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2007.12.31
コンプレックス
誰しも、コンプレックスがある。
・・・のだと思いたい。
次長、コンプレックスの塊である。
世の中には、大変に恵まれた境遇に生まれた人が居るし、
それが本人の自認する所であれば、到底その自信には勝てない。
別に勝ち負けじゃないんだけれど、自信に満ちているその根拠が、
客観的にも明確だったりすると、二の足を踏んでしまうチキンである。
よく物を知っていて、それを広く伝える能力を持つ人は、幸いである。
よい環境、よい教育、よい性格、よい収入、
「よりよい」を追求すると、限りないことは分かっているのだが。
コンプレックスというのは、人によって様々である。
人が攻撃的になるのは、時に相手のコンプレックスを推し量れないときである。
そういう時、まずは相手の才能を認めてあげることが最良だ。
「東北コンプレックス」が、今も世の中には存在する。
それは例えば、北関東に接した東北地方の福島県が、
「事実上の北関東」を自称し始めたりすること。
または福島県に接する栃木県が、
「東北線」を「宇都宮線」と呼び変えたりすること。
長らく後進地帯とされた東北に対する意識は、もとより教育による影響が大きい。
何しろ、「征伐」の対象地域だったと教科書が教えているのである。
とかく教科書問題といえば隣国との関係が問われる傾向にあるが、
同じ国の中で「討伐」「征夷」と教えられる地域の不幸に言上げないのは、
東北人に対する「教育の成果」である。
教育と言うのは、本当に恐ろしいものだと思う。
戊辰戦争を経て「賊軍」と呼ばれた東北諸藩に対して、
明治以後、好意的な史観教育が為されたとはいい難い。
そして一方、今では考えられないほどの「言葉の壁」が存在した。
かつて地方出身者が上京すると言うのは、
非常に難しい話だったのかと、感じる瞬間があった。
それは、「東北コンプレックス」を根強く抱く人との出会いである。
彼が東京でどれだけ艱難辛苦の道を歩んだのか知らないが、
とにかく東北出身であることを隠し続けたという。
それは「損をするから」の一言で片付けられた。
反応が遅い、言葉にするのを億劫がる、訛りが邪魔をする。
昭和生まれでこの状況ならば、いわゆる「偉大な先人」らはどうだったのでしょうね?
と問うたら、「優秀な人は違うんだ、頭のデキが」と返答。
要は、個人的なレベルの話じゃないのか、と次長は思ったがとても言えなかった。
その人は、自分の才能について甚く自負を持っているようだった。
しかし、それが悉く「東北出身であること」を理由に跳ね除けられたと言う論調であった。
いや、それはどうなんだ・・・?
彼には、本当に才能があったのかもしれない。
が、それを語るときの口調はひどく威圧的で、正直、印象が悪い。
仮に優れた才能があっても、それを言葉にすることが不得意であれば、
世は人を認めないという結論がここにはある。きっと。
先般、小沢一郎氏が「東北人だから口下手」と発言して論議を巻き起こしたが、
彼の時代では確かにそんな認識があったのかもしれない。
ところが報道の論調は、むしろそれを根拠の知れないものとしておもしろおかしく、
「寒いから口を開けないというのは本当か」と実験までしてみせる始末。
もはや、東北人が口下手という意識は薄まっているのだろう。
関西あたりだと、まだ違うような気がするが。
いくら努力を自慢されても、
世に出るかもしれなかった可能性を振り返られても、
それを遮る理由が「東北出身だから」という口上は、どう聞いても「逃げ口上」であった。
かつて東北地方をコンプレックスに思った人は居ただろうが、
それは正当な評価でもなければ、納得できる筋道のある話では無い。
選択肢の少ない不幸、経済格差がもたらす不利は、確かにある。
しかし、「東北だから」という理由は、あまりにも荒唐無稽だ。
さらに彼は続ける。
自立的な青森、享楽的な秋田、先取的な宮城、
その狭間にあって身動きの取れない岩手、と。
当たらずとも遠からじ、だが、
全国区で虐げられる東北像、さらにその東北の中でひきこもる岩手像、と
まさに「自虐観」この上ない。
まったく、どうしたもんだこの人!
さらに困ったのは、「でも俺は絶対に違う」と「脱東北宣言」。
強かにずる賢く生きていると、強烈な「俺万歳」発言。
こういう人がいるのか、と狭い世界に小宇宙を見出した思い。(笑)
肩肘を張らずに生きてくださいよ、もういい年なんだから。
コンプレックスを抱えると、時に攻撃的になることを知った次長。
人のふり見て我がふり直せ、である。
・・・のだと思いたい。
次長、コンプレックスの塊である。
世の中には、大変に恵まれた境遇に生まれた人が居るし、
それが本人の自認する所であれば、到底その自信には勝てない。
別に勝ち負けじゃないんだけれど、自信に満ちているその根拠が、
客観的にも明確だったりすると、二の足を踏んでしまうチキンである。
よく物を知っていて、それを広く伝える能力を持つ人は、幸いである。
よい環境、よい教育、よい性格、よい収入、
「よりよい」を追求すると、限りないことは分かっているのだが。
コンプレックスというのは、人によって様々である。
人が攻撃的になるのは、時に相手のコンプレックスを推し量れないときである。
そういう時、まずは相手の才能を認めてあげることが最良だ。
「東北コンプレックス」が、今も世の中には存在する。
それは例えば、北関東に接した東北地方の福島県が、
「事実上の北関東」を自称し始めたりすること。
または福島県に接する栃木県が、
「東北線」を「宇都宮線」と呼び変えたりすること。
長らく後進地帯とされた東北に対する意識は、もとより教育による影響が大きい。
何しろ、「征伐」の対象地域だったと教科書が教えているのである。
とかく教科書問題といえば隣国との関係が問われる傾向にあるが、
同じ国の中で「討伐」「征夷」と教えられる地域の不幸に言上げないのは、
東北人に対する「教育の成果」である。
教育と言うのは、本当に恐ろしいものだと思う。
戊辰戦争を経て「賊軍」と呼ばれた東北諸藩に対して、
明治以後、好意的な史観教育が為されたとはいい難い。
そして一方、今では考えられないほどの「言葉の壁」が存在した。
かつて地方出身者が上京すると言うのは、
非常に難しい話だったのかと、感じる瞬間があった。
それは、「東北コンプレックス」を根強く抱く人との出会いである。
彼が東京でどれだけ艱難辛苦の道を歩んだのか知らないが、
とにかく東北出身であることを隠し続けたという。
それは「損をするから」の一言で片付けられた。
反応が遅い、言葉にするのを億劫がる、訛りが邪魔をする。
昭和生まれでこの状況ならば、いわゆる「偉大な先人」らはどうだったのでしょうね?
と問うたら、「優秀な人は違うんだ、頭のデキが」と返答。
要は、個人的なレベルの話じゃないのか、と次長は思ったがとても言えなかった。
その人は、自分の才能について甚く自負を持っているようだった。
しかし、それが悉く「東北出身であること」を理由に跳ね除けられたと言う論調であった。
いや、それはどうなんだ・・・?
彼には、本当に才能があったのかもしれない。
が、それを語るときの口調はひどく威圧的で、正直、印象が悪い。
仮に優れた才能があっても、それを言葉にすることが不得意であれば、
世は人を認めないという結論がここにはある。きっと。
先般、小沢一郎氏が「東北人だから口下手」と発言して論議を巻き起こしたが、
彼の時代では確かにそんな認識があったのかもしれない。
ところが報道の論調は、むしろそれを根拠の知れないものとしておもしろおかしく、
「寒いから口を開けないというのは本当か」と実験までしてみせる始末。
もはや、東北人が口下手という意識は薄まっているのだろう。
関西あたりだと、まだ違うような気がするが。
いくら努力を自慢されても、
世に出るかもしれなかった可能性を振り返られても、
それを遮る理由が「東北出身だから」という口上は、どう聞いても「逃げ口上」であった。
かつて東北地方をコンプレックスに思った人は居ただろうが、
それは正当な評価でもなければ、納得できる筋道のある話では無い。
選択肢の少ない不幸、経済格差がもたらす不利は、確かにある。
しかし、「東北だから」という理由は、あまりにも荒唐無稽だ。
さらに彼は続ける。
自立的な青森、享楽的な秋田、先取的な宮城、
その狭間にあって身動きの取れない岩手、と。
当たらずとも遠からじ、だが、
全国区で虐げられる東北像、さらにその東北の中でひきこもる岩手像、と
まさに「自虐観」この上ない。
まったく、どうしたもんだこの人!
さらに困ったのは、「でも俺は絶対に違う」と「脱東北宣言」。
強かにずる賢く生きていると、強烈な「俺万歳」発言。
こういう人がいるのか、と狭い世界に小宇宙を見出した思い。(笑)
肩肘を張らずに生きてくださいよ、もういい年なんだから。
コンプレックスを抱えると、時に攻撃的になることを知った次長。
人のふり見て我がふり直せ、である。
2007.12.30
KY
間もなく消え去ってゆく運命の言葉、「KY」。
「空気(KUUKI)の読め(YOME)ない人」の隠語、略語だそうである。
実際、流行ってるのかどうかも分からない。使ってる人にあったことがないから。
いかにも日本的な、軽薄短小ここに極まれり、といった印象である。
「その場の空気が読めない鈍感で気配りの無い奴」を、
さらに外来語のアルファベット2文字に凝縮する感覚。
ケータイ電話が年ごとにスリムになってゆく技術に、重ねてしまう。
そう言えば日本語には、「行間を読む」という表現があるけれど、
そのそも行間なんて「空白」でしかないわけだ。
そのままの意味で言えば、
「空白が読める」ということがすなわち「相手の心を察知する」という
至極日本「語」的な解釈になるのも、日本ならではである。
英語の発音が、LとRで厳密に分けられるように、
そこでは「文脈で悟る」なんてありえない話。
伝わる言葉そのままで、ストレートに意味が通じるから、
発音に厳密でない日本人の英語は、相手に伝わりにくいのである。
そんな「場」の空気で社会を動かす「和」の思想。
お互いが、牽制しあいながら生きてゆくという構造。
これこそが、均質という幻想の中にある日本の正体だ。
近頃、世間は「格差社会」と言う言葉を頻発する。
確かに、格差は開いている。
しかし、前から格差が無かったわけではない。
むしろ、近世は格差社会からスタートしていて、
なんとなく均質化したように見えたのが、昭和も後半の話である。
それでも各地、地域間の格差は激しい。
例えば、阪神間などは、同じ方向に向かって電車も高速道路も二本ずつ走っている。
次長には「無駄」にすら見えるほどだが、それほどまでに重要な地域と位置づけられているのだ。
要は、経済力の違いである。
かたや、新幹線がほしい、高速道がほしい、と陳情団を連ねる「地方」
全国があまねく豊かになる道のりは、遠い。
次長は高校生の頃、他人との経済的な差異を、あまり感じなかった。
しかし、中にはそれを如実に感じている人もいて、
「空気感の違い」を読み取っていたのだと後から知ることになる。
まぁ天真爛漫と言うか、世情に疎いと言う他ないのだが、
卒業していい大人になった今、同級生の繋がりを商売に活かしているような人は、
既に高校生の頃から、そうした空気を嗅ぎ取っていた傾向にあるようだ。
帝王学とは、こういうことなのかと思った。
大学へ進学する段になって初めて、
「所得格差」というものにぶち当たったわけだが、それでも楽観的であった。
それは次長が、今で言う「KY」だったからだろう。
親の経済的努力もほとんど見えていなかったから、ホントにKYなのである。
今でも思うが、本当に世間ずれしていない純真無垢な高校生だったな、と
我ながら不憫なほどである。決して誉め言葉ではない。(笑)
都会へ出れば、親の勧めでサラッと留学しているような人はごまんと居た。
逆に、高校時代の留学経験を問われたりして、答えに窮したこともある。
出るとこへ出れば、格差なんていくらでもあるし過去にもあった。
努力が評価されるのではなく、環境が評価されるのだな、と悟った場面もある。
それは、「就職試験」を受けた日のことだ。
世間に揉まれて、今では過剰なまでに空気を読むような大人に成り果てた。
外国語を使う場面も、もうほとんど無い。
それでも、こんな世の中になることを予見できたのは、
「スタートラインの平等」が決して実現し得ないのだと感じたあの日からだと思う。
やり直しも、逆転も敗者復活戦も無い「現代日本」。
日々、この国の行く末が心配だ。
「空気(KUUKI)の読め(YOME)ない人」の隠語、略語だそうである。
実際、流行ってるのかどうかも分からない。使ってる人にあったことがないから。
いかにも日本的な、軽薄短小ここに極まれり、といった印象である。
「その場の空気が読めない鈍感で気配りの無い奴」を、
さらに外来語のアルファベット2文字に凝縮する感覚。
ケータイ電話が年ごとにスリムになってゆく技術に、重ねてしまう。
そう言えば日本語には、「行間を読む」という表現があるけれど、
そのそも行間なんて「空白」でしかないわけだ。
そのままの意味で言えば、
「空白が読める」ということがすなわち「相手の心を察知する」という
至極日本「語」的な解釈になるのも、日本ならではである。
英語の発音が、LとRで厳密に分けられるように、
そこでは「文脈で悟る」なんてありえない話。
伝わる言葉そのままで、ストレートに意味が通じるから、
発音に厳密でない日本人の英語は、相手に伝わりにくいのである。
そんな「場」の空気で社会を動かす「和」の思想。
お互いが、牽制しあいながら生きてゆくという構造。
これこそが、均質という幻想の中にある日本の正体だ。
近頃、世間は「格差社会」と言う言葉を頻発する。
確かに、格差は開いている。
しかし、前から格差が無かったわけではない。
むしろ、近世は格差社会からスタートしていて、
なんとなく均質化したように見えたのが、昭和も後半の話である。
それでも各地、地域間の格差は激しい。
例えば、阪神間などは、同じ方向に向かって電車も高速道路も二本ずつ走っている。
次長には「無駄」にすら見えるほどだが、それほどまでに重要な地域と位置づけられているのだ。
要は、経済力の違いである。
かたや、新幹線がほしい、高速道がほしい、と陳情団を連ねる「地方」
全国があまねく豊かになる道のりは、遠い。
次長は高校生の頃、他人との経済的な差異を、あまり感じなかった。
しかし、中にはそれを如実に感じている人もいて、
「空気感の違い」を読み取っていたのだと後から知ることになる。
まぁ天真爛漫と言うか、世情に疎いと言う他ないのだが、
卒業していい大人になった今、同級生の繋がりを商売に活かしているような人は、
既に高校生の頃から、そうした空気を嗅ぎ取っていた傾向にあるようだ。
帝王学とは、こういうことなのかと思った。
大学へ進学する段になって初めて、
「所得格差」というものにぶち当たったわけだが、それでも楽観的であった。
それは次長が、今で言う「KY」だったからだろう。
親の経済的努力もほとんど見えていなかったから、ホントにKYなのである。
今でも思うが、本当に世間ずれしていない純真無垢な高校生だったな、と
我ながら不憫なほどである。決して誉め言葉ではない。(笑)
都会へ出れば、親の勧めでサラッと留学しているような人はごまんと居た。
逆に、高校時代の留学経験を問われたりして、答えに窮したこともある。
出るとこへ出れば、格差なんていくらでもあるし過去にもあった。
努力が評価されるのではなく、環境が評価されるのだな、と悟った場面もある。
それは、「就職試験」を受けた日のことだ。
世間に揉まれて、今では過剰なまでに空気を読むような大人に成り果てた。
外国語を使う場面も、もうほとんど無い。
それでも、こんな世の中になることを予見できたのは、
「スタートラインの平等」が決して実現し得ないのだと感じたあの日からだと思う。
やり直しも、逆転も敗者復活戦も無い「現代日本」。
日々、この国の行く末が心配だ。
2007.12.25
マニュアルちゃん
マニュアル通りにしか対応できない人が、まだいる。
というより、マニュアル通りに対応しないと怒る人がいるから、か。
いや、マニュアル通りやらないと、隙を突いてクレームをつけてくる客が多いからだろう。
いずれにせよ、これはもう、いたちごっこだ。
近頃、民度の低い人間が多い。
相手の立場に立って考える、ってことが高等技能になっている。
これはもう、社会の疲弊としか言いようが無い。
どこかの記事の引用で恐縮だが(次長の経験ではない。人様の文章だった。)
「いじめられる人の立場に立って考えなさい」と先生が「いじめっ子」を嗜めたら、
「私ならいじめないでって言い返しますけどね」としたり顔で答える子がいるという。
自分がいじめておきながら、いじめるなと反論しない相手が悪いと言う論点のすり替え。
想定外も想定外、そんな子とその親と付き合わなきゃならない先生って、可哀想。
これは開き直りでもなければ、言いがかりでもない。
そもそも、善悪の基準が分かってないのである。
自分でものを考え決めているようで、その実、拠り所となる倫理観が無い。
「世界の中心で愛を叫ぶ」という映画があったが、
「世界の中心は私と叫んでいる」のである。
各々が生物学的に生存競争の中「俺中心主義」を貫き生きている中で、
それでも「社会性」というものを身につけながら、人は社会人になってゆく。
そうでなければ、人間みたいな厄介な生き物は生きながらえない。
結局、環境問題だってどこか曖昧で不徹底だし、
整合性を持たないことだらけだけれど、身近な人間関係は何とか保とうとする。
が、近頃は子もバカなら親もバカだから、
それをフォローする社会もまともになりきれない。
マニュアルに決まっているだろうこと以外についても、
ず〜っと、マニュアル調の喋り方を崩せない店員がいた。
もう、ここまで来ると不愉快を通り越しておもしろおかしく、
こちらも心の無い、普遍的なできごとを並べるしかなかった。
相手は既に、想定外の質問や意見を受け入れるふうではなかったから。
まるでデパートの店内アナウンスみたいな口調としばし付き合って、
ぐったりしながら外へ出た。
相手に求められてるだろう言葉を紡ぐのって、相当気力が要る。
むしろ携帯電話のお店みたいな、
「マニュアルを説明してくれるお店」の人のほうが、
よほど温かい表情と対応で出迎えてくれますよ。
というより、マニュアル通りに対応しないと怒る人がいるから、か。
いや、マニュアル通りやらないと、隙を突いてクレームをつけてくる客が多いからだろう。
いずれにせよ、これはもう、いたちごっこだ。
近頃、民度の低い人間が多い。
相手の立場に立って考える、ってことが高等技能になっている。
これはもう、社会の疲弊としか言いようが無い。
どこかの記事の引用で恐縮だが(次長の経験ではない。人様の文章だった。)
「いじめられる人の立場に立って考えなさい」と先生が「いじめっ子」を嗜めたら、
「私ならいじめないでって言い返しますけどね」としたり顔で答える子がいるという。
自分がいじめておきながら、いじめるなと反論しない相手が悪いと言う論点のすり替え。
想定外も想定外、そんな子とその親と付き合わなきゃならない先生って、可哀想。
これは開き直りでもなければ、言いがかりでもない。
そもそも、善悪の基準が分かってないのである。
自分でものを考え決めているようで、その実、拠り所となる倫理観が無い。
「世界の中心で愛を叫ぶ」という映画があったが、
「世界の中心は私と叫んでいる」のである。
各々が生物学的に生存競争の中「俺中心主義」を貫き生きている中で、
それでも「社会性」というものを身につけながら、人は社会人になってゆく。
そうでなければ、人間みたいな厄介な生き物は生きながらえない。
結局、環境問題だってどこか曖昧で不徹底だし、
整合性を持たないことだらけだけれど、身近な人間関係は何とか保とうとする。
が、近頃は子もバカなら親もバカだから、
それをフォローする社会もまともになりきれない。
マニュアルに決まっているだろうこと以外についても、
ず〜っと、マニュアル調の喋り方を崩せない店員がいた。
もう、ここまで来ると不愉快を通り越しておもしろおかしく、
こちらも心の無い、普遍的なできごとを並べるしかなかった。
相手は既に、想定外の質問や意見を受け入れるふうではなかったから。
まるでデパートの店内アナウンスみたいな口調としばし付き合って、
ぐったりしながら外へ出た。
相手に求められてるだろう言葉を紡ぐのって、相当気力が要る。
むしろ携帯電話のお店みたいな、
「マニュアルを説明してくれるお店」の人のほうが、
よほど温かい表情と対応で出迎えてくれますよ。
2007.12.23
浦嶋効果
近頃、政府首脳の間で話題だという「UFO」
まぁ未確認飛行物体なわけだから、
それが宇宙人の乗り物であろうが無かろうが、議論にならなかったことが国防上不思議なわけで。
そんな意味では、日本もまともに、そしてちょっと「面白く」なってきたと思う。
思えば、日本の昔話「かぐや姫」だって、
「光る竹」と暗示されたのは「生命維持装置」だとか、
「月に帰る」というのは「宇宙人の帰還」だとか、
そういう解釈だって十分あるわけだ。
「浦嶋太郎」だって、
「亀」は「円盤型UFO」だったかも知れないし、
「竜宮城から帰ってきたら数百年過ぎてた」なんて
まさに相対性理論の世界。
で、この「場所の状況によって時間の速度が違う」という効果を
実際に「ウラシマ効果」と呼ぶのだそうだ。
ウラシマ効果では無いと思うが、
年を重ねるたびに年末の来るのが早いような気がする症状(笑)とか、
田舎と都会の時間軸が大幅に違うこととか、
これもなべて「ウラシマ効果」と読んでしまいたい心境である。
東京の年末も、
ミレナリオかと思ってたら、今は日比谷公園で「ファンタシア」だとか。
「丸ビル」かと思えば「新丸ビル」だし、丸ビルだって新しいから新丸ビルじゃないか
なんてつまんないこと言ってる間に、「国立新美術館」なんてこれまた芸の無い名前の美術館が誕生。
実際、東京は景気がいいんだろうかね。
インターネットが普及したとはいえ、
こんな東京の新しい話題は「友人知人仕事仲間」を介してのメールや電話。
そして申し訳程度のテレビ。
田舎のテレビ・・・役に立たないかも。
もっと驚くのが、あの「ドン・キホーテ」が東北に進出していたこと。
しかも、首都圏に接した福島はともかく、宮城と青森に!
岩手県に隣接してて、そういう情報が全く入って来ないんだよね。
別にドンキで買い物したいわけじゃないんだけど、
そういう事実を知る環境にないってことに、びっくり。
しかも東北新幹線沿線で、なぜか岩手を省いて三県に。
また岩手か!
まぁ未確認飛行物体なわけだから、
それが宇宙人の乗り物であろうが無かろうが、議論にならなかったことが国防上不思議なわけで。
そんな意味では、日本もまともに、そしてちょっと「面白く」なってきたと思う。
思えば、日本の昔話「かぐや姫」だって、
「光る竹」と暗示されたのは「生命維持装置」だとか、
「月に帰る」というのは「宇宙人の帰還」だとか、
そういう解釈だって十分あるわけだ。
「浦嶋太郎」だって、
「亀」は「円盤型UFO」だったかも知れないし、
「竜宮城から帰ってきたら数百年過ぎてた」なんて
まさに相対性理論の世界。
で、この「場所の状況によって時間の速度が違う」という効果を
実際に「ウラシマ効果」と呼ぶのだそうだ。
ウラシマ効果では無いと思うが、
年を重ねるたびに年末の来るのが早いような気がする症状(笑)とか、
田舎と都会の時間軸が大幅に違うこととか、
これもなべて「ウラシマ効果」と読んでしまいたい心境である。
東京の年末も、
ミレナリオかと思ってたら、今は日比谷公園で「ファンタシア」だとか。
「丸ビル」かと思えば「新丸ビル」だし、丸ビルだって新しいから新丸ビルじゃないか
なんてつまんないこと言ってる間に、「国立新美術館」なんてこれまた芸の無い名前の美術館が誕生。
実際、東京は景気がいいんだろうかね。
インターネットが普及したとはいえ、
こんな東京の新しい話題は「友人知人仕事仲間」を介してのメールや電話。
そして申し訳程度のテレビ。
田舎のテレビ・・・役に立たないかも。
もっと驚くのが、あの「ドン・キホーテ」が東北に進出していたこと。
しかも、首都圏に接した福島はともかく、宮城と青森に!
岩手県に隣接してて、そういう情報が全く入って来ないんだよね。
別にドンキで買い物したいわけじゃないんだけど、
そういう事実を知る環境にないってことに、びっくり。
しかも東北新幹線沿線で、なぜか岩手を省いて三県に。
また岩手か!
2007.12.22
馬返し
日光や富士山の裾野には、「馬返し」という場所がある。
これは、かつて馬での往来が当たり前だった頃の名残で、
これ以上は馬に乗って進めないという、そのままの意味を表す地勢を表している。
岩手山にも同様、この名の登山口があって、
往年の馬産地の記憶をかすかに留めている。
現在の岩手県は、馬産地としての歴史を脈々と存えていて、
「チャグチャグ馬コ」などの行事が守られているのもその流れである。
が、この「農耕馬」としての馬の歴史と、
「近代競馬」という馬のレース史との関わりが、
直結しているのかどうかという論には、終止符が無い。
今般、「赤字になれば終了」とされた、事実上の「岩手県営競馬」が、
盟主である岩手県知事によって、継続を宣言された。
これは、当初目された方向性とは180度の転換と言ってもいい。
理由は、「黒字基調となる見込み」が発生したからだそうだ。
しかし、忘れないで欲しい。
ここまでの道のりに、岩手県・盛岡市・奥州市という
「岩手で最も大きな経営体」が、数百億円の出資をしているのである。
しかもこのために、県民市民の貯金は底を突いたといっていい。
公共団体が公共財を使って、大博打に出たといって過言ではないだろう。
それが無ければ、収支の均衡すらままならない団体が、
今後黒字転調して、出資者にいかほど返済をしてくれるのか。
「岩手で最も大きな経営体」でありながら、赤貧に近い自治体それぞれが、
借金返済をしてもらえる見込みなど、無い。
なぜならこれは、「出資」という名の「ギャンブル」だからだ。
岩手という土地の持つ空気感が、馬への仕打ちを許さない雰囲気にある。
農産県であり、特に畜産県である岩手。
もとより競馬は馬本位ではなく人本意なのだが、馬が関わる瞬間から事態は硬直する。
まさに馬は特別で、神なのだ。
神だからこそ、不可侵である。
そんな心情に左右されているとしか思えない、岩手競馬の継続宣言。
走り抜ける馬は確かに美しく、そこにはロマンがある。
しかし、ロマンのために蓄財を放出するような気質は、岩手県民には無いはずである。
ときにお隣の仙台市の梅原市長は、
杜の都の景観を崩す「ケヤキ並木伐採の意向」に対して
「ケヤキの精が伐らないでと語りかけてきた」と、
ケヤキの古木50本の移植に1億5千万円かけて賛否が分かれたそうである。
幼い頃から親しんだ古木への愛情が、
他の移植した古木には代え難い、という心情の吐露だと思う。
一部には「ダイジョウブ?」という意見もあったようだが、
むしろWEB上で批判的な扱いが多いのが意外なほどである。
・・・だって、普通に例え話でしょ。(笑)
まさにこれも「ロマン」であって「ケヤキの神格化」なわけだが、
「政令指定都市の神」が「1億5千万」で、
「県と二大都市」がかりの神がかりが「数百億円」とは、
あまりにその「祭祀料」の違いに驚くばかりである。
「座敷わらし」とか「遠野物語」の、
アニミズムとかシャーマニズムの生きる岩手県。
それを現代に具現化するのは、他でもなく「岩手競馬」ということなのか。
これは、かつて馬での往来が当たり前だった頃の名残で、
これ以上は馬に乗って進めないという、そのままの意味を表す地勢を表している。
岩手山にも同様、この名の登山口があって、
往年の馬産地の記憶をかすかに留めている。
現在の岩手県は、馬産地としての歴史を脈々と存えていて、
「チャグチャグ馬コ」などの行事が守られているのもその流れである。
が、この「農耕馬」としての馬の歴史と、
「近代競馬」という馬のレース史との関わりが、
直結しているのかどうかという論には、終止符が無い。
今般、「赤字になれば終了」とされた、事実上の「岩手県営競馬」が、
盟主である岩手県知事によって、継続を宣言された。
これは、当初目された方向性とは180度の転換と言ってもいい。
理由は、「黒字基調となる見込み」が発生したからだそうだ。
しかし、忘れないで欲しい。
ここまでの道のりに、岩手県・盛岡市・奥州市という
「岩手で最も大きな経営体」が、数百億円の出資をしているのである。
しかもこのために、県民市民の貯金は底を突いたといっていい。
公共団体が公共財を使って、大博打に出たといって過言ではないだろう。
それが無ければ、収支の均衡すらままならない団体が、
今後黒字転調して、出資者にいかほど返済をしてくれるのか。
「岩手で最も大きな経営体」でありながら、赤貧に近い自治体それぞれが、
借金返済をしてもらえる見込みなど、無い。
なぜならこれは、「出資」という名の「ギャンブル」だからだ。
岩手という土地の持つ空気感が、馬への仕打ちを許さない雰囲気にある。
農産県であり、特に畜産県である岩手。
もとより競馬は馬本位ではなく人本意なのだが、馬が関わる瞬間から事態は硬直する。
まさに馬は特別で、神なのだ。
神だからこそ、不可侵である。
そんな心情に左右されているとしか思えない、岩手競馬の継続宣言。
走り抜ける馬は確かに美しく、そこにはロマンがある。
しかし、ロマンのために蓄財を放出するような気質は、岩手県民には無いはずである。
ときにお隣の仙台市の梅原市長は、
杜の都の景観を崩す「ケヤキ並木伐採の意向」に対して
「ケヤキの精が伐らないでと語りかけてきた」と、
ケヤキの古木50本の移植に1億5千万円かけて賛否が分かれたそうである。
幼い頃から親しんだ古木への愛情が、
他の移植した古木には代え難い、という心情の吐露だと思う。
一部には「ダイジョウブ?」という意見もあったようだが、
むしろWEB上で批判的な扱いが多いのが意外なほどである。
・・・だって、普通に例え話でしょ。(笑)
まさにこれも「ロマン」であって「ケヤキの神格化」なわけだが、
「政令指定都市の神」が「1億5千万」で、
「県と二大都市」がかりの神がかりが「数百億円」とは、
あまりにその「祭祀料」の違いに驚くばかりである。
「座敷わらし」とか「遠野物語」の、
アニミズムとかシャーマニズムの生きる岩手県。
それを現代に具現化するのは、他でもなく「岩手競馬」ということなのか。
2007.12.21
エレベータで
盛岡市内、とある雑居ビルでの出来事である。
名だたる有名企業のブランチが看板を掲げるそのビルで、事件は起こった。
外気に隔たれた一階のロビーで一息。
エレベータの扉が開いて、次長ひとりが乗り込むと、
外からヒールと床のけたたましい摩擦音が響いて、その女性が突進して来た。
階数ボタンは次長の前にしかなかったので、
「何階ですか?」と言いかけて「な」の半分まで発するところで、
これまた凄い勢いで人差し指が飛んできた。
女性は終始、「バリキャリ(死語)」を自負しているような勢いで、
一切の笑顔なし。
困ったことに、その階数が、次長の行き先と同じだった・・・。
ばつの悪いこと、この上ない。
この路面凍結著しい盛岡の道を、ハイヒールで走ってくるんだから
間違いなく地元採用の女性なんだろうが、何が彼女をこうさせたのか。
しかもそのまま「バリキャリ(死語)」を演じていればいいのに、
次長のケータイ(マナーモード)が鳴動すると、凄い形相でこちらを睨む。
あの・・・もうほっといてください。(笑)
上層階に到着すると、彼女は会釈するでもなく、「どうも」と一言と言うでもなく、
当たり前のようにコツコツと音を立てて走り去った。
社会性の欠如なのか、己にうっとりなのか分からないが、
都会的な「バリキャリ(死語)」を演じている(ように見えた)彼女が、
とてつもなく田舎くさく見えて仕方なかった。
名だたる有名企業のブランチが看板を掲げるそのビルで、事件は起こった。
外気に隔たれた一階のロビーで一息。
エレベータの扉が開いて、次長ひとりが乗り込むと、
外からヒールと床のけたたましい摩擦音が響いて、その女性が突進して来た。
階数ボタンは次長の前にしかなかったので、
「何階ですか?」と言いかけて「な」の半分まで発するところで、
これまた凄い勢いで人差し指が飛んできた。
女性は終始、「バリキャリ(死語)」を自負しているような勢いで、
一切の笑顔なし。
困ったことに、その階数が、次長の行き先と同じだった・・・。
ばつの悪いこと、この上ない。
この路面凍結著しい盛岡の道を、ハイヒールで走ってくるんだから
間違いなく地元採用の女性なんだろうが、何が彼女をこうさせたのか。
しかもそのまま「バリキャリ(死語)」を演じていればいいのに、
次長のケータイ(マナーモード)が鳴動すると、凄い形相でこちらを睨む。
あの・・・もうほっといてください。(笑)
上層階に到着すると、彼女は会釈するでもなく、「どうも」と一言と言うでもなく、
当たり前のようにコツコツと音を立てて走り去った。
社会性の欠如なのか、己にうっとりなのか分からないが、
都会的な「バリキャリ(死語)」を演じている(ように見えた)彼女が、
とてつもなく田舎くさく見えて仕方なかった。
2007.12.16
MOTTAINAI
「MOTTAINAI」(もったいない)は、今や「世界語」なんだそうである。
確かに一時期、
「もぉった〜いなぁーい♪」という「もったいないソング」を、どこかで耳にしたことがある。
が、最近はそんな歌も話題も、どこかへ遠ざかっている。
大切なことも一過性に終わらせる今の日本らしい風潮だな、と思った。
環境分野で初の「ノーベル平和賞」を受賞したケニア人女性、
ワンガリ・マータイさんが、日本語の「もったいない」という言葉・語意に着想。
確かに、検索すると「もったいない」のウェブサイトが引っかかる。
ここでは既に、
「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」よろしく、
「もったいない−多神教思想を基調とする日本的感性−」ぐらいの、
世界遺産級価値が認められているということだろうか。極端に言えば。
何物にも神が宿っていて、米一粒たりとも無駄にはしない、
どんなものにも神霊が宿っていると信じる心。
新しいものには気が篭っていると信じ、尚且つ罪厄を払いのける祈りを込めるため、
新車丸ごと神域で囲ってお祓いを受けてしまう感性。
そんな「近頃随分と耳目にしない心」を、次長はこの言葉に感じる。
もったいないのは、貧しさゆえなのか。
あるいは、罰が当たるのを怖れてなのか。
いや、浪費と放棄を戒める道徳に基づいた、一種の美意識なのかも知れない。
ところで「神道」は、制度上は宗教法人ではあるが、
宗教ではないというのがその立場だと聞く。
確かに言われてみれば・・・書道・柔道・剣道・華道に連なる「美意識」を感じる瞬間はある。
国家神道はともかく、原初的な神道の在り方は、明らかに自然崇拝である。
自然に畏敬の念を抱くと言うことは、とどのつまりは「環境への意識」であり、
日本人があらゆる自然の産物に感謝をしてきた意識の残り火が「神道」なのだとすれば、
その言葉にも合点がいく。
世界で最も優れた日本の匠の結晶=クルマが、
古式ゆかしき神道の注連縄に囲われて祈りを捧げられる様を、
ぜひ多くの外国人に見せてあげたいと思う。
これが、一番日本らしい景色だと思うから。(笑)
ところが、今そういう人は大分少なくなった。
次長も、実はそんなご祈祷をお願いしたことは一度も無い。
昔なら、家の戸口はもちろん、クルマにすら松飾りをつけている人が多かった。
今じゃ、そういう人もずいぶん減ったが。
日本の伝統的風習が、形を変えて伝わっていく中で、
言葉の持つ意味や使われ方も、静かに変遷を遂げている。
例えばここ数年で見られるのが、「もったいないCM」
「○○じゃなきゃ、もったいない」という、アレ。
せっかくの楽しい機会を、この商品と楽しまなきゃもったいない。
世の中にはもっといい商品があるのに、そんな商品を使ってたんじゃ、もったいない。
つまり今の日本で言う「もったいない」は、むしろ
「贅沢を楽しまない貴方の生き方は惜しい」という訴求に変わっている。
豊かになるのは大変結構なことだが、
こういう思想のこもった用法が、テレビで多用されることに危機感を覚えないではない。
まして、比較広告とも取れるその内容が、和を尊ぶ日本社会に合っているのかという思いもある。
むしろ世界が着目する「もったいない」は、
「使える電気製品を捨てて最新家電に走る暮らし」を戒める方向だし、
嗜好品の選択基準に「うちの製品以外は満足に値しないからもったいない」と謳うのは、
何か違う気がする。
それを肯定するつもりも無いが、
「何かに使えるから捨てられない」と、ゴミ屋敷と呼ばれる家を温存する人々の意識こそが、
むしろ本義的な「もったいない」に近いのである。
時には古いクルマや家電が多くの燃費を要したりもするし、
もったいないの思想を意識するのは、非常に困難な現在であることも、付け加えておく。
確かに一時期、
「もぉった〜いなぁーい♪」という「もったいないソング」を、どこかで耳にしたことがある。
が、最近はそんな歌も話題も、どこかへ遠ざかっている。
大切なことも一過性に終わらせる今の日本らしい風潮だな、と思った。
環境分野で初の「ノーベル平和賞」を受賞したケニア人女性、
ワンガリ・マータイさんが、日本語の「もったいない」という言葉・語意に着想。
確かに、検索すると「もったいない」のウェブサイトが引っかかる。
ここでは既に、
「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」よろしく、
「もったいない−多神教思想を基調とする日本的感性−」ぐらいの、
世界遺産級価値が認められているということだろうか。極端に言えば。
何物にも神が宿っていて、米一粒たりとも無駄にはしない、
どんなものにも神霊が宿っていると信じる心。
新しいものには気が篭っていると信じ、尚且つ罪厄を払いのける祈りを込めるため、
新車丸ごと神域で囲ってお祓いを受けてしまう感性。
そんな「近頃随分と耳目にしない心」を、次長はこの言葉に感じる。
もったいないのは、貧しさゆえなのか。
あるいは、罰が当たるのを怖れてなのか。
いや、浪費と放棄を戒める道徳に基づいた、一種の美意識なのかも知れない。
ところで「神道」は、制度上は宗教法人ではあるが、
宗教ではないというのがその立場だと聞く。
確かに言われてみれば・・・書道・柔道・剣道・華道に連なる「美意識」を感じる瞬間はある。
国家神道はともかく、原初的な神道の在り方は、明らかに自然崇拝である。
自然に畏敬の念を抱くと言うことは、とどのつまりは「環境への意識」であり、
日本人があらゆる自然の産物に感謝をしてきた意識の残り火が「神道」なのだとすれば、
その言葉にも合点がいく。
世界で最も優れた日本の匠の結晶=クルマが、
古式ゆかしき神道の注連縄に囲われて祈りを捧げられる様を、
ぜひ多くの外国人に見せてあげたいと思う。
これが、一番日本らしい景色だと思うから。(笑)
ところが、今そういう人は大分少なくなった。
次長も、実はそんなご祈祷をお願いしたことは一度も無い。
昔なら、家の戸口はもちろん、クルマにすら松飾りをつけている人が多かった。
今じゃ、そういう人もずいぶん減ったが。
日本の伝統的風習が、形を変えて伝わっていく中で、
言葉の持つ意味や使われ方も、静かに変遷を遂げている。
例えばここ数年で見られるのが、「もったいないCM」
「○○じゃなきゃ、もったいない」という、アレ。
せっかくの楽しい機会を、この商品と楽しまなきゃもったいない。
世の中にはもっといい商品があるのに、そんな商品を使ってたんじゃ、もったいない。
つまり今の日本で言う「もったいない」は、むしろ
「贅沢を楽しまない貴方の生き方は惜しい」という訴求に変わっている。
豊かになるのは大変結構なことだが、
こういう思想のこもった用法が、テレビで多用されることに危機感を覚えないではない。
まして、比較広告とも取れるその内容が、和を尊ぶ日本社会に合っているのかという思いもある。
むしろ世界が着目する「もったいない」は、
「使える電気製品を捨てて最新家電に走る暮らし」を戒める方向だし、
嗜好品の選択基準に「うちの製品以外は満足に値しないからもったいない」と謳うのは、
何か違う気がする。
それを肯定するつもりも無いが、
「何かに使えるから捨てられない」と、ゴミ屋敷と呼ばれる家を温存する人々の意識こそが、
むしろ本義的な「もったいない」に近いのである。
時には古いクルマや家電が多くの燃費を要したりもするし、
もったいないの思想を意識するのは、非常に困難な現在であることも、付け加えておく。
2007.12.10
親の教え
近頃、盛岡市内に塾が目立つ。
以前から塾が無いわけではないが、
この頃特に、その思いを新たにする。
町なかに見当たるのも確かだが、テレビなんかでも朝から
「家庭教師がどうのこうの」と賑やかだし、
別に塾の絶対数が増えたわけでもないのかも知れないが、
やたら、塾の必要性や必然性を叫ぶ大人も増えてきた。
ドが付く田舎の学校で、進学塾のノウハウを取り入れているのは既述だが、
都会の学校でも、それは当然のようにあるらしい。
塾が増えれば心情的に面白くないのは学校の先生で、
「学校の授業さえやっていれば」といいたくなるのは当然だろう。
が、そんな言葉をまともに受けて被害を受けるのは、子ども自身である。
何しろ、岩手の進学熱は低い。
教育自体のレベルが低いとは言わないが、テストだけ見れば、点数は低い。
大学入試センター試験の平均点が下から二番目、
という紛れも無い事実は、相対的に「意識が低い」という言葉にも連なるのだ。
加えて、「経済レベルが低い」という事実にもぶち当たる。
ここで、学校以外の教育にかける教育費に、余裕が無いという地方間格差は存在している。
なのに、塾が増えているとは、どういうことなのか。
さらに、広い岩手県には、南北問題、東西問題、と言われる
「格差」が存在している。
盛岡地域は、「その中では」特異的な存在であり、
岩手県全体の歩みとは異なる社会事情を背負っている。
盛岡で塾の存在が際立っていることの理由は?
岩手県民の経済水準が高くなったのか?
教育に対する意識が高まったのか?
答は「いずれも」だろう。
所得水準が高まったのではなく、
「家計に余裕が生まれつつある世帯が増えた」と次長は分析する。
この不景気に市の職員の給与は右肩上がりだそうだ。
そんな不可解な事情もまずは、一要因か。
いや、それ以外にもっと大きいのは、
「購買に対する選択肢の広がり」があるだろう。
今まで競争に晒されなかった店舗が、本格的に競争を始めている。
その中で、「ここで買うしかない」が、「あそこでもっと安く買える」につながっている。
そこで生まれた差異は結果「余沢」となって、家計を潤す。
そう感じたのは、先日とある店で聞いた客の言葉である。
「ここで買わなくても、あっち(の店)見てから買えばいいじゃない」
「向こうよりこっちの方が安いな」
そんな会話が為されているのを何度か聞いて、ハッとした。
いったい、この街でこうした会話が為されたためしがどれだけあったのかと。
さらに今、しのぎを削る家電業界にも大波が。
デンコードーがケーズデンキと一体化して、いよいよここにも家電戦争。
とは言え、「もっと安くできるだろう」というのが大方の読みである。
実店舗で現物を確認してから、さらに安い価格で通販を使う、という客が増えていると聞く。
そうした通販の店とは、東京や大阪に本拠を置く地元密着型家電量販店。
本当ならば、東北に根城を置くデンコードーだって、そうした、道が歩めなかったわけでもあるまい。
通販で買えば、送料を含めても一万円以上安く家電を買える現実を知ったとき、
情報の活用に長けた人は、結果的に得をしている。
この余沢を教育にまわすと言う発想のある親の子は、さらに得をする。
情報量が所得水準に大きく関与するという見込みと、
所得と教育との関連性、いわゆる「教育水準の継承」という
「格差の固定化」が、こんなに身近でありふれた世間話の中に組み込まれている。
もっとも、塾に通わせたところで学力の向上が保証されるわけではない。
が、「子供が通いたいって言ったら通わせてもいい」ぐらいの緩やかな感覚では、
学校任せで何とかなるような状況でないことは確かである。
やはり、親の教育が子供に直結するのは、買い物の仕方を見ても分かる。
「高くてもいい物を長く大切に着る」
「安くて手軽なものをワンシーズンで着つぶす」
同じ冬物のコートを買うにも、そこには親の目指す方向性が隠されている。
買う時期についてすら
「親のボーナスが出たらすぐに買う」
「シーズン最後に一番安いところで買う」
そんな感性を、子供が知らずに受け継いでいくのだから、それはそれで怖い。
学力向上と食育の谷間で埋もれている大切な家庭教育、
それは「消費教育」だと痛感。
学校も塾も教えないことを、親は知らずに教えているんですね。
以前から塾が無いわけではないが、
この頃特に、その思いを新たにする。
町なかに見当たるのも確かだが、テレビなんかでも朝から
「家庭教師がどうのこうの」と賑やかだし、
別に塾の絶対数が増えたわけでもないのかも知れないが、
やたら、塾の必要性や必然性を叫ぶ大人も増えてきた。
ドが付く田舎の学校で、進学塾のノウハウを取り入れているのは既述だが、
都会の学校でも、それは当然のようにあるらしい。
塾が増えれば心情的に面白くないのは学校の先生で、
「学校の授業さえやっていれば」といいたくなるのは当然だろう。
が、そんな言葉をまともに受けて被害を受けるのは、子ども自身である。
何しろ、岩手の進学熱は低い。
教育自体のレベルが低いとは言わないが、テストだけ見れば、点数は低い。
大学入試センター試験の平均点が下から二番目、
という紛れも無い事実は、相対的に「意識が低い」という言葉にも連なるのだ。
加えて、「経済レベルが低い」という事実にもぶち当たる。
ここで、学校以外の教育にかける教育費に、余裕が無いという地方間格差は存在している。
なのに、塾が増えているとは、どういうことなのか。
さらに、広い岩手県には、南北問題、東西問題、と言われる
「格差」が存在している。
盛岡地域は、「その中では」特異的な存在であり、
岩手県全体の歩みとは異なる社会事情を背負っている。
盛岡で塾の存在が際立っていることの理由は?
岩手県民の経済水準が高くなったのか?
教育に対する意識が高まったのか?
答は「いずれも」だろう。
所得水準が高まったのではなく、
「家計に余裕が生まれつつある世帯が増えた」と次長は分析する。
この不景気に市の職員の給与は右肩上がりだそうだ。
そんな不可解な事情もまずは、一要因か。
いや、それ以外にもっと大きいのは、
「購買に対する選択肢の広がり」があるだろう。
今まで競争に晒されなかった店舗が、本格的に競争を始めている。
その中で、「ここで買うしかない」が、「あそこでもっと安く買える」につながっている。
そこで生まれた差異は結果「余沢」となって、家計を潤す。
そう感じたのは、先日とある店で聞いた客の言葉である。
「ここで買わなくても、あっち(の店)見てから買えばいいじゃない」
「向こうよりこっちの方が安いな」
そんな会話が為されているのを何度か聞いて、ハッとした。
いったい、この街でこうした会話が為されたためしがどれだけあったのかと。
さらに今、しのぎを削る家電業界にも大波が。
デンコードーがケーズデンキと一体化して、いよいよここにも家電戦争。
とは言え、「もっと安くできるだろう」というのが大方の読みである。
実店舗で現物を確認してから、さらに安い価格で通販を使う、という客が増えていると聞く。
そうした通販の店とは、東京や大阪に本拠を置く地元密着型家電量販店。
本当ならば、東北に根城を置くデンコードーだって、そうした、道が歩めなかったわけでもあるまい。
通販で買えば、送料を含めても一万円以上安く家電を買える現実を知ったとき、
情報の活用に長けた人は、結果的に得をしている。
この余沢を教育にまわすと言う発想のある親の子は、さらに得をする。
情報量が所得水準に大きく関与するという見込みと、
所得と教育との関連性、いわゆる「教育水準の継承」という
「格差の固定化」が、こんなに身近でありふれた世間話の中に組み込まれている。
もっとも、塾に通わせたところで学力の向上が保証されるわけではない。
が、「子供が通いたいって言ったら通わせてもいい」ぐらいの緩やかな感覚では、
学校任せで何とかなるような状況でないことは確かである。
やはり、親の教育が子供に直結するのは、買い物の仕方を見ても分かる。
「高くてもいい物を長く大切に着る」
「安くて手軽なものをワンシーズンで着つぶす」
同じ冬物のコートを買うにも、そこには親の目指す方向性が隠されている。
買う時期についてすら
「親のボーナスが出たらすぐに買う」
「シーズン最後に一番安いところで買う」
そんな感性を、子供が知らずに受け継いでいくのだから、それはそれで怖い。
学力向上と食育の谷間で埋もれている大切な家庭教育、
それは「消費教育」だと痛感。
学校も塾も教えないことを、親は知らずに教えているんですね。
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