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2007.06.24
見えない格差
「ふるさと納税」だか「ふるさと増税」だか、
どうも耳に残るフレーズが、世間を賑す。
「納税者が納税先を選べる」というが、
そこで生じた不均衡を調整するんだったら、何も変わらない。
そもそも、調整しなければバランスが取れないはずである。
都会は都会で人が多いから、それなりにインフラ整備と補修に莫大な予算が必要。
(それでも必要以上にやっているように思えるが)
かたや、地方でも台風被害、積雪・寒冷地ならではの被害が酷いところなど、
一概に人口規模では計れない地域差と言うものがある。
今の時点でも、地域間格差は、増している一方だ。
何しろ、その差は行政サービスは勿論、
俗に言う「景気」とも関わってくるから、雇用形態にも現れてくる。
正社員と非正社員との雇用条件の違いは、若年層の格差を物語るものとしてよく採り上げられるが、
リタイア後、退職金・恩給・貯蓄・不労所得、場合によっては「天下り」で悠々自適に暮らす高齢者がいる一方で、
年金受給までの期間は勿論、それ以後にも爪に火をともす暮らしをする高齢者がいる。
ここにも、地域間格差は歴然である。
「海外移住組が、日本に居る人たちとの所得水準の差にがっかり」
なんていうのは「大変な贅沢の部類」で、
働き続けなければ食べていけない高齢者が、現に日本には存在する。
レジャーに勤しむ高齢者と、そこでサービスを提供する高齢者との軋轢、なんて話を聞くと、
本当に日本も酷い国になったな、と思う。
ここまで深刻な話ではないけれど、
「プチ格差」を実感するのは、空港のチェックインカウンターである。
「エコノミークラス」カウンターで何メートルと言う行列が出来ている横で、
「ビジネスクラス」カウンターはがら空き、そこにサッと駆け寄ってあっさりことを済ませる「上客」。
「空いてるんだからサッサと隣でやれよ」なんて誰かがいつか言い出さないかと、おかしな緊張感を漂わせる修羅場。(笑)
彼らは特別なラウンジで優雅にハイティーなんかを嗜み、
時折ワインを片手に高級食材の盛られたカナッペなんかをつまむ。
エコノミークラス一筋の乗客からは、想像も出来ない世界。
挙句に「エコノミー症候群」なんておまけがついてきたりして。
およそビジネスクラスに似つかわしくない(失礼)輩が訪れ、
何かの間違いでもなく、優先的に機内へ搭乗しているのを見ると、
「人って見かけによらないな」と、よからぬ思索にふけることさえ。
心一つ、一人で海外へホームステイへいくんだろうな、という風情の青年がいれば、
上流家庭なんであろうファミリーの、いかにもボンボンな小学生のお見送りつき渡航風景を見たりすると、
「生まれながらの環境の違い」に一喜一憂。
「今でこそ会社のお金でビジネスクラスだけど、学生の頃は激安チケットの中古機材で着陸すら危ういバックパッカーでした」なんて話を聞くと、
それだけで癒されてしまう今日この頃。
ビジネスクラスに乗ってる小学生が、大人になってもずっとビジネスクラスに乗ってたりするなんて、どうにも納得がいきません。(笑)
このあたりの話は、また別に機を改めて。
どうも耳に残るフレーズが、世間を賑す。
「納税者が納税先を選べる」というが、
そこで生じた不均衡を調整するんだったら、何も変わらない。
そもそも、調整しなければバランスが取れないはずである。
都会は都会で人が多いから、それなりにインフラ整備と補修に莫大な予算が必要。
(それでも必要以上にやっているように思えるが)
かたや、地方でも台風被害、積雪・寒冷地ならではの被害が酷いところなど、
一概に人口規模では計れない地域差と言うものがある。
今の時点でも、地域間格差は、増している一方だ。
何しろ、その差は行政サービスは勿論、
俗に言う「景気」とも関わってくるから、雇用形態にも現れてくる。
正社員と非正社員との雇用条件の違いは、若年層の格差を物語るものとしてよく採り上げられるが、
リタイア後、退職金・恩給・貯蓄・不労所得、場合によっては「天下り」で悠々自適に暮らす高齢者がいる一方で、
年金受給までの期間は勿論、それ以後にも爪に火をともす暮らしをする高齢者がいる。
ここにも、地域間格差は歴然である。
「海外移住組が、日本に居る人たちとの所得水準の差にがっかり」
なんていうのは「大変な贅沢の部類」で、
働き続けなければ食べていけない高齢者が、現に日本には存在する。
レジャーに勤しむ高齢者と、そこでサービスを提供する高齢者との軋轢、なんて話を聞くと、
本当に日本も酷い国になったな、と思う。
ここまで深刻な話ではないけれど、
「プチ格差」を実感するのは、空港のチェックインカウンターである。
「エコノミークラス」カウンターで何メートルと言う行列が出来ている横で、
「ビジネスクラス」カウンターはがら空き、そこにサッと駆け寄ってあっさりことを済ませる「上客」。
「空いてるんだからサッサと隣でやれよ」なんて誰かがいつか言い出さないかと、おかしな緊張感を漂わせる修羅場。(笑)
彼らは特別なラウンジで優雅にハイティーなんかを嗜み、
時折ワインを片手に高級食材の盛られたカナッペなんかをつまむ。
エコノミークラス一筋の乗客からは、想像も出来ない世界。
挙句に「エコノミー症候群」なんておまけがついてきたりして。
およそビジネスクラスに似つかわしくない(失礼)輩が訪れ、
何かの間違いでもなく、優先的に機内へ搭乗しているのを見ると、
「人って見かけによらないな」と、よからぬ思索にふけることさえ。
心一つ、一人で海外へホームステイへいくんだろうな、という風情の青年がいれば、
上流家庭なんであろうファミリーの、いかにもボンボンな小学生のお見送りつき渡航風景を見たりすると、
「生まれながらの環境の違い」に一喜一憂。
「今でこそ会社のお金でビジネスクラスだけど、学生の頃は激安チケットの中古機材で着陸すら危ういバックパッカーでした」なんて話を聞くと、
それだけで癒されてしまう今日この頃。
ビジネスクラスに乗ってる小学生が、大人になってもずっとビジネスクラスに乗ってたりするなんて、どうにも納得がいきません。(笑)
このあたりの話は、また別に機を改めて。
2007.06.17
どうなる、グッドウィルドーム?
「コムスン」にまつわる動きが喧しい。
はじめに言っておきたいのだが、どうしてこうも世論は感情論で物を言うのだろうか。
確かに、今般自他共に認めるように、コムスンには不正と指摘される部分があったのは確かだろう。
しかし、あくまでもそれは「全部」ではなく「部分」に過ぎないのである。
「介護福祉で金儲けするなんて」という声がある。
この論調は、大きな間違いだ。
行政では及ばないところを民間がやっている現実、
利益も無いのに、ただひたすら公共の利益のためだけに生きられる企業ってあるのか。
それは余程のお大尽の真摯なボランタリーか、売名行為である。
利益生まずして、企業と言うものは成り立たない。
そこで大きくとも小さくとも、利益=儲けは出すのが当たり前だ。
さもなくば、多くの社員は路頭に迷うことになる。
これを未然に防ぐのが、経営責任というものだろう。
介護福祉で金儲けしてはいけないのなら、
介護福祉士を要請する学校も全て、責を負うことになるだろう。
根本的な解決としては、国が全て、無償で国民の福祉を貫徹できるよう努めれば良いのである。
それが出来ない今、介護と言う言葉に「ビジネス」という言葉が結びついた。
コムスンが空中分解するや否や、それを継承、いや分割取得せんと多くの企業が躍起である。
これは、世のため人のためである一方、それら企業の利益に繋がるに他ならない。
儲からない話に、誰も首を突っ込まないのである。
コムスン以外の介護ビジネス業者へは批判が向けられないのに、
当のコムスンの実権把握者には、随分と手厳しい。
「ジュリアナ東京から介護ビジネスへ」と、さながらそれが間違いのように週刊誌は書き立てる。
他の企業がやれば「多角経営」と評価するものを、
それが「介護福祉」という聖域であったばかりに、
根本から組織を否定するような叩き振りだ。
信用が覆るのは一瞬なのだな、と教訓めいたものを残しつつも。
それにしても、「グッドウィルグループ」である。
コムスンを手放したこのグループが、名を冠した球場の行方。
ネーミングライツの新たな課題を、見せ付けられた。
はじめに言っておきたいのだが、どうしてこうも世論は感情論で物を言うのだろうか。
確かに、今般自他共に認めるように、コムスンには不正と指摘される部分があったのは確かだろう。
しかし、あくまでもそれは「全部」ではなく「部分」に過ぎないのである。
「介護福祉で金儲けするなんて」という声がある。
この論調は、大きな間違いだ。
行政では及ばないところを民間がやっている現実、
利益も無いのに、ただひたすら公共の利益のためだけに生きられる企業ってあるのか。
それは余程のお大尽の真摯なボランタリーか、売名行為である。
利益生まずして、企業と言うものは成り立たない。
そこで大きくとも小さくとも、利益=儲けは出すのが当たり前だ。
さもなくば、多くの社員は路頭に迷うことになる。
これを未然に防ぐのが、経営責任というものだろう。
介護福祉で金儲けしてはいけないのなら、
介護福祉士を要請する学校も全て、責を負うことになるだろう。
根本的な解決としては、国が全て、無償で国民の福祉を貫徹できるよう努めれば良いのである。
それが出来ない今、介護と言う言葉に「ビジネス」という言葉が結びついた。
コムスンが空中分解するや否や、それを継承、いや分割取得せんと多くの企業が躍起である。
これは、世のため人のためである一方、それら企業の利益に繋がるに他ならない。
儲からない話に、誰も首を突っ込まないのである。
コムスン以外の介護ビジネス業者へは批判が向けられないのに、
当のコムスンの実権把握者には、随分と手厳しい。
「ジュリアナ東京から介護ビジネスへ」と、さながらそれが間違いのように週刊誌は書き立てる。
他の企業がやれば「多角経営」と評価するものを、
それが「介護福祉」という聖域であったばかりに、
根本から組織を否定するような叩き振りだ。
信用が覆るのは一瞬なのだな、と教訓めいたものを残しつつも。
それにしても、「グッドウィルグループ」である。
コムスンを手放したこのグループが、名を冠した球場の行方。
ネーミングライツの新たな課題を、見せ付けられた。
2007.06.16
継承されてゆくもの
「パッチギ! LOVE&PEACE」「大日本人」を鑑賞する。
いずれも注目作ではあるが、そのタイトルからして明らかに対照的。
前作たる「パッチギ!」を観ていないので、
その続編という感覚ゼロという前提。
「嫌日映画」という評価もあるようだが、そのあたりからだろうか、
「パッチギ=頭突き」という説明がなされているのは。
よく調べると、この語には「突き抜ける・飛び越える」といった意味が含まれているようである。
やんわりと包み込んだ表現がなくて、
普段我々がいかに「婉曲表現」「禁止語」に囲まれているのかが分かる。
そういう見方からすれば、目の覚めるような映画だ。
およそ、新聞やテレビでは触れることの出来ないタブーに直接触れているのは、気づいた人だけが感じられる「熱」だろう。
舞台となる今から30年ほど前であれば、
当然のようにあった差別問題や対立構造が、目に見えたであろう形そのままに映像化されている。
ここにあるのは、「継承されてゆく思い」なのか。
ここに、藤井隆演じる「岩手県出身の青年」がいる。
彼は貧困で不遇なバックボーンを抱えながら、
それでも素直さを保ち、正義感ゆえに国鉄職員の職を解かれる。
彼の演技にここでも「正調岩手方言」を要求するべくも無いが、
「差別意識のなさ」と「歴史認識の低さ」では、
井筒監督は忠実な岩手県人像を描いている。
主人公一家と半ば同居し、海水浴へ出かける場面で登場する台詞では、
朝鮮半島出身者が岩手の鉱山で労役を課せられた事実を、その青年は知らない。
朝鮮半島も日本も、それなりに変化を続けていて、
韓流ドラマが台頭し、岩手県にあれだけ訛っている青年が皆無な状況をみるだけでも、
時の流れの速さというのは恐ろしいものだとさえ感じる。
その一方で、「変わらないもの」は「継承されてゆくもの」ではないのか。
一方、「大日本人」である。
前評判がいいと聞いてはいたが、これをカンヌで人々が賞賛したと言うのは怪しい。
おそらく、それ自体がどこかの宣伝文句を茶化したものではないのだろうか。
何しろ、日本の社会的背景や、何より監督のプロデュースしたステージを知らない人にとっては、事前知識なしに笑えない内容である。
防衛庁の命令で出動する「大日本人」は、
なんと国家組織に動かされる「伝統保持の一族」である。
しかも「自衛隊の方が効率的」と世論に叩かれ、
これに抗する台詞は「伝統と言うものをどう考えているのか」だ。
無くてもいいと自ら否定する「儀式」を執行し、
何でも電気を多用する日本らしく「電流」を以って変身する。
しかも、効率性を問われても非効率な役所「電変場」で。
介護問題や北朝鮮・米国との関係を散りばめながら、
それでも前半は非常に退屈で、後半は投げやりにも見える収拾策。
おそらくは、これが松本人志流なのだろうが。
ここでも描かれているのが、「継承されてゆくもの」なのである。
介護していたつもりのお祖父さんが、突然現役宣言したりする妙。
「娘にこんな仕事は継がせられない」と伝統との葛藤。
実は核心を突いた内容なのだが、万人にお勧めできる内容かといえば、やはり甚だ疑問。
あの映画が面白いとかつまらないとか、迂闊には言えないものです。
だって、見るポイントが違うんだからさ。
いずれも注目作ではあるが、そのタイトルからして明らかに対照的。
前作たる「パッチギ!」を観ていないので、
その続編という感覚ゼロという前提。
「嫌日映画」という評価もあるようだが、そのあたりからだろうか、
「パッチギ=頭突き」という説明がなされているのは。
よく調べると、この語には「突き抜ける・飛び越える」といった意味が含まれているようである。
やんわりと包み込んだ表現がなくて、
普段我々がいかに「婉曲表現」「禁止語」に囲まれているのかが分かる。
そういう見方からすれば、目の覚めるような映画だ。
およそ、新聞やテレビでは触れることの出来ないタブーに直接触れているのは、気づいた人だけが感じられる「熱」だろう。
舞台となる今から30年ほど前であれば、
当然のようにあった差別問題や対立構造が、目に見えたであろう形そのままに映像化されている。
ここにあるのは、「継承されてゆく思い」なのか。
ここに、藤井隆演じる「岩手県出身の青年」がいる。
彼は貧困で不遇なバックボーンを抱えながら、
それでも素直さを保ち、正義感ゆえに国鉄職員の職を解かれる。
彼の演技にここでも「正調岩手方言」を要求するべくも無いが、
「差別意識のなさ」と「歴史認識の低さ」では、
井筒監督は忠実な岩手県人像を描いている。
主人公一家と半ば同居し、海水浴へ出かける場面で登場する台詞では、
朝鮮半島出身者が岩手の鉱山で労役を課せられた事実を、その青年は知らない。
朝鮮半島も日本も、それなりに変化を続けていて、
韓流ドラマが台頭し、岩手県にあれだけ訛っている青年が皆無な状況をみるだけでも、
時の流れの速さというのは恐ろしいものだとさえ感じる。
その一方で、「変わらないもの」は「継承されてゆくもの」ではないのか。
一方、「大日本人」である。
前評判がいいと聞いてはいたが、これをカンヌで人々が賞賛したと言うのは怪しい。
おそらく、それ自体がどこかの宣伝文句を茶化したものではないのだろうか。
何しろ、日本の社会的背景や、何より監督のプロデュースしたステージを知らない人にとっては、事前知識なしに笑えない内容である。
防衛庁の命令で出動する「大日本人」は、
なんと国家組織に動かされる「伝統保持の一族」である。
しかも「自衛隊の方が効率的」と世論に叩かれ、
これに抗する台詞は「伝統と言うものをどう考えているのか」だ。
無くてもいいと自ら否定する「儀式」を執行し、
何でも電気を多用する日本らしく「電流」を以って変身する。
しかも、効率性を問われても非効率な役所「電変場」で。
介護問題や北朝鮮・米国との関係を散りばめながら、
それでも前半は非常に退屈で、後半は投げやりにも見える収拾策。
おそらくは、これが松本人志流なのだろうが。
ここでも描かれているのが、「継承されてゆくもの」なのである。
介護していたつもりのお祖父さんが、突然現役宣言したりする妙。
「娘にこんな仕事は継がせられない」と伝統との葛藤。
実は核心を突いた内容なのだが、万人にお勧めできる内容かといえば、やはり甚だ疑問。
あの映画が面白いとかつまらないとか、迂闊には言えないものです。
だって、見るポイントが違うんだからさ。
2007.06.10
ご当地から見る「ご当地ドラマ」
「どんど晴れ」、どれだけの人が見ているのだろうか?
ご当地盛岡での反応を見聞きするに、随分と両極端だ。
「一度も見たことが無い」と、「毎回欠かさず見ている(但し録画で)」という人。
次長は後者なんだけど、以下、そのためにマニアックとも思える批評がある点については、ご容赦願いたい。
物語りも佳境に入ってきて、近頃の画面はもはや「朝ドラ」の光景ではない。
設定は昼ドラっぽいが、出演者は夜の金ドラ。
元グラビアアイドルとは思えないハマリ役・雛形あきこは「旅館の娘」で、普通に考えて女将の階段登る一番現実的なポジション。
ところが、その宿命をわかって嫁いだはずが、「家事に専念したい」と控えめな役どころに徹する。
外国帰りの敏腕ホテルウーマン・相沢紗世の存在感はもはや、夜10時の匂い。しかもホテルの支配人とは縁戚関係。
パワーゲームもちらつかせて、加賀美柾樹を略奪愛の方向へ。
まったく、これだけ朝ドラの似合わない朝ドラにスパイスを加えてくれる女優って凄い。
白石美帆が「一流料亭の娘」として出てくる段に到っては、
「氏より育ち」ならぬ「氏も育ちも避けられない運命」という
世襲社会・職業選択の固定化を三段構えで表層化している。
この三人がまとめて加賀美屋に嫁ぎ、「若女将3人のお宿」にしたら、これ以上のセールストークは無いように思うのだが、
そういってしまっては、このドラマが言わんとする「老舗の伝統と格式」をブチ壊してしまうか。
まずは、この三人の女性が醸す雰囲気から、目が離せない。(笑)
何しろ、盛岡の老舗旅館の御曹司「柾樹」が、はるか横浜でも同様、家業に近い高級ホテル勤務であるあたりからして、
逃れようの無い運命なのである。
主人公「夏美」だって、親がケーキ職人で、その道を志していたのである。しかも、娘の彼氏の勤め先(横浜のホテル)で活躍の過去アリ。
なんだ、このシガラミは!?
さらに柾樹の母が過労で死んだのは、母が「旅館の娘でなく一般家庭の娘だった」ことが殊更強調される。
一方、遠く仙台から嫁いだ女将があれだけ板ばさみでも死なないのは、女将が特に神経が図太いってこと?(笑)
ひょっとして、彼女も「旅館の娘」なのか?
不遇に曝されながら、息子を次期当主にしたいのに、女将は夏美には冷たくないのである。しかも大女将にも決して反抗しない。
(今週ぐらいから怪しいが・・・・)
こんな演技が出来るのは、宮本信子を置いて他に無いだろう。
さらに、妙にリアリティのある森昌子。
シガラミから一番遠い場所に居る彼女が、一番言いたい事を言える存在。
柾樹から見て、母、叔母、そして婚約候補者の母という
「3人の母」が、ねっとりと絡み合う・・・・。
旅館の御曹司の一人(次男)が厨房にいるってのも、
現場は相当やりづらいだろうが、そこはあんまり強調されない不思議。
次期当主になるのかならないのか分からない人の嫁候補、
という曖昧極まりない存在=夏美はむしろ、吹いて飛びそうだが、
やはりそこでも感情に正直なのは、権力と無縁の「3人の仲居」。
大女将と女将の対立=嫁姑戦争というのはありがちだが、ここに仲居頭が加わってタテ社会のひずみが生まれる。
大女将は夏美が好きで、女将は大女将と夏美が疎ましくて、
仲居頭は女将と結託するも、大女将までは手が届かないという構図。
ここでもまた、「3人の管理職」の存在感が光る。
いずれの場でも、「3人の女性」が複雑に交錯するのが、このドラマの「威容」だ。
柾樹の父親なんてハナから語る価値すら問われてないし、
加賀美家の父(社長)も息子(東幹久)も、実に頼りない。
これは朝倉家とて同じこと。
夏美の父親は妻に蹂躙されっぱなしだし、息子も口は達者だが結構ナイーブ。
南部鉄器職人は親方・弟子ともに夏美に振り回されっぱなし。
イーハトーブのマスターも、嫁に逃げられ娘本位。
ここまで女性上位のドラマって、他に無いんじゃないでしょうか・・・・。
おそらく、そこがこのドラマの醍醐味。
ストーリー以外については、「ナレーションが耳に障る」という方が結構多い。
このブログにもそういう方が多くお見えのようで。
あのドラマで使われている言葉の半分以上は、青森や山形のもので、「盛岡のアクセント」ではない。
ナレーションについても、基本に忠実なあまり、語気が強いのと語尾が長いのは正直、気になるところではある。
やはり、青森の人(ナレーションの木野花)が岩手の言葉を完全習得って言うのは、無理なんだろう。
かといって誰がいいんだと言われれば、人材難。
時折、夏美の台詞が盛岡のアクセントだったりすることにハラハラするのもご愛嬌。
(「まさきさん!」の「さ」が強いのは、沖縄のアクセントだろう)
市原悦子が柱の陰からのぞき見て、ナレーションするっていう設定が面白そうだが。(笑)
ただ、ご当地に暮らす人から見て違和感を感じるのは当然のこと。
「ど真ん中にある盛岡城が一回も出てこない」
「さんさ踊りはともかくチャグチャグ馬コが飛ばされてる」
(今年のポスターのキャッチフレーズは「どんと晴れた空のもと」と、ドラマに便乗していた)
「中津川橋より上ノ橋のほうが歴史も風情もある」
「わんこそばを紹介せずにいきなり蕎麦アレルギーですか」
「じゃじゃ麺よりも盛岡冷麺のほうが有名」
など、各方面のごく個人的意見は枚挙に暇が無い。
次長にもあえて言わせてもらえば、
「盛岡に必ず居る『古代型染バッグを持ったおばちゃん』が不在」
ってことだろうか。
ただそれでも、イメージを伝えると言う意味では、上出来だろう。
むしろ、「南部鉄瓶の大茶会」だの、「老舗」だの、ご当地外の人が期待している「ご当地像」が見えただけでもよし、これを教訓としなければならないはず。
こんな文章を見ると、実際のドラマを検証したくなりませんか?
なんだかんだと言いながら、「ご当地」に居て、東京人が想像する架空の盛岡を見ると言うのは、なかなか面白い。
ご当地盛岡での反応を見聞きするに、随分と両極端だ。
「一度も見たことが無い」と、「毎回欠かさず見ている(但し録画で)」という人。
次長は後者なんだけど、以下、そのためにマニアックとも思える批評がある点については、ご容赦願いたい。
物語りも佳境に入ってきて、近頃の画面はもはや「朝ドラ」の光景ではない。
設定は昼ドラっぽいが、出演者は夜の金ドラ。
元グラビアアイドルとは思えないハマリ役・雛形あきこは「旅館の娘」で、普通に考えて女将の階段登る一番現実的なポジション。
ところが、その宿命をわかって嫁いだはずが、「家事に専念したい」と控えめな役どころに徹する。
外国帰りの敏腕ホテルウーマン・相沢紗世の存在感はもはや、夜10時の匂い。しかもホテルの支配人とは縁戚関係。
パワーゲームもちらつかせて、加賀美柾樹を略奪愛の方向へ。
まったく、これだけ
白石美帆が「一流料亭の娘」として出てくる段に到っては、
「氏より育ち」ならぬ「氏も育ちも避けられない運命」という
世襲社会・職業選択の固定化を三段構えで表層化している。
この三人がまとめて加賀美屋に嫁ぎ、「若女将3人のお宿」にしたら、これ以上のセールストークは無いように思うのだが、
そういってしまっては、このドラマが言わんとする「老舗の伝統と格式」をブチ壊してしまうか。
まずは、この三人の女性が醸す雰囲気から、目が離せない。(笑)
何しろ、盛岡の老舗旅館の御曹司「柾樹」が、はるか横浜でも同様、家業に近い高級ホテル勤務であるあたりからして、
逃れようの無い運命なのである。
主人公「夏美」だって、親がケーキ職人で、その道を志していたのである。しかも、娘の彼氏の勤め先(横浜のホテル)で活躍の過去アリ。
なんだ、このシガラミは!?
さらに柾樹の母が過労で死んだのは、母が「旅館の娘でなく一般家庭の娘だった」ことが殊更強調される。
一方、遠く仙台から嫁いだ女将があれだけ板ばさみでも死なないのは、女将が特に神経が図太いってこと?(笑)
ひょっとして、彼女も「旅館の娘」なのか?
不遇に曝されながら、息子を次期当主にしたいのに、女将は夏美には冷たくないのである。しかも大女将にも決して反抗しない。
(今週ぐらいから怪しいが・・・・)
こんな演技が出来るのは、宮本信子を置いて他に無いだろう。
さらに、妙にリアリティのある森昌子。
シガラミから一番遠い場所に居る彼女が、一番言いたい事を言える存在。
柾樹から見て、母、叔母、そして婚約候補者の母という
「3人の母」が、ねっとりと絡み合う・・・・。
旅館の御曹司の一人(次男)が厨房にいるってのも、
現場は相当やりづらいだろうが、そこはあんまり強調されない不思議。
次期当主になるのかならないのか分からない人の嫁候補、
という曖昧極まりない存在=夏美はむしろ、吹いて飛びそうだが、
やはりそこでも感情に正直なのは、権力と無縁の「3人の仲居」。
大女将と女将の対立=嫁姑戦争というのはありがちだが、ここに仲居頭が加わってタテ社会のひずみが生まれる。
大女将は夏美が好きで、女将は大女将と夏美が疎ましくて、
仲居頭は女将と結託するも、大女将までは手が届かないという構図。
ここでもまた、「3人の管理職」の存在感が光る。
いずれの場でも、「3人の女性」が複雑に交錯するのが、このドラマの「威容」だ。
柾樹の父親なんてハナから語る価値すら問われてないし、
加賀美家の父(社長)も息子(東幹久)も、実に頼りない。
これは朝倉家とて同じこと。
夏美の父親は妻に蹂躙されっぱなしだし、息子も口は達者だが結構ナイーブ。
南部鉄器職人は親方・弟子ともに夏美に振り回されっぱなし。
イーハトーブのマスターも、嫁に逃げられ娘本位。
ここまで女性上位のドラマって、他に無いんじゃないでしょうか・・・・。
おそらく、そこがこのドラマの醍醐味。
ストーリー以外については、「ナレーションが耳に障る」という方が結構多い。
このブログにもそういう方が多くお見えのようで。
あのドラマで使われている言葉の半分以上は、青森や山形のもので、「盛岡のアクセント」ではない。
ナレーションについても、基本に忠実なあまり、語気が強いのと語尾が長いのは正直、気になるところではある。
やはり、青森の人(ナレーションの木野花)が岩手の言葉を完全習得って言うのは、無理なんだろう。
かといって誰がいいんだと言われれば、人材難。
時折、夏美の台詞が盛岡のアクセントだったりすることにハラハラするのもご愛嬌。
(「まさきさん!」の「さ」が強いのは、沖縄のアクセントだろう)
市原悦子が柱の陰からのぞき見て、ナレーションするっていう設定が面白そうだが。(笑)
ただ、ご当地に暮らす人から見て違和感を感じるのは当然のこと。
「ど真ん中にある盛岡城が一回も出てこない」
「さんさ踊りはともかくチャグチャグ馬コが飛ばされてる」
(今年のポスターのキャッチフレーズは「どんと晴れた空のもと」と、ドラマに便乗していた)
「中津川橋より上ノ橋のほうが歴史も風情もある」
「わんこそばを紹介せずにいきなり蕎麦アレルギーですか」
「じゃじゃ麺よりも盛岡冷麺のほうが有名」
など、各方面のごく個人的意見は枚挙に暇が無い。
次長にもあえて言わせてもらえば、
「盛岡に必ず居る『古代型染バッグを持ったおばちゃん』が不在」
ってことだろうか。
ただそれでも、イメージを伝えると言う意味では、上出来だろう。
むしろ、「南部鉄瓶の大茶会」だの、「老舗」だの、ご当地外の人が期待している「ご当地像」が見えただけでもよし、これを教訓としなければならないはず。
こんな文章を見ると、実際のドラマを検証したくなりませんか?
なんだかんだと言いながら、「ご当地」に居て、東京人が想像する架空の盛岡を見ると言うのは、なかなか面白い。
2007.06.09
のぼり
盛岡駅を降り立つと、相変わらず「看板」が占拠し、ずらり「のぼり」が立っている。
これは、実は全国どこにでもある光景では無い。
同じ盛岡駅だって、西口と東口ではまるで違っていて、新たに開発の進められた西口は規制に則って、そんな光景にはお目にかからない。
看板が出せないなら、と出店を躊躇する店すらあったぐらいだ。
看板への規制は、文教都市を謳うような町ではかなり当たり前になってきているが、
のぼりについては、相変わらずだ。
例えば群馬県高崎市では、市民と市の間での、こんなやり取りが公開されている。
気にも留めない向きも多いが、のぼり旗には違反が多い。
どんな違反かと言えば、「道路交通法違反」である。
視覚環境、景観への影響もさることながら、
自宅店舗敷地内ではない場所、つまり一般公道(歩道を含む)にのぼり旗を当たり前のように掲げている店が多いが、実はこれは犯罪だ。
天下の公道に不法占拠、と言えば理解は早い。
いそいそと自社のPRのためにのぼり旗を掲げることに責めはないが、
これが歩道の上だと実質的にも支障がある。
植え込みの中に棒を突き刺してその根を傷めたり、
点字ブロックの上におもりを置くことで、その機能が削がれる。
ここに取締りが薄いのには疑問を感じている。
自転車の不法駐輪はともかくだが、
恒常的なこの「不法占拠」を改善することが
市民の意識を変えてゆくのではないか。
「公共財としての道路」への意識向上が望まれる。
これは、実は全国どこにでもある光景では無い。
同じ盛岡駅だって、西口と東口ではまるで違っていて、新たに開発の進められた西口は規制に則って、そんな光景にはお目にかからない。
看板が出せないなら、と出店を躊躇する店すらあったぐらいだ。
看板への規制は、文教都市を謳うような町ではかなり当たり前になってきているが、
のぼりについては、相変わらずだ。
例えば群馬県高崎市では、市民と市の間での、こんなやり取りが公開されている。
気にも留めない向きも多いが、のぼり旗には違反が多い。
どんな違反かと言えば、「道路交通法違反」である。
視覚環境、景観への影響もさることながら、
自宅店舗敷地内ではない場所、つまり一般公道(歩道を含む)にのぼり旗を当たり前のように掲げている店が多いが、実はこれは犯罪だ。
天下の公道に不法占拠、と言えば理解は早い。
いそいそと自社のPRのためにのぼり旗を掲げることに責めはないが、
これが歩道の上だと実質的にも支障がある。
植え込みの中に棒を突き刺してその根を傷めたり、
点字ブロックの上におもりを置くことで、その機能が削がれる。
ここに取締りが薄いのには疑問を感じている。
自転車の不法駐輪はともかくだが、
恒常的なこの「不法占拠」を改善することが
市民の意識を変えてゆくのではないか。
「公共財としての道路」への意識向上が望まれる。
2007.06.03
貧乏くじ
Jリーグの勝敗を予想する、いわゆる「スポーツ振興くじ」(サッカーくじ)の話。
世間では、このサッカーくじに対する一時の熱も冷めた。
というより、発売開始以来熱があったのか一体?というのが実態だが、
先の「積もり積もって6億が当たるかも」という触れ込みの「ビッグ」も、
当たりが出ればそれまでで、いまやもう話題にすら上らない。
どこで売れたものが当選したとか、聞いた覚えもないし、
とにかくどこかで「当たったらしい」と伝聞するのみで、
実感も湧かなければ真実味すら帯びない、一瞬の泡沫ニュースであった。
そんな折だからこそ、果たして岩手県のどこのコンビニでこのクジが変えるのかというと、
公式ウェブによれば、盛岡の北の外れの住宅地にある、ファミリーマート2軒に留まるらしい。
この広い岩手の、さらに盛岡という都市一点の、さらに郊外の住宅団地のさなか。
全国であまねく買えるようにしろ、とまでは言わないが、
「宝くじ」のお気軽さに比べれば、随分とゴールの遠いシステムではある。
ネットが広まっても、やはり手軽さと言う部分で、地方は不利。
よもや億万長者になるチャンスですら、制限されている。
おかしなことを、と思われるかもしれないが、
この「公営クジ」というシステムは、非常に不思議なもの。
発売されたクジが全部売れているわけではないのに、
売れている前提で「公正な当選番号」を決める。
つまり、売れていないクジが当選クジになってる可能性だってあるんじゃないのか?と。
売れ残りクジをどのように処理しているのか分からないけど、
売却済みクジの番号の中から当選者を決めるのと、
発行したクジ全体から当選者を決めるのでは、当選確率に格段の差が出る。
確率を一定にするために後者を採用しているならば、
とても買う気にはなれない。
詳しく知りたい気もするが、誰が詳細に知っているのかも分からない世界。
今ひとつ、未知の領域である。
詳しく知らないので、この認識が誤りだとすれば、ぜひご教示願いたい。
そう考えると、単純明快なのは競馬の世界。
競輪・競艇は人だが、何しろ主役はウマ。
文字通り「駆け引き」をするのは人だ、とはいえ。
宝くじやサッカーくじとはまた状況違って、
狭い地域での販売により経営を成り立たせる、地方競馬の世界。
例の岩手県競馬組合は、さらに経費を約4億7000万円圧縮するという。
・・・は?
この期に及んで、そこまで圧縮できる見通しが立たなかったと言うのは、いったい何を物語るのだろうか。
このニュースを目にしたとき、少なくともその三倍は、まだまだ圧縮の可能性があるのではないのか?と次長は考えた。
今まで何やってたのさ?
そんなに余裕があったの?
昔のやり方が良くて、今のやり方が悪いとは思わない。
要は世間の意識が変わっているのに、それに付随するだけの意識が伴っていかなかったという事だけだろう。
ま、どこにでもある意識の変化と世代交代との関わりである。
岩手県という県が背負っている宿命を、もう一度考えてみたい。
ここは「広さ」を売りにせざるを得ないくらいに「突出した何か」が無い。
突き詰めると、一つの県全体で同じことをしようと言うのが、そもそもの間違いなのである。
岩手競馬への愛着や密接度は、そもそも県民全体の関心事ではなく、本当にごく一部の点での話しなのだ。
二つの競馬場所在地で例えれば、
盛岡市と奥州市では、気候も風土も市民意識も異なる。
かたや、合併も碌に進まず産業も無く、それでも県都のプライドと職員給与だけは依然として高いまま。
一方、水沢や江刺といった馴染み深い名前を返上してまで、東北全体を示すような市名を掲げて団結する土地。
競馬にしろ何にしろ、岩手県と言う存在そのものが「幻想」でしか無いように思えるのだが。
四国とほぼ同じ広さの岩手県、という謳い文句を裏返せば、
どこをとっても共通性は低いのに、同じ方向へと進む宿命を背負わされた広大な地域、ということである。
それでも自治区みたいな特例が適用される地域なら別だが、
どこまでも一つの国の制度で、豊かな地域とも歩調を合わせなければならない。
これはもう、それだけで「貧乏くじ」を引かされていることに気づきたい。
仮に岩手県が北と南で二つの県になっていたら、
先の「サッカーくじをするファミリーマート」は、間違いなく奥州市にも存在したと思う。
ところが、盛岡にあれば岩手県への処置はそれで十分、と言うことになる。
岩手の「南北問題」の根底には、不公平感の克服という問題が常に内在している。
「東西問題」となると、さらに問題は複雑化するが。
「何億円も掛けた盛岡競馬場をなくすのは惜しい」とか
「水沢競馬場への依存度が高い水沢区(奥州市)民は多くいる」とか、
そういう問題の根底には、「南北両立が是」という岩手県民の中にある暗黙の「平等思想」が見え隠れする。
もはやここで、「馬事文化との関わり」を盛岡と水沢(奥州市)とで自慢し綱引きしても、どうしようもない話。
両場の左回り・右回りの違いを並立させることが大切、と息巻く愛好者もいるが(興味のない方には初耳だろう)、
それは競馬の経営が安定して入ればこそ、推し進められる話。
等しく繁栄する要素があればこそあれ、岩手県は東西南北まるで違う。
然るべき配置を考えないと、凶と出るのではあるまいか。
これは、どの地域でも同じ水準で医療が受けられるようにする政策とは別の次元にある。
意志に関わらず、スタートから貧乏くじを引かされている岩手県。
今さら明治政府を追及するわけにもいかないし・・・・。
雇用問題など多くの問題は残るが、景気が悪くなって失職するのは、どの職種とて同じこと(公務員だけ別だけど)。
自治体がギャンブルやくじに関わること自体に批判があることにも、耳を傾けなければならないだろう。
世間では、このサッカーくじに対する一時の熱も冷めた。
というより、発売開始以来熱があったのか一体?というのが実態だが、
先の「積もり積もって6億が当たるかも」という触れ込みの「ビッグ」も、
当たりが出ればそれまでで、いまやもう話題にすら上らない。
どこで売れたものが当選したとか、聞いた覚えもないし、
とにかくどこかで「当たったらしい」と伝聞するのみで、
実感も湧かなければ真実味すら帯びない、一瞬の泡沫ニュースであった。
そんな折だからこそ、果たして岩手県のどこのコンビニでこのクジが変えるのかというと、
公式ウェブによれば、盛岡の北の外れの住宅地にある、ファミリーマート2軒に留まるらしい。
この広い岩手の、さらに盛岡という都市一点の、さらに郊外の住宅団地のさなか。
全国であまねく買えるようにしろ、とまでは言わないが、
「宝くじ」のお気軽さに比べれば、随分とゴールの遠いシステムではある。
ネットが広まっても、やはり手軽さと言う部分で、地方は不利。
よもや億万長者になるチャンスですら、制限されている。
おかしなことを、と思われるかもしれないが、
この「公営クジ」というシステムは、非常に不思議なもの。
発売されたクジが全部売れているわけではないのに、
売れている前提で「公正な当選番号」を決める。
つまり、売れていないクジが当選クジになってる可能性だってあるんじゃないのか?と。
売れ残りクジをどのように処理しているのか分からないけど、
売却済みクジの番号の中から当選者を決めるのと、
発行したクジ全体から当選者を決めるのでは、当選確率に格段の差が出る。
確率を一定にするために後者を採用しているならば、
とても買う気にはなれない。
詳しく知りたい気もするが、誰が詳細に知っているのかも分からない世界。
今ひとつ、未知の領域である。
詳しく知らないので、この認識が誤りだとすれば、ぜひご教示願いたい。
そう考えると、単純明快なのは競馬の世界。
競輪・競艇は人だが、何しろ主役はウマ。
文字通り「駆け引き」をするのは人だ、とはいえ。
宝くじやサッカーくじとはまた状況違って、
狭い地域での販売により経営を成り立たせる、地方競馬の世界。
例の岩手県競馬組合は、さらに経費を約4億7000万円圧縮するという。
・・・は?
この期に及んで、そこまで圧縮できる見通しが立たなかったと言うのは、いったい何を物語るのだろうか。
このニュースを目にしたとき、少なくともその三倍は、まだまだ圧縮の可能性があるのではないのか?と次長は考えた。
今まで何やってたのさ?
そんなに余裕があったの?
昔のやり方が良くて、今のやり方が悪いとは思わない。
要は世間の意識が変わっているのに、それに付随するだけの意識が伴っていかなかったという事だけだろう。
ま、どこにでもある意識の変化と世代交代との関わりである。
岩手県という県が背負っている宿命を、もう一度考えてみたい。
ここは「広さ」を売りにせざるを得ないくらいに「突出した何か」が無い。
突き詰めると、一つの県全体で同じことをしようと言うのが、そもそもの間違いなのである。
岩手競馬への愛着や密接度は、そもそも県民全体の関心事ではなく、本当にごく一部の点での話しなのだ。
二つの競馬場所在地で例えれば、
盛岡市と奥州市では、気候も風土も市民意識も異なる。
かたや、合併も碌に進まず産業も無く、それでも県都のプライドと職員給与だけは依然として高いまま。
一方、水沢や江刺といった馴染み深い名前を返上してまで、東北全体を示すような市名を掲げて団結する土地。
競馬にしろ何にしろ、岩手県と言う存在そのものが「幻想」でしか無いように思えるのだが。
四国とほぼ同じ広さの岩手県、という謳い文句を裏返せば、
どこをとっても共通性は低いのに、同じ方向へと進む宿命を背負わされた広大な地域、ということである。
それでも自治区みたいな特例が適用される地域なら別だが、
どこまでも一つの国の制度で、豊かな地域とも歩調を合わせなければならない。
これはもう、それだけで「貧乏くじ」を引かされていることに気づきたい。
仮に岩手県が北と南で二つの県になっていたら、
先の「サッカーくじをするファミリーマート」は、間違いなく奥州市にも存在したと思う。
ところが、盛岡にあれば岩手県への処置はそれで十分、と言うことになる。
岩手の「南北問題」の根底には、不公平感の克服という問題が常に内在している。
「東西問題」となると、さらに問題は複雑化するが。
「何億円も掛けた盛岡競馬場をなくすのは惜しい」とか
「水沢競馬場への依存度が高い水沢区(奥州市)民は多くいる」とか、
そういう問題の根底には、「南北両立が是」という岩手県民の中にある暗黙の「平等思想」が見え隠れする。
もはやここで、「馬事文化との関わり」を盛岡と水沢(奥州市)とで自慢し綱引きしても、どうしようもない話。
両場の左回り・右回りの違いを並立させることが大切、と息巻く愛好者もいるが(興味のない方には初耳だろう)、
それは競馬の経営が安定して入ればこそ、推し進められる話。
等しく繁栄する要素があればこそあれ、岩手県は東西南北まるで違う。
然るべき配置を考えないと、凶と出るのではあるまいか。
これは、どの地域でも同じ水準で医療が受けられるようにする政策とは別の次元にある。
意志に関わらず、スタートから貧乏くじを引かされている岩手県。
今さら明治政府を追及するわけにもいかないし・・・・。
雇用問題など多くの問題は残るが、景気が悪くなって失職するのは、どの職種とて同じこと(公務員だけ別だけど)。
自治体がギャンブルやくじに関わること自体に批判があることにも、耳を傾けなければならないだろう。
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