ファストフードが、好きだった。

メタボだ何だと世間は喧しいが、好きなものを食べない生活は不健康。
が、さすがにいい年こいた大人が、
ハンバーガーに齧り付いてる姿というのも、決して美しいものではない。

特に、田舎のファストフード店というのは、若者の溜まり場。
どこからともなく、若者たちがやってきて、
一様に駄弁っていたり、大騒ぎである。
が、それはそれで、微笑ましいのだ。

しかし、ここに長時間いられるずうずうしさは、まだ無い。
もっぱら、ドライブスルーやテイクアウトだが、
癖になるから子供には与えないでくれと懇願される日々。

そんな中でも、マック、モス、フレッシュネス、ロッテリアと、
それぞれに住み分けは出来ている。
今日は、この中でも大人が寛げる雰囲気をもった、某所で起きた出来事を。

その店は、愛想のいい店員が多い。
うっかり知人に出会うことの無いよう、窓側の席を避けて座る。
ガラス越しの挨拶と言うのは、なかなか気まずいものだ。

テーブルを一つ隔てたその先に、学生と思しき女二人。
テンションが高いのではなく、声がでかい。
今どき珍しいくらいに短いスカートを穿いて、
これでもかと言わんばかりに、足を組む。
睫毛は重たそうにバサバサと開閉し、
食らいつくように向かいの女に話しかける。
どうやら彼女らは同級生で、向かいの子が東京から帰省しているらしい。

地元女「バサバサ」がマシンガン宜しく打ち放つのは、
ここでは書けないくらいの、破廉恥トーク・・・。
真昼の公共空間とは思えないその内容に、仰け反る。
「東京ってサー、やっぱ人口多いからイケメン多いのぉ?」

似非東京弁でだらしなく話すあの状況は、
どう聞いても「都会の女」を意識した、勘違い女。
対して向かいの彼女は、至極冷静で、そのギャップがおかしい。

こうした光景は、この季節特有のものかも知れない。

映画館でのこと。
「うっわー、ちっちゃい映画館かーん!」
場違いこの上ない大声で、まずは映画館の感想から述べる勘違い女。
ひょっとして、この人は「単館系」とか「シネコン」とか知らないんじゃなかろうか。
「こないだ町田の映画館でサー」と、これもまた明らかな「帰省客」のスメルがした。
町田の映画館も結構だが、渋谷とか新宿の「ちっちゃい映画館」を観て勉強した方がいいよ、本当。

映画の最中、いちいち感想や同意を求めている彼女に、
またがっかり。
田舎にいる友達に「東京で変わった自分」をアピールしたいみたいだが、
このマナーの悪さでは、都会でもさぞや煙たがられていることだろう。

地元の学生らが楽しげに話しているファストフード店から一転、
のみならず、映画館でも「珍客」が増え、大変迷惑している。
彼女らは、一様に盛岡訛りの東京弁なので、帰省客であることは明白なのだが。

ファストフードが好きだった。
が、学生が夏休みで帰省している今、
着実にそうした店からは、足が遠のいている。

こんな状況を、「都会は怖いところだ」と親は見るのか?
2007.09.16 売れない理由
これは例え話ではなく、実話である。

全国にあまねくチェーンを広げる、とある店。
そこの店長クラスがこうつぶやいた。

「なんで盛岡じゃ売れないんだ!?」

これまで到る所で、同じように売れていたものが、盛岡ではなぜか売れない。
それが、これまでやってきた自分のキャリアを否定されているようで、面白くないらしい。

この人は、商売人としては失格である。

所得水準の違いとか、立地の違いとか、
分析とまでは言えない様な、底浅い推論を持ち出して、
自己正当化しようとするのでは、まるでダメ。

全国で売れているとは言うが、
「全国で」という基準が、単に彼のこれまでの任地であるということにも自身、気づいていない。

彼は、「日本は全て均質」という幻想の中に生きているのだ。

例えば、盛岡と同じ人口規模の町を持ち出して、
「あそこで売れているのにここで売れないのはおかしい」と説く。
その土地の年齢分布とか、マイカー利用率の違いとかは、頭に無い。
「ここだけ特別に他と違うはずが無い」と言うが、
限られた任地の中での一都市なんて、違う可能性は十分あるだろう。

西日本で培われた経験が、東日本で生きない現実。
そう言ってしまえば簡単なのだが、言っても分からないであろう雰囲気なので、止めた。
全てとは言わないが、あの「ガツガツうるさい感じ」は、東日本では喜ばれないのに。
「あれもつけまっせ、これもつけまっせ!」ではなく、
単に「安く珍しく面倒臭くなく」しないと、盛岡で物は売れません。(笑)

それにしても、生まれ育った環境や思い込みと言うのは、
なかなか変えられないものである。
「よかれ」と思ってやっていることが、相手に受け入れられていないことに時間が掛かる。
こういうところでも、客観的な視点と言うのが、大切なようです。

過去の実績を「武勇伝」よろしく声高に言う人がいるけど、
この二十年で、どれだけ地域と時代が変わったのか、
見極めないと、とても看板だけでは成り立ちませんよねぇ。

売れない理由が自分にあるとは、よもや思っていない人。
売ろうと我流を通すほどに、売れなくなってゆくスパイラル。

かつて全国均質化を進めたチェーン店・コンビニこそ、
ピンポイントで地域性を重視した店が増えていますね。


2007.09.10 すみません
次長が子供の頃、周囲の大人たちがしきりにこういうのを聞いた。

「東京じゃ、ぶつかって謝りもしない」

それは随分と、雑然として騒々しい、
人と人の間を潜り抜けていくような混雑なのだな、と想像した。

もっとも、田舎じゃ人が少ないから、
人同士がぶつかるなんてそもそもありゃしないわけで、
仮にあったとしても、まぁ何らかのアクションはして然るべきなのだった。

大きくなって、次長は東京の学校に進学した。
上京したての次長はよほどドン臭かったのか、やたらと人にぶつかった。
でも、かつて大人たちが言っているように、
「謝りもしない」なんてことは無かった。
皆、一言「すみません」だったり「失礼!」といい、
「ごめんなさい」「失敬」なんて聞くと、
「やっぱり都会って違うな」なんて思ったものだった。

相手がどこの誰だか分からない以上、
危険回避のためにも、咄嗟の一言が出てくるのかも知れない。
あれから、だいぶ年月は経過した。

故郷に戻って思うことは、
「盛岡じゃ、ぶつかって謝りもしない」ことである。
こちらが「すみません」と言っても、平然としている。
何も言わないどころか、相手は不服そうだ。
恥ずかしいとか無口だとか言うより、そうい言うことが田舎臭いとでも思っているのだろうか。

「すみません」には、謝罪の意図よりはむしろ、
「人間関係の円滑さ」を進める潤滑油のような効果がある。

一言言えば済むことを、田舎の人間は言わない。
だからこそ、そこで人間関係が陰湿になる。
バカ正直で言葉を飾らないから、誤解も招く。
一方で、それを「裏の無い天真爛漫さ」と評価する向きもある。

逆に言えば、都会人は思っていなくても言って、その場を和ませる。
これを「心にも無いのに」と言えばそれまでだが、
そうした話術がお互いの尊重という共通認識となれば、粋になる。

いずれが良いのか、これは価値観の問題だが、
「すみません」と言って、損をした気分にさせられるのは御免だ。
何も言わずに頷かれるのも、結構気分を害するものである。

ところで、かつて都会の人が謝らなかったのはなぜなのか。
おそらく「謝らなかった人」は田舎からの上京者で、
都会人を演じるのに懸命だったのだろうと思う。
昔の話だから、「訛り」の心配だってあったろう。

道を訊くのは恥ずかしいことだと思って上京したが、
大きな声で道を訊くのが都会人、知らなくても知ったふりをして訊かないのが田舎者だった。

都会人の素直さと実直さには、見習うべきところがある。