にカンベンして欲しい。
そういう感覚を持たないってことは、
これが普遍だと意識付けられた証拠です。

これを改善するカギってのは、
一体どこにあるんでしょう?
誰に言えばいいの?

昔のパチンコ店のCMって、
もっとほのぼのしてたよね。

そういえば最近聞かないけど、
「軍艦マーチ」って店内BGMの定番だったね。
なんだか懐かしい・・・(笑)
2007.03.04 本を買うこと
洋泉社刊「ファスト風土化する日本」を、読んだ。
サブタイトルに「郊外化とその病理」、
帯には「地方自治体、商店街から絶賛のロングセラー」とあった。
内容は、このタイトルから推して知るべし、
読んで字のごとく、そのままの内容である。

著書は、新潟県に生まれ、パルコの情報誌編集長から大学講師に到った。
地方が都会の経済力に飲み込まれていくさまを、
時に強い「感情」を込めて語っている。

バブル全盛期、都会の若者が著者の故郷に出来たスキー場に詰め掛け、
(著者の思いの中で)うるわしき田舎の風景が木っ端微塵に破壊されていく悲哀。
それを語る文章は、まさに「故郷への思い」である。
ただ一方で、「犯罪現場の近くにはなぜか○ャスコがある」など、
なかなかユニークというか、びっくりするような表現に驚く。
何かあったの?と訊きたくなるくらいに。

詳しくは直接読んでいただくほか無いが、
感じたのは、「故郷は遠くにありて思うもの」の一言である。
著者は既に、新潟に生きる人ではない。東京で最先端の文化を発信し、
地方を客観的に語る側の人間になっているのだ。

地方での生活は、都会に住む人の想像を超えている。
都会人が何でも容易く手に入れられる自分の状況を棚に上げて、
地方で欲しいものを手に入れる状況は非、とすることは、都会人の身勝手だ。
一方で、果たして地方では、本当に必要とされているものが供給されているのか、という疑問は残る。
同じではないが、似た状況に置かれている次長には、そのことが痛いほどに分かる。
地方の情報の少なさは、あまりにも酷い。
取捨選択された情報だけが放たれた地方では、議論さえ起こる余地が無い。

ときに人は、「田舎は人情味があって昔からのコミュニティに恵まれている」という理想で染めようとする。
しかし実際、それを実現しようと思えば、経済的安定が第一。
ある程度人口ピラミッドのバランスが保たれていて、商店街で専門店が維持できて、生活圏内で経済流通が活発なことが要件。
都会は回遊性があるから、昔からの店もマンションを建てて不労所得を得ながら、専門店を維持することができる。
固定して安定するから、商店街としての結束も保てるし、相続税のために土地を手放すという流動性は、田舎の商店街より少ない。
つまり、東京や大阪のような「都会」こそが、その理想を一番追求しやすいのだ。

貧しい地方は、何しろ都会から人を呼んで金を落としてもらうのが先決。
ときに教育投資のために山林を切り売りしなければならない。
必要かどうかわからないダムも、造ることがあっただろう。
若者は都会へ流出し、その若者が都会人の顔をして、田舎のスキー場へやってくる。
それを見て、同じように都会へ流れた地方出身者は嘆く。
人を供給しながら、金は都会へ一方的に流れてゆく。
一時のリゾートバブルは、そんな一端を覗かせたのであろう。

都会は精神的にも物質的にも、
むしろ比較的豊かな生活を実現しているのだと思う。
都会の内部では大きな格差社会を生み出しているが、
都会対田舎、という対立軸を見れば、価値観という情報を発する側の都会が圧倒的に有利である。
昔、田舎で理想とされていた生活を実現しようと思ったら、
今、田舎は「都会を目指す」ほか無いのである。
田舎だけで経済社会を完結することは出来ないのだから。

たとえば次長は、この本を「さわや書店」で平積み状態なところから買ったのだけれど、
アマゾンで本を買ったって、値段は変わらない。
盛岡にはたまたま、本屋の存在と言う都会的選択肢があったから買えたけれど、
本屋も無い田舎では、ネットでアマゾンで通販と言うバーチャルな選択肢しかない。
これが、田舎が都会よりバーチャル化しているってことだ。

買い物にしたって、
送料を差し引いても通販で買った方が安い場合が多い。
「ネット通販」という手段を知る人・使う人が増えれば、
どうしたって、地方は没落する。

ところがこの本では、「地方の生活がバーチャル化」というのは「田舎の人はたくさんテレビを見ているから」と説く。
買い物に行かない間はテレビで○オンのコマーシャルが流れ、
それを見てまた買い物に行くのが「ファスト化」だという。
これをどう見るかは、読者の判断だが。

本に関して言えば、盛岡にジュンク堂書店が出来てから、次長は本の購入額が各段に増えた。
なぜかといえば、どういう本の存在があるか、これはネットでは計り知れないリアルな感覚だからだと思う。
アマゾンは書名がわかればこれ以上に便利なツールは無いんだけど、
他にどんな本が注目されてるか、は「新しい知識欲」には繋がらないきらいがある。

ジュンク堂の存在は、極めて「都会的なニーズ」を満たすものだ。
これはチェーン店だが、「消費社会化の象徴」として非難はされない。
地元書店には大きな脅威なはずだが、これはどうしたことだろう?
田舎をダメにしている本体は、果たして何なのか?!
少なくとも、ジュンク堂書店の存在は、田舎の文化的生活を向上させているわけだが。

同様、著書は後半で、全国チェーンである「紀伊国屋書店」弘前店の品揃えを讃えつつ、中心街の衰退を「○オン」の影響と断罪、
「地方には人生のモデルが無い」と、数々の職業人が生きる都会の人間構成を賛美する。
地方でのショッピングセンターの誕生で「流動性」が高まることを問題にしながら、
多様で異質なものが存在する都会の町(吉祥寺など)を賞賛している。

都会成分の抽出されたエキスを、コンパクトにまとめたのが「ショッピングセンター」である。
これが田舎に生まれるのが問題だとしたら、要は「田舎モンは指をくわえて都会の暮らしを夢見てろ」ということなのか?

田舎の暮らしがバーチャル化しているのは、事実である。
しかし、日本と言うシステムはこれを阻止しようと必死だ。
それを支えるのが、中央集権による管理と統制である。
田舎は田舎らしくあれ、という強い思いに、
田舎の人々は翻弄されるばかり。
今や田舎は、都会人の一時的享楽を満たすワンダーランドでしかない。

この本の著者は、「風土」という優れた視点で締めくくろうとしている。
が、その結論がどうも、見えない。
「郊外化」という言葉が、ここではアンチな言葉として使われており、
それを解決する方法としてやはり「中心市街地に住めばいい」と予想通りの答えが連なるのだが、
そこで郊外はどうなるのか、という答えが見えないのだ。
何しろ、日本国土のほとんどが「郊外」なんだし。

果たして、田舎の町は、どこを目指して進めばいいんだろうね?