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2007.05.26
張り紙
管理の行き届かない公共施設で、
いつも目を覆いたくなるのが無造作な「張り紙」である。
「○○センターはこの先」
「駐輪場はこちらです」
「××会場は2階」
それが、壁から窓から、それはもうやりたい放題に(笑)貼りまくり。
剥がした後のセロハンテープの中途半端に残ってるし、
壁が変色しているし、
最も酷いところになると、立て看板の上にポスターなんかを貼っていて、
そのそもの「立て看板の用途」を生かせていないことさえある。
こうなると、もはや貼る側の感性の問題としか言いようがない。
施設管理というのは、やはり徹底して専従の管理責任者がいても
その「感性」によるところが大きいのだな、と痛感する。
自然石をあしらった高級感のある壁に、
手作り感たっぷりの張り紙をすることが、
どれだけ品位を落とすのか、貼る側には全く分からないのだろう。
たとえばホテルにはそんな光景などあり得ない。
それは「イメージ」を第一に、しっかりとしたまともな感性が生きているからである。
もし仮に、「トイレの場所」のような恒久的な施設位置が分かりにくいのだとしたら、
それは設計の段階からのミスなのではないか。
しかもそれを発注した側の責任も重い。
何らかの「サイン」が必要ならば、それはパソコンで応急処置したような「張り紙」で処置すべき問題では無い。
伝えたい気持ちは分かるのだが、
とにかく一方的にベタベタと、ポスターやらチラシやらを貼り付ける感性は解せない。
それが景観を乱している事実に気づくべきではないのか、公共施設は。
いつも目を覆いたくなるのが無造作な「張り紙」である。
「○○センターはこの先」
「駐輪場はこちらです」
「××会場は2階」
それが、壁から窓から、それはもうやりたい放題に(笑)貼りまくり。
剥がした後のセロハンテープの中途半端に残ってるし、
壁が変色しているし、
最も酷いところになると、立て看板の上にポスターなんかを貼っていて、
そのそもの「立て看板の用途」を生かせていないことさえある。
こうなると、もはや貼る側の感性の問題としか言いようがない。
施設管理というのは、やはり徹底して専従の管理責任者がいても
その「感性」によるところが大きいのだな、と痛感する。
自然石をあしらった高級感のある壁に、
手作り感たっぷりの張り紙をすることが、
どれだけ品位を落とすのか、貼る側には全く分からないのだろう。
たとえばホテルにはそんな光景などあり得ない。
それは「イメージ」を第一に、しっかりとしたまともな感性が生きているからである。
もし仮に、「トイレの場所」のような恒久的な施設位置が分かりにくいのだとしたら、
それは設計の段階からのミスなのではないか。
しかもそれを発注した側の責任も重い。
何らかの「サイン」が必要ならば、それはパソコンで応急処置したような「張り紙」で処置すべき問題では無い。
伝えたい気持ちは分かるのだが、
とにかく一方的にベタベタと、ポスターやらチラシやらを貼り付ける感性は解せない。
それが景観を乱している事実に気づくべきではないのか、公共施設は。
2007.05.20
その一言
貨幣経済社会に生きる我々は、
好むと好まざるとに関わらず、「買う」という行為を生活の中に採り入れている。
自立した生活を送るためには、何をおいてもこれを外すわけにはいかない。
たとえ自家製野菜を食べている農家の人であっても、
魚やら卵やらをすべて自給するわけにはいかないのが実情だ。
しかしここには、単に「カネとモノを交換する」という原初的な意味での「買う」のみならず、
「気持ちよく買う」という付加価値、すなわち「サービス」が伴っているのが、現代の商業のあり方である。
ところが、だ。
次長は最近、ある場面で、大きな反目する二つのケースを目にした。
同じような商品を買っても、これだけ差があるものか。
びっくりというか、がっかりというか。
いや、それは「呆れ」に近い感情だったのかもしれない。
中心市街地の、とある店での話。
男性店員は35歳くらいだろうか、商品の特性について説明を続けていた。
それは思い入れとか愛着と言ったものではなく、
単に「メーカーにこう言われています」という「伝聞」だった。
その態度はおよそ「売り手」ではなく、さながら「講師」である。
常に上から見下したような物言いで、自信満々。
この自信は一体、どこから来るのか?
ぴくりとも笑わないので、こちらが笑って見せたが不審そうな顔をする。
人が説明しているのに何を笑ってるんだ?とでも言いたげな仏頂面。
その割に、質問をぶつけてみれば曖昧な返答。
「とにかく僕も使ってますけど、いいですよ」
何の説得力もない、ただの感想である。
今日び、下調べの一つもして客がやってくることを彼は知らないのか?
結局、「売り手が悪くても商品はいい」と見込んだので買うことにした。
買った当人が言うのもおかしいが、決して安物では無い。
20分ほど検討して、その場で決めた。
そこで彼はどう反応したかと言うと、
「はい」でも「ありがとう」でもなく、
「じゃ、これレジに持ってって下さい」
多分悪気は無いんだと思うが、もっといいサービスを知っているこちらとすれば、目を円くした。
言われなくても持ち去ったりしないが(笑)、君は何年ここに勤めたのか、と内心思った。
その後、また別に同様の商品を買う必要が出て、郊外店へ行った。
そこでは20台前半くらいだろうか、若い店員が対応した。
商品知識とともに、それぞれの客に見合った「あしらい」を知っているようである。
値段としては、決して高額ではない。
むしろ安い部類の買い物である。
別に聞いてまで買うようなものではないな、と思いながらも、15分ほど思案しているところに彼はやってきた。
しつこくなく、客に考えさせる猶予を与えるところがプロである。
「もしお好みのものが無ければ取り寄せますので」
本来当たり前の台詞ではあるが、近頃こうしたフレーズを使える店員がいない。
この時点で、彼が優秀な販売員であることがすぐに分かった。
よく耳にする方も多いだろうが、
「ここにあるので全部ですね」というのが、現在の多くの店のマニュアルである。
その中で決めてもらった方がめんどくさくないし、
在庫も捌けるというのが本音だろう。
「サイズが無ければお出しします」と言っても、
わざわざ取り寄せることまではしない店が多い。
これは、店側の都合の押し売りである。
しばしのやり取りの後、商品を決めると、
彼は深々と頭を下げて「ありがとうございます」といい、
「レジまでお持ちいたします」と続けざまに言った。
・・・なんだろう、この違いは?
年齢とか適性とか教育とか、
様々な示唆にとんだエピソードではあるが、
確かにいえることは、所謂「買い回り品」について
田舎では今やサービスが追いついていないと言うことか。
(盛岡の人々は、高級品はいまや東京や仙台へ出向いて買うと聞く)
確かに、昔は違ったのかも知れないが、
今では社員教育の行き届いた郊外店の方が、サービスレベルは上である。(全てではないが)
しかもこの店は、以前にも他の店員の手際のよさが際立った。
嫌な思いをしてまで「いい物」を街中で買うかと訊かれれば、それは無い。
今は人と対面しなくとも、ネットで高級品が手に入る時代。
一方、最寄品を感じのいいサービスで売ってくれる郊外店は便利である。
殊に、マニュアル一辺倒と思われがちな店舗でこうした対応を何度か受けると、俄然見方は変わってくる。
「なぜその一言が言えないのか」
こう思う瞬間が、近頃とみに多い。
こうした基本を外れていては、「殿様商売」の誹りを免れないのである。
大切なことだが、店員と客とは「お友達」ではない。
販売の瞬間、店側はその空間自体がサービスを提供していなければならないし、
汗水たらして働いた労働の対価を支払うと言う「購買」と言う行為が、
数ある選択肢の中で一つに選ばれ、なされたことが「有難い」のである。
多くの方々同様に「経済社会」の中で生きている次長としては、
甚く考えさせられるエピソードではあった。
好むと好まざるとに関わらず、「買う」という行為を生活の中に採り入れている。
自立した生活を送るためには、何をおいてもこれを外すわけにはいかない。
たとえ自家製野菜を食べている農家の人であっても、
魚やら卵やらをすべて自給するわけにはいかないのが実情だ。
しかしここには、単に「カネとモノを交換する」という原初的な意味での「買う」のみならず、
「気持ちよく買う」という付加価値、すなわち「サービス」が伴っているのが、現代の商業のあり方である。
ところが、だ。
次長は最近、ある場面で、大きな反目する二つのケースを目にした。
同じような商品を買っても、これだけ差があるものか。
びっくりというか、がっかりというか。
いや、それは「呆れ」に近い感情だったのかもしれない。
中心市街地の、とある店での話。
男性店員は35歳くらいだろうか、商品の特性について説明を続けていた。
それは思い入れとか愛着と言ったものではなく、
単に「メーカーにこう言われています」という「伝聞」だった。
その態度はおよそ「売り手」ではなく、さながら「講師」である。
常に上から見下したような物言いで、自信満々。
この自信は一体、どこから来るのか?
ぴくりとも笑わないので、こちらが笑って見せたが不審そうな顔をする。
人が説明しているのに何を笑ってるんだ?とでも言いたげな仏頂面。
その割に、質問をぶつけてみれば曖昧な返答。
「とにかく僕も使ってますけど、いいですよ」
何の説得力もない、ただの感想である。
今日び、下調べの一つもして客がやってくることを彼は知らないのか?
結局、「売り手が悪くても商品はいい」と見込んだので買うことにした。
買った当人が言うのもおかしいが、決して安物では無い。
20分ほど検討して、その場で決めた。
そこで彼はどう反応したかと言うと、
「はい」でも「ありがとう」でもなく、
「じゃ、これレジに持ってって下さい」
多分悪気は無いんだと思うが、もっといいサービスを知っているこちらとすれば、目を円くした。
言われなくても持ち去ったりしないが(笑)、君は何年ここに勤めたのか、と内心思った。
その後、また別に同様の商品を買う必要が出て、郊外店へ行った。
そこでは20台前半くらいだろうか、若い店員が対応した。
商品知識とともに、それぞれの客に見合った「あしらい」を知っているようである。
値段としては、決して高額ではない。
むしろ安い部類の買い物である。
別に聞いてまで買うようなものではないな、と思いながらも、15分ほど思案しているところに彼はやってきた。
しつこくなく、客に考えさせる猶予を与えるところがプロである。
「もしお好みのものが無ければ取り寄せますので」
本来当たり前の台詞ではあるが、近頃こうしたフレーズを使える店員がいない。
この時点で、彼が優秀な販売員であることがすぐに分かった。
よく耳にする方も多いだろうが、
「ここにあるので全部ですね」というのが、現在の多くの店のマニュアルである。
その中で決めてもらった方がめんどくさくないし、
在庫も捌けるというのが本音だろう。
「サイズが無ければお出しします」と言っても、
わざわざ取り寄せることまではしない店が多い。
これは、店側の都合の押し売りである。
しばしのやり取りの後、商品を決めると、
彼は深々と頭を下げて「ありがとうございます」といい、
「レジまでお持ちいたします」と続けざまに言った。
・・・なんだろう、この違いは?
年齢とか適性とか教育とか、
様々な示唆にとんだエピソードではあるが、
確かにいえることは、所謂「買い回り品」について
田舎では今やサービスが追いついていないと言うことか。
(盛岡の人々は、高級品はいまや東京や仙台へ出向いて買うと聞く)
確かに、昔は違ったのかも知れないが、
今では社員教育の行き届いた郊外店の方が、サービスレベルは上である。(全てではないが)
しかもこの店は、以前にも他の店員の手際のよさが際立った。
嫌な思いをしてまで「いい物」を街中で買うかと訊かれれば、それは無い。
今は人と対面しなくとも、ネットで高級品が手に入る時代。
一方、最寄品を感じのいいサービスで売ってくれる郊外店は便利である。
殊に、マニュアル一辺倒と思われがちな店舗でこうした対応を何度か受けると、俄然見方は変わってくる。
「なぜその一言が言えないのか」
こう思う瞬間が、近頃とみに多い。
こうした基本を外れていては、「殿様商売」の誹りを免れないのである。
大切なことだが、店員と客とは「お友達」ではない。
販売の瞬間、店側はその空間自体がサービスを提供していなければならないし、
汗水たらして働いた労働の対価を支払うと言う「購買」と言う行為が、
数ある選択肢の中で一つに選ばれ、なされたことが「有難い」のである。
多くの方々同様に「経済社会」の中で生きている次長としては、
甚く考えさせられるエピソードではあった。
2007.05.07
テレビの行方
前にも書いたことなので、
改めてそれを突っ込むのもどうかと思ったが、
やっぱりどうにかしてもらいたいのが、
「パチンコCM」である。
というのも、
政府の「教育再生会議」がまさに公表しようとしている
「『子育てを思う』保護者そして皆さんへ」のなかに、こんなフレーズがあるという。
「授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・ビデオを1人で見せない」
最近滅多に耳目に触れない言葉である。
言ってみれば、これは「大きなお世話」であり、
そんな家庭内のことまで政府が口を出すようになったのか、
と日本国の荒廃を嘆くより他ないが、
そこまで国民の民度が低下したと言うことでもあるのだろう。
他でもなく、それは教育を軽んじた国策の影響だとも思うが。
そんなにテレビがダメならば、
いっそテレビというメディアを規制してはどうか、
というところに落としどころがあるとしたらまた、それはそれで怖いのだが、
それほどに二度も「テレビ」って言うのはナゼなんだろう?
という穿った見方も出来るわけで、
テレビのどこがどのように悪いのかを明示しないままに、
一方的に「テレビは悪影響」と断罪することには反感を抱くのである。
テレビに悪い影響があるのは、かつてテレビに信用が伴っていたからである。
例の健康番組に端を発する「偽装」問題で、
我々は改めて、「テレビ番組は生身の人間が作った創作物」だということを思い知った。
そしてそこに付随するのは、「価値観の伝達」に「見ず知らずの人の意志」が介在することであって、
それを判別のつかない乳幼児に見せてはならない、というのには合点がいく。
しかし、判別がつかなかったのは、多くのいい年こいた大人たちだったことを忘れてはならない。
つまり、自分の確固たる意志を持っている人の中にも、
信用という表書きに流されていく場合が少なくないのだ。
オトナはカネをもって消費行動に移るから、尚更たちが悪い。
メディアリテラシーの無い大人が多い中で、
漠然と「テレビはいけない」とお上が下々に触れて廻るというのは、果たしていかがなものか。
テレビ全般が悪いと言う根拠はどこにもないし、
であれば、より良いテレビの見方みたいなものを考えるスキを、教育再生会議は与えようとしないのだろうか。
テレビと言えば、某局を抜いて考えれば
その他はほとんどが「CM」によって成り立っているだろう。
こうしたCMの効果や影響は、どのように考えるのだろうか。
漠然となんでもお好きなように流しているとはゆめゆめ思わないが、
これにも地域性があって、CMを含めて「テレビ放送」と見た場合、
ここから派生する影響と言うのは、地域によってかなり違うと思う。
田舎ではパチンコCMが花盛りだが、都会ではまずお目にかからない。
しかも全てとは言わないが、聞くに堪えない絶叫や電子音が散りばめられ、
しかもそれが入れ替わり立ち代り、数限りなく続く。
はっきり言って、耳障りだし目障りである。
こうした状況は東北に目立ち、また特有なもので、
岩手県を出たことが無い人にとってみたら、寝耳に水の話だろう。
こうしたCMを見せられて気づいたことがあるのだが、
ある時期から、画面の「新台入替」の文字の脇に、
小さく「(予定)」と遠慮がちに書かれるようになった。
また、朝にこうしたCMが見られなくなったし、
なぜか交通安全を訴えたり、未成年の入場を断ると言った
但し書きが俄然ふえるようになった。しかも一斉に。
これがどのような、「どこ」に対する「配慮」であるのかは想像に難くないが、
だいぶ落ち着いたこの頃になって、また時機を図ったかのように、
「がなり声」や「派手さ」が目立つようになっている。
ドラマなんか見ていると、CMに切り替わった瞬間から音量が大きくなったり、
ステレオ音声みたいになったりする。
こうした流れが「とある世代交代」に関わっているように思うのは、次長の深読みだろうか?
パチンコはオトナの娯楽の一つだとは思っているが、これをPRするのが過剰になると、やはり地域への影響力は懸念される。
結構びっくりする時間から開店前のパチンコ店に並んでる若者を見ると、
他人事ながら、切ない気持ちになるのは確かだ。
そうだよね、テレビも面白くない番組ばかりだもんね、娯楽にすらならないよね、とか。(笑)
「レッツ地デジ!」と地上デジタルへの推進を高らかに唱えつつも、
その定着を十分図ることのできたこの時機に到って、
「テレビはいけない」とテレビ攻撃。
前にも書いたことだが、少なくともBS放送にはいい番組がたくさんある。
ま、通信販売番組がやたらに多いことが気にはかかるが。
タバコのCMが消えてなくなったように、
そのうち、アルコールはダメ、ギャンブルはダメ、消費者金融もダメ、
っていう時代が来るんじゃないだろうか。
そうなったとき、そのお金がどこへ流れていくのか、
これはまた「見もの」ではあるけどね。
国民を扇動して統制するために、
一番有効なメディアは「テレビ」ですから。今んとこ。
改めてそれを突っ込むのもどうかと思ったが、
やっぱりどうにかしてもらいたいのが、
「パチンコCM」である。
というのも、
政府の「教育再生会議」がまさに公表しようとしている
「『子育てを思う』保護者そして皆さんへ」のなかに、こんなフレーズがあるという。
「授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・ビデオを1人で見せない」
最近滅多に耳目に触れない言葉である。
言ってみれば、これは「大きなお世話」であり、
そんな家庭内のことまで政府が口を出すようになったのか、
と日本国の荒廃を嘆くより他ないが、
そこまで国民の民度が低下したと言うことでもあるのだろう。
他でもなく、それは教育を軽んじた国策の影響だとも思うが。
そんなにテレビがダメならば、
いっそテレビというメディアを規制してはどうか、
というところに落としどころがあるとしたらまた、それはそれで怖いのだが、
それほどに二度も「テレビ」って言うのはナゼなんだろう?
という穿った見方も出来るわけで、
テレビのどこがどのように悪いのかを明示しないままに、
一方的に「テレビは悪影響」と断罪することには反感を抱くのである。
テレビに悪い影響があるのは、かつてテレビに信用が伴っていたからである。
例の健康番組に端を発する「偽装」問題で、
我々は改めて、「テレビ番組は生身の人間が作った創作物」だということを思い知った。
そしてそこに付随するのは、「価値観の伝達」に「見ず知らずの人の意志」が介在することであって、
それを判別のつかない乳幼児に見せてはならない、というのには合点がいく。
しかし、判別がつかなかったのは、多くのいい年こいた大人たちだったことを忘れてはならない。
つまり、自分の確固たる意志を持っている人の中にも、
信用という表書きに流されていく場合が少なくないのだ。
オトナはカネをもって消費行動に移るから、尚更たちが悪い。
メディアリテラシーの無い大人が多い中で、
漠然と「テレビはいけない」とお上が下々に触れて廻るというのは、果たしていかがなものか。
テレビ全般が悪いと言う根拠はどこにもないし、
であれば、より良いテレビの見方みたいなものを考えるスキを、教育再生会議は与えようとしないのだろうか。
テレビと言えば、某局を抜いて考えれば
その他はほとんどが「CM」によって成り立っているだろう。
こうしたCMの効果や影響は、どのように考えるのだろうか。
漠然となんでもお好きなように流しているとはゆめゆめ思わないが、
これにも地域性があって、CMを含めて「テレビ放送」と見た場合、
ここから派生する影響と言うのは、地域によってかなり違うと思う。
田舎ではパチンコCMが花盛りだが、都会ではまずお目にかからない。
しかも全てとは言わないが、聞くに堪えない絶叫や電子音が散りばめられ、
しかもそれが入れ替わり立ち代り、数限りなく続く。
はっきり言って、耳障りだし目障りである。
こうした状況は東北に目立ち、また特有なもので、
岩手県を出たことが無い人にとってみたら、寝耳に水の話だろう。
こうしたCMを見せられて気づいたことがあるのだが、
ある時期から、画面の「新台入替」の文字の脇に、
小さく「(予定)」と遠慮がちに書かれるようになった。
また、朝にこうしたCMが見られなくなったし、
なぜか交通安全を訴えたり、未成年の入場を断ると言った
但し書きが俄然ふえるようになった。しかも一斉に。
これがどのような、「どこ」に対する「配慮」であるのかは想像に難くないが、
だいぶ落ち着いたこの頃になって、また時機を図ったかのように、
「がなり声」や「派手さ」が目立つようになっている。
ドラマなんか見ていると、CMに切り替わった瞬間から音量が大きくなったり、
ステレオ音声みたいになったりする。
こうした流れが「とある世代交代」に関わっているように思うのは、次長の深読みだろうか?
パチンコはオトナの娯楽の一つだとは思っているが、これをPRするのが過剰になると、やはり地域への影響力は懸念される。
結構びっくりする時間から開店前のパチンコ店に並んでる若者を見ると、
他人事ながら、切ない気持ちになるのは確かだ。
そうだよね、テレビも面白くない番組ばかりだもんね、娯楽にすらならないよね、とか。(笑)
「レッツ地デジ!」と地上デジタルへの推進を高らかに唱えつつも、
その定着を十分図ることのできたこの時機に到って、
「テレビはいけない」とテレビ攻撃。
前にも書いたことだが、少なくともBS放送にはいい番組がたくさんある。
ま、通信販売番組がやたらに多いことが気にはかかるが。
タバコのCMが消えてなくなったように、
そのうち、アルコールはダメ、ギャンブルはダメ、消費者金融もダメ、
っていう時代が来るんじゃないだろうか。
そうなったとき、そのお金がどこへ流れていくのか、
これはまた「見もの」ではあるけどね。
国民を扇動して統制するために、
一番有効なメディアは「テレビ」ですから。今んとこ。
2007.05.05
アスタリスク
いつもその取材力に脱帽の名ブログ「ANNEX」さんにインスパイアされて、
話題の「ALL*WAY」へ。
正直なところ、このブログのご紹介が無ければ一生足を踏み入れることの無いまま、過ぎてしまう店であった。
ここで初めて、母体である「薬王堂」がプライベートブランドを扱っていることを知る。
例えば、緑茶。
通常、販売者とともに製造者が表記されるところ、この商品にはそれが無かった。
そこには何らかの配慮があるのかもしれないが、あんまり突っ込まないことにする。
驚くべきは、やはりの安さである。
ミネラルウォーターが2Lで100円を切るのは、さすがの薬王堂ならではだが、
同様に「メガドラッグストア・カワチ薬品」が鎮座まします周辺環境を意識した「生卵」などの品揃えが、熱い。
何しろみたけ地区では、そのカワチの前に「我らがドラッグトマト(g現・ツルハ)」(笑)がささやかながらもどっぷりと腰をすえ、
一大商圏を築いている。
その一方で、薬王堂は店舗の位置をスライドしながら、
「近隣スーパーの波及効果及び相乗効果」を狙っている(と思う)なかなかの知性派である。
移転後の薬王堂のすぐ隣には、「盛岡の魂・ジョイス」が君臨する一方、
青山では「三陸の良心・マイヤ」に寄り添うように薬王堂が存在する。
そんな激戦地にあって、「ALL*WAY」が進む道筋の明かりとは何か。
・・・アキモトである。
これもまた、不勉強で初めて入店したのだが、「おそるべしアキモト」であった。
この世界では、「埼玉の光・しまむら」絶対優位だと思っていたのだが、(業態は違うがユニクロと互角)
なかなかどうして、アキモトである。
なんと、駄菓子コーナーが充実!!!
今どき、町なかに駄菓子屋があるでなし、いまやイオン盛岡南SCにらしきものがある中で、
それでも子どもたちは「初めて見た」とコメントする時代。
アキモトにある駄菓子コーナーは、次長が実際に記憶している駄菓子屋の商品群を取り揃えていた。
まさにこの一点で、アキモトは地域一番店としての特性を備えたのである。
かたや、しまむらは、
若者向け業態「アベイル」「シャンブル」をいわて生協青山店前に設置。
これも不勉強で入店経験が無いが、ともかくもこの青山・みたけ地区の攻防ときたら、とても人口規模に見合った戦いではない。
しかしそれでも各店が趣向をこらして生きながらえていることは、賞賛に値することである。
この地域に住んでいたら、結構楽しそうだ。
それにつけても、「安い店」というのはなかなか知恵者である。
どれもこれも安い中で、他の店で買っても値段の変わらないものがまぎれている。
または、比較的高い部類の商品も。
それを勢いで買ってしまうか、他が安いからその分買って見るか、
消費者はその眼力を試されるところである。
いずれ、薬王堂はあれだけのブランドを敢えて活かさず、
この「ALL*WAY」を展開している、の謎。
そこにはやはり、それなりの狙いや計算があるのだろうか?
「矢巾の星」の謎は尽きない。
何か、動くんだろう、絶対。
話題の「ALL*WAY」へ。
正直なところ、このブログのご紹介が無ければ一生足を踏み入れることの無いまま、過ぎてしまう店であった。
ここで初めて、母体である「薬王堂」がプライベートブランドを扱っていることを知る。
例えば、緑茶。
通常、販売者とともに製造者が表記されるところ、この商品にはそれが無かった。
そこには何らかの配慮があるのかもしれないが、あんまり突っ込まないことにする。
驚くべきは、やはりの安さである。
ミネラルウォーターが2Lで100円を切るのは、さすがの薬王堂ならではだが、
同様に「メガドラッグストア・カワチ薬品」が鎮座まします周辺環境を意識した「生卵」などの品揃えが、熱い。
何しろみたけ地区では、そのカワチの前に「我らがドラッグトマト(g現・ツルハ)」(笑)がささやかながらもどっぷりと腰をすえ、
一大商圏を築いている。
その一方で、薬王堂は店舗の位置をスライドしながら、
「近隣スーパーの波及効果及び相乗効果」を狙っている(と思う)なかなかの知性派である。
移転後の薬王堂のすぐ隣には、「盛岡の魂・ジョイス」が君臨する一方、
青山では「三陸の良心・マイヤ」に寄り添うように薬王堂が存在する。
そんな激戦地にあって、「ALL*WAY」が進む道筋の明かりとは何か。
・・・アキモトである。
これもまた、不勉強で初めて入店したのだが、「おそるべしアキモト」であった。
この世界では、「埼玉の光・しまむら」絶対優位だと思っていたのだが、(業態は違うがユニクロと互角)
なかなかどうして、アキモトである。
なんと、駄菓子コーナーが充実!!!
今どき、町なかに駄菓子屋があるでなし、いまやイオン盛岡南SCにらしきものがある中で、
それでも子どもたちは「初めて見た」とコメントする時代。
アキモトにある駄菓子コーナーは、次長が実際に記憶している駄菓子屋の商品群を取り揃えていた。
まさにこの一点で、アキモトは地域一番店としての特性を備えたのである。
かたや、しまむらは、
若者向け業態「アベイル」「シャンブル」をいわて生協青山店前に設置。
これも不勉強で入店経験が無いが、ともかくもこの青山・みたけ地区の攻防ときたら、とても人口規模に見合った戦いではない。
しかしそれでも各店が趣向をこらして生きながらえていることは、賞賛に値することである。
この地域に住んでいたら、結構楽しそうだ。
それにつけても、「安い店」というのはなかなか知恵者である。
どれもこれも安い中で、他の店で買っても値段の変わらないものがまぎれている。
または、比較的高い部類の商品も。
それを勢いで買ってしまうか、他が安いからその分買って見るか、
消費者はその眼力を試されるところである。
いずれ、薬王堂はあれだけのブランドを敢えて活かさず、
この「ALL*WAY」を展開している、の謎。
そこにはやはり、それなりの狙いや計算があるのだろうか?
「矢巾の星」の謎は尽きない。
何か、動くんだろう、絶対。
2007.05.05
江戸しぐさ
この盛岡で、「逆転」とも言うべき現象が起きていることに気づく。
都会のビジネスマンや学生が
ふらり一人で立ち寄るような店に、
盛岡では「家族連れ」が大挙して訪れている。
それは例えば、一杯290円のラーメンを売りにするような店であったり、
セルフサービスで天ぷらを盛るような「うどん屋」であったり、
学食の延長線上にあるような、いわゆる「食堂」である。
かと思えば、
「かしこまった外食の場」を求めて行列を為すのは、他からやってきた観光客だ。
しかもそれは、駅ビルやショッピングセンターのレストランモールである。
これを「所得水準の差」と断定するのは簡単だ。
しかし、所得が低いのならば、いくら商品が廉価とは言え、外食のほうが高くつくという見方もある。
「ファミリーレストランがあまり無いから」と言うのも理由の一つだろう。
しかしよく見れば、数少ないファミレスに入り浸っているのは、
家族連れと言うよりは、若者のみのグループである。
むしろ高齢者が入りにくい雰囲気すらあるし、
結果、「昔ながらの家族連れ」が見られるのは、前述のような「一人身の店」となっている。
あくまでも私見だが、
盛岡の町は「ハレの場」を失い始めている。
これは、都会の現状に対して、逆のベクトルを以って進んでいるということだ。
エスカレータの前で立ち止まってみたり、
他の客が見ているのに、商品棚の前でおしゃべりしてみたり、
「町のルール」を知らない、または失った人々がやけに増えた。
まさにこれは、「田舎くさい町」になり始めている証拠だ。
そもそも盛岡は田舎ではないのか、という批判もあるだろうが、
田舎でこそあれ、地方都市なりの都市文化は生まれていたのであり、
ここに暗黙のルールが生まれていたのは確かだ。
ところが以前より都市化しているこの町で、
進んでいる方向性は、どうにも「田舎向き」なのである。
越川禮子著の「江戸しぐさ」シリーズが、この事情に明るい。
長らく太平の世を謳歌した江戸において、市民が獲得した
「江戸しぐさ」という都市文化が、人間関係を円滑にしてきた、という内容。
国家論に関しては「拡大解釈?」と思える部分が無いではないが、
知らない人同士がともに生きてゆくうえで、どのような立ち居振る舞いが大切なのか、著者は詳しく述べている。
高層建築が無いなど、都市化の進まない見た目の都会性ではなく、
内容が垢抜けないことを「田舎っぽい」と言うけれど、
この本ではそれを「井中」と表現する。
つまりは「井の中の蛙」、外を知らない小さな料簡のことである。
スーパーのレジに行列が出来ているとき、
子どもがレジ棚によじ登っても何も言わない親。
危ないと注意するでもなく、迷惑だと嗜めるでもなく、
この棚から落ちて大怪我をしたら、親はスーパーを訴えるんだろう、多分。
後ろの客が生鮮食品を置こうとしているその棚に、
泥まみれの子どもの靴が上がっていることには、何も言わないのに。
そういう「井中」臭さが、田舎を本当の田舎にするのだ。
かたや携帯電話を扱う専門店では、こんな光景を見た。
カウンターに居座って、どの機種にするか、ずーっと悩んでいる。
ディスプレイがあるんだから、そこで決めてから手続きすればいいのに、
他人の迷惑も弁えず、しばらく悩み、さらに談笑する二人連れ。
後ろがつかえてますが・・・・。
機種交換手続きの期限時間を過ぎて、何とかならないのかと詰め寄る若い娘。
懲りもせず、アレが高いコレはダメ、と大声で商品批判。
その機種に変えてる客がそこに居るのかも知れないのに。
一方では、いちいち大声を上げて店員を呼びつけ、
家の中みたいに子どもらを遊ばせてる似たもの母娘。
「○○ちゃーん、どの番号がいいの?」って、
そんな子どもに語呂合わせの何がわかるよ一体?
民度低いよ、本当。(笑)
風土を形作るもの。
それは山とか川だけじゃなくて、人なんですよね。
ぶつかって「すみません」と言った時、
むこうから何かしらのアクションがあるのが都会。
盛岡では何も無いことが多くて、むしろ言わなきゃ良かったと思うことすら。
ぶつかっても謝らないのが都会っぽい、と勘違いして
謝らないのが田舎、と言っても過言ではないくらい。
ここでご紹介したいのが、「うかつ謝り」
ぶつかったら、ぶつけられた側もそのうかつさを謝ると言う「しぐさ」
これは大都市に限り存在したことではないわけで。
昔はそうではなかったと思うのですが、
こういう「都会性」が、地方都市にはめっきり失われましたね。
都会のビジネスマンや学生が
ふらり一人で立ち寄るような店に、
盛岡では「家族連れ」が大挙して訪れている。
それは例えば、一杯290円のラーメンを売りにするような店であったり、
セルフサービスで天ぷらを盛るような「うどん屋」であったり、
学食の延長線上にあるような、いわゆる「食堂」である。
かと思えば、
「かしこまった外食の場」を求めて行列を為すのは、他からやってきた観光客だ。
しかもそれは、駅ビルやショッピングセンターのレストランモールである。
これを「所得水準の差」と断定するのは簡単だ。
しかし、所得が低いのならば、いくら商品が廉価とは言え、外食のほうが高くつくという見方もある。
「ファミリーレストランがあまり無いから」と言うのも理由の一つだろう。
しかしよく見れば、数少ないファミレスに入り浸っているのは、
家族連れと言うよりは、若者のみのグループである。
むしろ高齢者が入りにくい雰囲気すらあるし、
結果、「昔ながらの家族連れ」が見られるのは、前述のような「一人身の店」となっている。
あくまでも私見だが、
盛岡の町は「ハレの場」を失い始めている。
これは、都会の現状に対して、逆のベクトルを以って進んでいるということだ。
エスカレータの前で立ち止まってみたり、
他の客が見ているのに、商品棚の前でおしゃべりしてみたり、
「町のルール」を知らない、または失った人々がやけに増えた。
まさにこれは、「田舎くさい町」になり始めている証拠だ。
そもそも盛岡は田舎ではないのか、という批判もあるだろうが、
田舎でこそあれ、地方都市なりの都市文化は生まれていたのであり、
ここに暗黙のルールが生まれていたのは確かだ。
ところが以前より都市化しているこの町で、
進んでいる方向性は、どうにも「田舎向き」なのである。
越川禮子著の「江戸しぐさ」シリーズが、この事情に明るい。
長らく太平の世を謳歌した江戸において、市民が獲得した
「江戸しぐさ」という都市文化が、人間関係を円滑にしてきた、という内容。
国家論に関しては「拡大解釈?」と思える部分が無いではないが、
知らない人同士がともに生きてゆくうえで、どのような立ち居振る舞いが大切なのか、著者は詳しく述べている。
高層建築が無いなど、都市化の進まない見た目の都会性ではなく、
内容が垢抜けないことを「田舎っぽい」と言うけれど、
この本ではそれを「井中」と表現する。
つまりは「井の中の蛙」、外を知らない小さな料簡のことである。
スーパーのレジに行列が出来ているとき、
子どもがレジ棚によじ登っても何も言わない親。
危ないと注意するでもなく、迷惑だと嗜めるでもなく、
この棚から落ちて大怪我をしたら、親はスーパーを訴えるんだろう、多分。
後ろの客が生鮮食品を置こうとしているその棚に、
泥まみれの子どもの靴が上がっていることには、何も言わないのに。
そういう「井中」臭さが、田舎を本当の田舎にするのだ。
かたや携帯電話を扱う専門店では、こんな光景を見た。
カウンターに居座って、どの機種にするか、ずーっと悩んでいる。
ディスプレイがあるんだから、そこで決めてから手続きすればいいのに、
他人の迷惑も弁えず、しばらく悩み、さらに談笑する二人連れ。
後ろがつかえてますが・・・・。
機種交換手続きの期限時間を過ぎて、何とかならないのかと詰め寄る若い娘。
懲りもせず、アレが高いコレはダメ、と大声で商品批判。
その機種に変えてる客がそこに居るのかも知れないのに。
一方では、いちいち大声を上げて店員を呼びつけ、
家の中みたいに子どもらを遊ばせてる似たもの母娘。
「○○ちゃーん、どの番号がいいの?」って、
そんな子どもに語呂合わせの何がわかるよ一体?
民度低いよ、本当。(笑)
風土を形作るもの。
それは山とか川だけじゃなくて、人なんですよね。
ぶつかって「すみません」と言った時、
むこうから何かしらのアクションがあるのが都会。
盛岡では何も無いことが多くて、むしろ言わなきゃ良かったと思うことすら。
ぶつかっても謝らないのが都会っぽい、と勘違いして
謝らないのが田舎、と言っても過言ではないくらい。
ここでご紹介したいのが、「うかつ謝り」
ぶつかったら、ぶつけられた側もそのうかつさを謝ると言う「しぐさ」
これは大都市に限り存在したことではないわけで。
昔はそうではなかったと思うのですが、
こういう「都会性」が、地方都市にはめっきり失われましたね。
2007.05.03
何を今さら
今日は、敬愛する故・ナンシー関氏のコラムタイトル
「何を今さら」を掲げさせて頂く。
専修大学北上高校に端を発した、ということになっている
巷で話題の「野球特待生制度」問題である。
かかる「専北」の話題が注目された時、
既に予想できる事態ではあったし、その瞬間にも
「野球特待生の何がいけないの?」と思った向きは多かっただろう。
「野球留学」という言葉がごく自然にまかり通り、
多くの私学では、その校名興隆と経営安定のため、
教育振興の名の下に、積極的にそれを推進してきた。
一方で、それを「手法」としてなし得ない公立高校は、
そうした宿命ゆえに、勝ち進むことで私学よりも高い評価を得がちなのが実情。
それを人は、「本来の高校野球の姿」と憧憬し、
「文武両道」の言葉で誉めそやす。
その理由は、高校野球のみならず、高校スポーツ界が
「文武両道ではない現実」を如実に把握していることに他ならない。
つまるところ「強豪校」とは、スペシャリストを育てる
私学ならではの運用性をもって教育を図る機関であり、
現状、ここに公立校が食い入る隙など無いのである。
もっとも、公立校でスポーツ振興に力を注がれる学校・学科も少なくないが、
何しろ私学は、その経済力をもって優秀な生徒を全国から選抜・確保するし、
その教育環境を求めて羽ばたいてゆく、また飛び立ちたい生徒は多い。
学力と経済力が比例する、というのはスポーツの世界にも言えること。
努力だけが成功に結びつくという精神論は、今や簡単には通用しない。
ところがここで、さきの盛岡商業高校サッカー部のような快挙が生まれるから、
また高校スポーツ界の面白いところである。
私学の「教育」と言うよりは「人材確保」に対する情熱は凄まじいし、
それを敢えて否定できる状況には無い、と次長は思う。
強豪校が多く集まる地域でも、
さほど強豪が多くない地方でも、
基本的には一県一代表と言う「不公平を前提とした選抜」がある。
敢えて強豪校へ進むと言うのは、環境が良くなった分、
出場可能性が低くなるというリスクさえ伴っているのだ。
野球に限らず、優秀な人間が切磋琢磨のため、
同水準の人間同士でワザを磨くと言うのは、それ自体悪いことではない。
教育環境と言うのは本当に重要なもので、
岩手県が輩出している、いわゆる「歴史に名を残す先人たち」には、
早い時期に都会へ出て教育を受けている例が多い。
勉強にしろスポーツにしろ、
まして学校と生徒の利害が一致するこの「野球留学」の例を見れば、
「野球が優秀で特待生になった」ことが非とされ、
「サッカーが優秀で特待生になった」ことは是とされる制度自体が、疲弊していると言わざるを得ないのである。
なぜ、野球はそんなに特別なのか?
これは、次長が高校の頃からず〜っと抱いていた疑問だ。(笑)
野球とベースボールは違う、という言葉があるようだが、
まったくもって、その通りだと思う。
時代が変わるにつれ、当然高校生の意識も変わっている。
往年、バンカラ応援団が全盛だった岩手の高校も、
最近では「ヤバい」と敬遠されがちと聞く。
現代では「ヤバい」が肯定的意味を持っていたりするが、
ここでは昔ながらの意味である。
改造車が走り、スノーボードがファッションの一角を担った次代を経て、
いまやそれらは「過去の遺物」
彼らは敢えて外に出かけて物に手を掛けたり、楽しんだりはしない。
そういう子どもが「普通」になっている今、
わざわざ頭を坊主にして行進練習している高校生がいること自体、奇跡に近い。
それでも高校野球が存えているのは、プロ野球という明確な目標が存在しているという一点ではないのか。
学校も生徒も地域もプロ野球も、なべて変わっているのに
変わらないのは「高校野球」という幻想と言うか、神話。
神聖不可侵にして、古式ゆかしい古典的高校生像を温存するためのシステム。
高校野球が悪いのではなく、それを取り巻く大人たちの動きが、どうもおかしい。
「野球が上手いから特待生にしました」と言わなくとも、
「品行方正で努力家だから特待生にしました」と言えば、
この禁令はすり抜けることが出来てしまう。
それ程に、特待生と言う制度自体が曖昧模糊。
私学の、良くも悪くもユルい体制が、そもそも高校野球には不釣合いなんじゃないのか。
「専北」だけに罪を背負わせる形になったままで、
いまや高校野球が成立しない状況に陥るほど、強豪校が「ウチも自粛します」と名乗りをあげ始めた。
「何を今さら」である。
主催者の意向を無視して、春の大会は出ないが本命の夏はOK、という主張が滅茶苦茶だが。
そこで高校野球連盟には、こんな提案をしよう。
高校野球に出場できるのは、今後、国公立高校だけにしたらどうですか、この際。
私学は私学で、私学だけのリーグでやればいいんじゃないの? ガム噛みながら。
「何を今さら」を掲げさせて頂く。
専修大学北上高校に端を発した、ということになっている
巷で話題の「野球特待生制度」問題である。
かかる「専北」の話題が注目された時、
既に予想できる事態ではあったし、その瞬間にも
「野球特待生の何がいけないの?」と思った向きは多かっただろう。
「野球留学」という言葉がごく自然にまかり通り、
多くの私学では、その校名興隆と経営安定のため、
教育振興の名の下に、積極的にそれを推進してきた。
一方で、それを「手法」としてなし得ない公立高校は、
そうした宿命ゆえに、勝ち進むことで私学よりも高い評価を得がちなのが実情。
それを人は、「本来の高校野球の姿」と憧憬し、
「文武両道」の言葉で誉めそやす。
その理由は、高校野球のみならず、高校スポーツ界が
「文武両道ではない現実」を如実に把握していることに他ならない。
つまるところ「強豪校」とは、スペシャリストを育てる
私学ならではの運用性をもって教育を図る機関であり、
現状、ここに公立校が食い入る隙など無いのである。
もっとも、公立校でスポーツ振興に力を注がれる学校・学科も少なくないが、
何しろ私学は、その経済力をもって優秀な生徒を全国から選抜・確保するし、
その教育環境を求めて羽ばたいてゆく、また飛び立ちたい生徒は多い。
学力と経済力が比例する、というのはスポーツの世界にも言えること。
努力だけが成功に結びつくという精神論は、今や簡単には通用しない。
ところがここで、さきの盛岡商業高校サッカー部のような快挙が生まれるから、
また高校スポーツ界の面白いところである。
私学の「教育」と言うよりは「人材確保」に対する情熱は凄まじいし、
それを敢えて否定できる状況には無い、と次長は思う。
強豪校が多く集まる地域でも、
さほど強豪が多くない地方でも、
基本的には一県一代表と言う「不公平を前提とした選抜」がある。
敢えて強豪校へ進むと言うのは、環境が良くなった分、
出場可能性が低くなるというリスクさえ伴っているのだ。
野球に限らず、優秀な人間が切磋琢磨のため、
同水準の人間同士でワザを磨くと言うのは、それ自体悪いことではない。
教育環境と言うのは本当に重要なもので、
岩手県が輩出している、いわゆる「歴史に名を残す先人たち」には、
早い時期に都会へ出て教育を受けている例が多い。
勉強にしろスポーツにしろ、
まして学校と生徒の利害が一致するこの「野球留学」の例を見れば、
「野球が優秀で特待生になった」ことが非とされ、
「サッカーが優秀で特待生になった」ことは是とされる制度自体が、疲弊していると言わざるを得ないのである。
なぜ、野球はそんなに特別なのか?
これは、次長が高校の頃からず〜っと抱いていた疑問だ。(笑)
野球とベースボールは違う、という言葉があるようだが、
まったくもって、その通りだと思う。
時代が変わるにつれ、当然高校生の意識も変わっている。
往年、バンカラ応援団が全盛だった岩手の高校も、
最近では「ヤバい」と敬遠されがちと聞く。
現代では「ヤバい」が肯定的意味を持っていたりするが、
ここでは昔ながらの意味である。
改造車が走り、スノーボードがファッションの一角を担った次代を経て、
いまやそれらは「過去の遺物」
彼らは敢えて外に出かけて物に手を掛けたり、楽しんだりはしない。
そういう子どもが「普通」になっている今、
わざわざ頭を坊主にして行進練習している高校生がいること自体、奇跡に近い。
それでも高校野球が存えているのは、プロ野球という明確な目標が存在しているという一点ではないのか。
学校も生徒も地域もプロ野球も、なべて変わっているのに
変わらないのは「高校野球」という幻想と言うか、神話。
神聖不可侵にして、古式ゆかしい古典的高校生像を温存するためのシステム。
高校野球が悪いのではなく、それを取り巻く大人たちの動きが、どうもおかしい。
「野球が上手いから特待生にしました」と言わなくとも、
「品行方正で努力家だから特待生にしました」と言えば、
この禁令はすり抜けることが出来てしまう。
それ程に、特待生と言う制度自体が曖昧模糊。
私学の、良くも悪くもユルい体制が、そもそも高校野球には不釣合いなんじゃないのか。
「専北」だけに罪を背負わせる形になったままで、
いまや高校野球が成立しない状況に陥るほど、強豪校が「ウチも自粛します」と名乗りをあげ始めた。
「何を今さら」である。
主催者の意向を無視して、春の大会は出ないが本命の夏はOK、という主張が滅茶苦茶だが。
そこで高校野球連盟には、こんな提案をしよう。
高校野球に出場できるのは、今後、国公立高校だけにしたらどうですか、この際。
私学は私学で、私学だけのリーグでやればいいんじゃないの? ガム噛みながら。
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