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2007.07.29
加賀美屋の世界
相変わらず突っ込みどころ満載な、NHK連続テレビ小説「どんど晴れ」。
本来、方言である「どんどはれ」の「はれ」に「晴れ」の意味は無いというのに、
いつしか誤解が誤解を生んで、それが正当なもののように地元でも使われはじめた。
何しろ、地元っ子すら地元のことを知らないような土地柄だから、ね。
しきりに「おもてなし」という言葉が多用されるドラマに影響されてか、
例の「加賀美屋」の幻想を現実に近づけるべく、ご当地岩手でも各方面が奮闘中。
ただ、「どんど晴れは岩手・盛岡が舞台です」という「のぼり」に、
肝心のドラマのロゴが使われていないとの知人の指摘を受け、
見に行ったら本当にその通りだった。
これでは、効果も半減ではないのか?
ドラマの中では、どいつもこいつも意地悪で性悪なキャラが際立つ中で、イメージアップに寄与しているかは微妙。(笑)
本家本元、加賀美屋の「長男息子」は横浜で都会流儀を身に着け、あの若さで「悪しき慣習」と戦う。
彼には、共感めいた思いを抱く。
やはりご当地盛岡(に限ったことではないだろうが)、「悪しき慣習」というものはやはり残っていて、
「岩手県以外から進出している業者」というのは、大変に冷遇されるのが常。
次長が「地元資本業者」からの納入単価に驚いて値下げ交渉を進めたところ、相手がその行為に甚く驚愕していたことが忘れられない。
さらに、旧来の業者との取引を薦める勢力もいて、「改革の難しさ」を知った次第であった。
そしてそのことに、自身がもっとも驚いたわけだが・・・。
結果として、次長は地元との取引を半分に抑え、
ある程度「顔」を繋いでおく一方、背に腹は代えられない部分、
「県外資本」との取引に転じさせたのである。
これには、社内での反対が大きかったが。
ここで生きていくには、いかに地元への貢献を図っているのかをPRしなければならないのだなぁ。
いわば、利益を度外視した「おつきあい」の部分ってやつである。
ただ、この「おつきあい」というのがどこまで有効なのか、これは疑問である。
義理を欠かない昔ならいざ知らず、こうしたメンタルな部分がどこまで生きるのか、計り知れぬところである。
加賀美屋のように、ここには「歴史と伝統」を看板にする企業が多くある。
地元社会にいかに貢献してきたか、それは幾世代にもわたって語り継がれるところだ。
しかし、そうした企業でも、潰れるときはあっという間だ。
お互いの利益を尊重してゆくことは無視できないが、
他方が傾いたときに、相互が応援しあうかといえば、そこまで濃密な商慣習は無い。
歴史に胡坐をかいて、新しい挑戦をしてこなかった、
もしくは伝統に逆らって無謀な挑戦を試みたからだ、と叩かれるばかり。
意外に、そのあたりはクールなのである。
広く全国を見れば、「歴史と伝統の大家」とも言える百貨店の動きが激しい。
あの三越と伊勢丹が、ついに業務提携以上の戦略。
高島屋は高みの見物で、さらに東アジアへの進出を単独で推し進めるという。
近場でも、藤崎が盛岡で動きありと聞く。
宮城県の企業が取得した盛岡中央卸売市場跡地は、青森県の企業が店を構え、今やそのままの状態で外資系の所有である。
「県外資本ディベロッパー」の動きが喧しい。
業界再編が進むほどに、グローバル化の中で、地域固有の商慣習がどこまで有効性を持っていくのか。
これは、地域間格差と無縁ではないだろう。
さて話は戻って。
外国で学んできたはずの「加賀美屋次男の息子(東幹久)」は、
この辺の感覚でものを言ってるのだろうか?(笑)
本来、方言である「どんどはれ」の「はれ」に「晴れ」の意味は無いというのに、
いつしか誤解が誤解を生んで、それが正当なもののように地元でも使われはじめた。
何しろ、地元っ子すら地元のことを知らないような土地柄だから、ね。
しきりに「おもてなし」という言葉が多用されるドラマに影響されてか、
例の「加賀美屋」の幻想を現実に近づけるべく、ご当地岩手でも各方面が奮闘中。
ただ、「どんど晴れは岩手・盛岡が舞台です」という「のぼり」に、
肝心のドラマのロゴが使われていないとの知人の指摘を受け、
見に行ったら本当にその通りだった。
これでは、効果も半減ではないのか?
ドラマの中では、どいつもこいつも意地悪で性悪なキャラが際立つ中で、イメージアップに寄与しているかは微妙。(笑)
本家本元、加賀美屋の「長男息子」は横浜で都会流儀を身に着け、あの若さで「悪しき慣習」と戦う。
彼には、共感めいた思いを抱く。
やはりご当地盛岡(に限ったことではないだろうが)、「悪しき慣習」というものはやはり残っていて、
「岩手県以外から進出している業者」というのは、大変に冷遇されるのが常。
次長が「地元資本業者」からの納入単価に驚いて値下げ交渉を進めたところ、相手がその行為に甚く驚愕していたことが忘れられない。
さらに、旧来の業者との取引を薦める勢力もいて、「改革の難しさ」を知った次第であった。
そしてそのことに、自身がもっとも驚いたわけだが・・・。
結果として、次長は地元との取引を半分に抑え、
ある程度「顔」を繋いでおく一方、背に腹は代えられない部分、
「県外資本」との取引に転じさせたのである。
これには、社内での反対が大きかったが。
ここで生きていくには、いかに地元への貢献を図っているのかをPRしなければならないのだなぁ。
いわば、利益を度外視した「おつきあい」の部分ってやつである。
ただ、この「おつきあい」というのがどこまで有効なのか、これは疑問である。
義理を欠かない昔ならいざ知らず、こうしたメンタルな部分がどこまで生きるのか、計り知れぬところである。
加賀美屋のように、ここには「歴史と伝統」を看板にする企業が多くある。
地元社会にいかに貢献してきたか、それは幾世代にもわたって語り継がれるところだ。
しかし、そうした企業でも、潰れるときはあっという間だ。
お互いの利益を尊重してゆくことは無視できないが、
他方が傾いたときに、相互が応援しあうかといえば、そこまで濃密な商慣習は無い。
歴史に胡坐をかいて、新しい挑戦をしてこなかった、
もしくは伝統に逆らって無謀な挑戦を試みたからだ、と叩かれるばかり。
意外に、そのあたりはクールなのである。
広く全国を見れば、「歴史と伝統の大家」とも言える百貨店の動きが激しい。
あの三越と伊勢丹が、ついに業務提携以上の戦略。
高島屋は高みの見物で、さらに東アジアへの進出を単独で推し進めるという。
近場でも、藤崎が盛岡で動きありと聞く。
宮城県の企業が取得した盛岡中央卸売市場跡地は、青森県の企業が店を構え、今やそのままの状態で外資系の所有である。
「県外資本ディベロッパー」の動きが喧しい。
業界再編が進むほどに、グローバル化の中で、地域固有の商慣習がどこまで有効性を持っていくのか。
これは、地域間格差と無縁ではないだろう。
さて話は戻って。
外国で学んできたはずの「加賀美屋次男の息子(東幹久)」は、
この辺の感覚でものを言ってるのだろうか?(笑)
2007.07.22
鉄ちゃん
職業柄、各地へ度々出張がある。
そこでのささやかな楽しみといえば、普通はご当地の美食であったりするのだろうが、
最近は世知辛く日帰り出張ばかりで時間の余裕も無いので、
それは街行く人たちのファッションであったり、
はたまた看板や家の作り、気候の違いに対する発見だったりする。
その土地の気風で、やたら原色の好きな土地柄だったり、
景観条例やなんかで建物の高さがすっきり同じ高さに整えられてたりすると、そんなものにすら旅情を感じる。
なぜなら良くも悪くも、そこに住んでいる人たちの民力、または行政の威力が、静かに見て取れるからだ。
若者たちからはお国言葉が徐々に薄れているきらいはあるが、それでも「お国言葉の交通事故防止看板」なんかを見ると、
妙にリアルで説得力を感じる。
そういえば、こないだとあるテレビ番組で、
青森出身の松山ケンイチに対し、ナインティナインの矢部が「松山君まだ訛ってるよな」と放言していたが、
矢部自身の大阪弁だって、標準語から見れば「訛っている」のだ。
が、矢部は自分が訛っているなんて全く思っていないはず。
そういう意識の差と言うのは、本来の意義で、まだまだ日本の「バラエティ」の広さである。
さてそんな中で面白いのが、テレビCMだ。
テレビ番組が遍く全国に同時発信されていないのは周知の事実だが、
(昔、「一部の地域を除き放送」というテロップの、「一部の地域」に岩手県はかなりの割合でヒットしていた・・・)
CMというのも、かなりの地域差がある。
今でこそ、大企業ともなると、ネットでCMを公開しているが、
「そのCMが放送されていない地域」では、そもそもそういったものの存在を知る手段に乏しいから、
テレビCMの威力というのは、いまだ大きいと思う。
例えばJR東日本のCM。
これは岩手でも見たことがあるのだが、「北東北デスティネーションキャンペーン」CM。
これは、かなり旅情を誘う内容である。
旅心を喚起しないと成立しない会社とはいえ、「ありふれた情景」をここまで端的に旅情に結びつけるCMも、珍しい。
プラットホームに飾り付けられた南部風鈴、さんさ踊りの練習風景、盛岡の古い町並みで湧水を汲む人々。
岩手部分だけでも、これなのだ。
おそらくは、北東北以外の地域で多く放送されているのだろうが、
むしろ、住んでいる地域の人々にこそ、見せて欲しいCMである。
もう一つ、これも同社だが、
発足20周年を迎えたJR東日本の、新幹線キャンペーンCMで。
これはもう、一億総「鉄ちゃん化」を図らんとする野望としか思えない映像美。(笑)
CMソングとなっているケツメイシの「トレイン」は、
このCMのために創作したかのような、叙情的な作風。
これ、いつどこで放送されてるんでしょうか?
一方で、これもまた驚いたのだが、あの「岩手競馬」のCMが、
岩手県以外の県で放送されていた。
意気込みは分かるけど、いまそんなところに予算を投じている状況なんだろうか・・・まずは地固めをしてはどうですか。
ご参考:「JR東日本 TVCMギャラリー」
そこでのささやかな楽しみといえば、普通はご当地の美食であったりするのだろうが、
最近は世知辛く日帰り出張ばかりで時間の余裕も無いので、
それは街行く人たちのファッションであったり、
はたまた看板や家の作り、気候の違いに対する発見だったりする。
その土地の気風で、やたら原色の好きな土地柄だったり、
景観条例やなんかで建物の高さがすっきり同じ高さに整えられてたりすると、そんなものにすら旅情を感じる。
なぜなら良くも悪くも、そこに住んでいる人たちの民力、または行政の威力が、静かに見て取れるからだ。
若者たちからはお国言葉が徐々に薄れているきらいはあるが、それでも「お国言葉の交通事故防止看板」なんかを見ると、
妙にリアルで説得力を感じる。
そういえば、こないだとあるテレビ番組で、
青森出身の松山ケンイチに対し、ナインティナインの矢部が「松山君まだ訛ってるよな」と放言していたが、
矢部自身の大阪弁だって、標準語から見れば「訛っている」のだ。
が、矢部は自分が訛っているなんて全く思っていないはず。
そういう意識の差と言うのは、本来の意義で、まだまだ日本の「バラエティ」の広さである。
さてそんな中で面白いのが、テレビCMだ。
テレビ番組が遍く全国に同時発信されていないのは周知の事実だが、
(昔、「一部の地域を除き放送」というテロップの、「一部の地域」に岩手県はかなりの割合でヒットしていた・・・)
CMというのも、かなりの地域差がある。
今でこそ、大企業ともなると、ネットでCMを公開しているが、
「そのCMが放送されていない地域」では、そもそもそういったものの存在を知る手段に乏しいから、
テレビCMの威力というのは、いまだ大きいと思う。
例えばJR東日本のCM。
これは岩手でも見たことがあるのだが、「北東北デスティネーションキャンペーン」CM。
これは、かなり旅情を誘う内容である。
旅心を喚起しないと成立しない会社とはいえ、「ありふれた情景」をここまで端的に旅情に結びつけるCMも、珍しい。
プラットホームに飾り付けられた南部風鈴、さんさ踊りの練習風景、盛岡の古い町並みで湧水を汲む人々。
岩手部分だけでも、これなのだ。
おそらくは、北東北以外の地域で多く放送されているのだろうが、
むしろ、住んでいる地域の人々にこそ、見せて欲しいCMである。
もう一つ、これも同社だが、
発足20周年を迎えたJR東日本の、新幹線キャンペーンCMで。
これはもう、一億総「鉄ちゃん化」を図らんとする野望としか思えない映像美。(笑)
CMソングとなっているケツメイシの「トレイン」は、
このCMのために創作したかのような、叙情的な作風。
これ、いつどこで放送されてるんでしょうか?
一方で、これもまた驚いたのだが、あの「岩手競馬」のCMが、
岩手県以外の県で放送されていた。
意気込みは分かるけど、いまそんなところに予算を投じている状況なんだろうか・・・まずは地固めをしてはどうですか。
ご参考:「JR東日本 TVCMギャラリー」
2007.07.13
足立区のテスト
東京の足立区で、事実上、学校ごとの予算配分を決定する「学力テスト」に不正があったという。
学校間格差の是正に、競争原理を応用した結果ではあるが、ここには「運用面の課題」が立ちはだかっているということだろう。
どう考えたって「全てが均質」になるはずがなく、学校ごとに「格差」が生まれるのは当然のことである。
しかも、その学校の中ですら序列が生まれるのは「個人差」なのだから、それを学校間で競わせることに無理がある。
だからこそ、理論上「永遠にこのテストは成立し続ける宿命」を背負っている。
テストの目的が「全体の向上」であれば、学校ごとに予算差を設ける必要などない。
しかしこの事業には、「強力なきっかけ」が必要で、それを掲げたために現場は混乱した。当然の帰結である。
要は、「格差を助長するためのテスト」なのである。
平均点の高い学校には予算が高くつく。
そこには生徒が集中しうるシステムが存在する。これが東京に見られる義務教育課程での公立学校選択のスタイル。
平均点の低い学校には人も寄り付かず、予算も低く抑えられる。
そういった学校は、世間の評判という尾びれ背びれがついて、落ちてゆく。
障碍者のテストを総計から外したことよりも、
外す事実を事前に保護者に伝えなかったことが「謝罪理由」に強調されるのは何なのか?
次長がもしも担任の教師だったら、「お宅のお子さんは障碍者なので採点から外します」なんてとても真顔では言えないが。
区が何を目的にこのテストをやっているのか、最終的な落としどころがオモテには見えないのである。
上級学校への進学率向上を目的とするなら、それを前提に告知すればいい。
区全体に活力を与えるためなら、学校間で競争をさせるのではなく他区との競争を念頭に置くべきだ。
それが出来ないのは、区が抱える所得問題に絡んでいるのだろう。
しかし、ならば尚更、所得の落ち込みが教育に及ぼす影響を考慮せず、一方的に学校間所得格差を設定するのはどうなんだろうか。
このように、政府のお膝元である東京でも、所得と教育、機会の不均衡は顕著だ。
そもそも、昨今の都会が「明確な階層社会」に向かっているのは既に明白だが、
それでも自治体としては富裕なので、予算を盾に学校を動かせるのは特徴的である。
地方へいくと、予算自体がそんなところに活用できない実情があって、
さらに情報力の差が一段と際立って、将来、この格差は絶望的なものになると思う。
生まれもっての財産が教育と環境として次世代へ継承され、
持たざるものの固定化、という方向性は既定路線になりつつある。
高齢者しかいない地方に外国人労働者によるデイケアサービス、という動きが目に見えている。
そこで一番世の中からあぶれていくのは、教育機会の低い地方の貧困層の子弟である。
都内でテストの平均点をいじったいじらないと騒ぐのは、豊かさと平和が為せる業。
個性の伸長と唱えてみても、結局は同じ尺度で均質に学力を伸ばすことが是とされる。
「ゆとり教育」は、「究極の愚民政策」だったのかも知れない。
この結果は、所得や最低賃金の低い地域へのしわ寄せとなって、
情報や知識に敏いはずの都会の中で、特定地域の限られた人だけが
「(いわゆる)勝ち組」になっていることを露呈させたのではないか。
それにしても、人生を勝ち負けで計るなんて、退廃も甚だしい国・・・。
学校間格差の是正に、競争原理を応用した結果ではあるが、ここには「運用面の課題」が立ちはだかっているということだろう。
どう考えたって「全てが均質」になるはずがなく、学校ごとに「格差」が生まれるのは当然のことである。
しかも、その学校の中ですら序列が生まれるのは「個人差」なのだから、それを学校間で競わせることに無理がある。
だからこそ、理論上「永遠にこのテストは成立し続ける宿命」を背負っている。
テストの目的が「全体の向上」であれば、学校ごとに予算差を設ける必要などない。
しかしこの事業には、「強力なきっかけ」が必要で、それを掲げたために現場は混乱した。当然の帰結である。
要は、「格差を助長するためのテスト」なのである。
平均点の高い学校には予算が高くつく。
そこには生徒が集中しうるシステムが存在する。これが東京に見られる義務教育課程での公立学校選択のスタイル。
平均点の低い学校には人も寄り付かず、予算も低く抑えられる。
そういった学校は、世間の評判という尾びれ背びれがついて、落ちてゆく。
障碍者のテストを総計から外したことよりも、
外す事実を事前に保護者に伝えなかったことが「謝罪理由」に強調されるのは何なのか?
次長がもしも担任の教師だったら、「お宅のお子さんは障碍者なので採点から外します」なんてとても真顔では言えないが。
区が何を目的にこのテストをやっているのか、最終的な落としどころがオモテには見えないのである。
上級学校への進学率向上を目的とするなら、それを前提に告知すればいい。
区全体に活力を与えるためなら、学校間で競争をさせるのではなく他区との競争を念頭に置くべきだ。
それが出来ないのは、区が抱える所得問題に絡んでいるのだろう。
しかし、ならば尚更、所得の落ち込みが教育に及ぼす影響を考慮せず、一方的に学校間所得格差を設定するのはどうなんだろうか。
このように、政府のお膝元である東京でも、所得と教育、機会の不均衡は顕著だ。
そもそも、昨今の都会が「明確な階層社会」に向かっているのは既に明白だが、
それでも自治体としては富裕なので、予算を盾に学校を動かせるのは特徴的である。
地方へいくと、予算自体がそんなところに活用できない実情があって、
さらに情報力の差が一段と際立って、将来、この格差は絶望的なものになると思う。
生まれもっての財産が教育と環境として次世代へ継承され、
持たざるものの固定化、という方向性は既定路線になりつつある。
高齢者しかいない地方に外国人労働者によるデイケアサービス、という動きが目に見えている。
そこで一番世の中からあぶれていくのは、教育機会の低い地方の貧困層の子弟である。
都内でテストの平均点をいじったいじらないと騒ぐのは、豊かさと平和が為せる業。
個性の伸長と唱えてみても、結局は同じ尺度で均質に学力を伸ばすことが是とされる。
「ゆとり教育」は、「究極の愚民政策」だったのかも知れない。
この結果は、所得や最低賃金の低い地域へのしわ寄せとなって、
情報や知識に敏いはずの都会の中で、特定地域の限られた人だけが
「(いわゆる)勝ち組」になっていることを露呈させたのではないか。
それにしても、人生を勝ち負けで計るなんて、退廃も甚だしい国・・・。
2007.07.07
ゴミ住む街
近頃、とみに目に付くのが、町中のゴミである。
かつて、これだけのゴミがあっただろうか。
何がどう変わったのか、これは実は、大きな話である。
目を凝らせば、ブロック塀の辺りにちらほらと、
日陰になった場所に、短くなったタバコの吸い殻が点在する。
川岸をよく見れば、ペットボトルが散乱する光景も珍しくなくなった。
いわゆる「コンビニ袋」が、丸めて捨てられているのもよくある。
こうしたゴミを、かつては拾っている人がいたから目立たなかったのか。
あるいは単に、捨てるような人間が増えているというのか。
増えるとすれば、人が年を取って突如ポイ捨てに走るとは思えないので、若年層なのだろうか。
先日、ワゴン車から紙切れが飛び出してきて、
何事かと思ったら、車からのポイ捨てなのだった。
どんな人間かと思って見ると、観光客と思われる若者で、
関西の地味目な県のナンバーを背負っていた。
近頃ではついぞその言葉を聞くことも無いが、
「旅の恥はかき捨て」とばかりに、恥を恥と思わない人間がいる。
こうした人間が実際には居る事を、想定のうちに入れなければなるまい。
連続テレビ小説「どんど晴れ」の放映効果、
「平泉世界遺産登録」を見越した観光振興、
JRと県が打ち出す「北東北ディスティネーションキャンペーン」など、
今年の岩手県は、言わば「乗っている年」ではある。
お客人を悪く言うつもりは毛頭ないが、
人が回遊するということは、そこに何らかの「異文化摩擦」が起きることは、容易に想定できること。
ただただ思い出したように「おもてなしの心」を訴求しただけでは、問題は解決しない。
人を迎える心構えの中には、「警戒心」という免疫も必要なのである。
内ばかりを見ていると外を見ない。
外ばかり見始めると、足元が見えなくなる。
頭上にハンギングバスケットを掲げながら、
ゴミの散らばる街であってはいけないと思う。
かつて、これだけのゴミがあっただろうか。
何がどう変わったのか、これは実は、大きな話である。
目を凝らせば、ブロック塀の辺りにちらほらと、
日陰になった場所に、短くなったタバコの吸い殻が点在する。
川岸をよく見れば、ペットボトルが散乱する光景も珍しくなくなった。
いわゆる「コンビニ袋」が、丸めて捨てられているのもよくある。
こうしたゴミを、かつては拾っている人がいたから目立たなかったのか。
あるいは単に、捨てるような人間が増えているというのか。
増えるとすれば、人が年を取って突如ポイ捨てに走るとは思えないので、若年層なのだろうか。
先日、ワゴン車から紙切れが飛び出してきて、
何事かと思ったら、車からのポイ捨てなのだった。
どんな人間かと思って見ると、観光客と思われる若者で、
関西の地味目な県のナンバーを背負っていた。
近頃ではついぞその言葉を聞くことも無いが、
「旅の恥はかき捨て」とばかりに、恥を恥と思わない人間がいる。
こうした人間が実際には居る事を、想定のうちに入れなければなるまい。
連続テレビ小説「どんど晴れ」の放映効果、
「平泉世界遺産登録」を見越した観光振興、
JRと県が打ち出す「北東北ディスティネーションキャンペーン」など、
今年の岩手県は、言わば「乗っている年」ではある。
お客人を悪く言うつもりは毛頭ないが、
人が回遊するということは、そこに何らかの「異文化摩擦」が起きることは、容易に想定できること。
ただただ思い出したように「おもてなしの心」を訴求しただけでは、問題は解決しない。
人を迎える心構えの中には、「警戒心」という免疫も必要なのである。
内ばかりを見ていると外を見ない。
外ばかり見始めると、足元が見えなくなる。
頭上にハンギングバスケットを掲げながら、
ゴミの散らばる街であってはいけないと思う。
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