人と人との間隔が、うまく取れない人間が増えた。
これは勿論、「人づき合い」という内面においてでもあるのだが、
ただ単純に、道を行き過ぎる際の「間」の取り方が、
妙に下手糞な人間が増えたということでもある。

いつだっただろう?
次長が上司と、都内の歩道を話しながら歩いていた折のことである。
往来も激しくなく、幹線沿いで充分に幅もあるので、横に並んだ状態だった。

ところが向こうから来た二人組みは、
この広い歩道を真っ直ぐにこちら目指して歩いてくる。
我々が避けようとすると、わざわざというか・・・・我々の間を割って入ったのだ。
彼らは何を臆するでもなく、にこやかに笑って過ぎた。

その意味するところは、一体なんなのか?

「次長君、日本もいよいよ、格差社会のはじまりだよ
上司はその時、そう言った。

お互いに道を譲りあう謙譲の美徳、
話している人の間を割って入るというのは非礼なこと。
そんな思いが彼らにあったのかなかったのか。
そこに何らかのリアクションがあったでもなく、
猪突猛進よろしく、前進する人々。
こうした光景が、実はこれまでに何度か続いていた。

「格差が生まれることは、もう仕方のないことだと思う」
上司は続けた。
これは所得格差と言うよりも、人間としての質の格差。
今や所得格差は学歴格差に比例すると言われているが、
とても学校で埋められるようなものではない、教育格差だと。

ところで、先日起こった「秋葉原殺傷事件」は、
何とも痛ましく、ヴァーチャル上のような話だ。
事件の背景に見えるものは「格差」であり、
メディアはしきりにこの「格差」の意識させ助長する報道に懸命だ。

現実と仮想、現実と理想。
事件の核心は、「現実と非現実の穴埋め」ができなかった男が
「社会的格差の穴埋め」を訴えて無謀な手段に出たことにあると思う。
前者は個人の問題であり、後者は国家の問題。
この混同が、「秋葉原」という前者・後者の結節点で爆発した。

ほとんどの人が、調和を保ち現実を生きようと努力を果たしているのに、
彼にはそれが出来なかった。
それは、はっきり言って彼の個人的な内部要因によるものである。

しかし一方、この事件には、
妙に出来すぎたシナリオのような危うさがある。

つまるところ、
「小泉改革で生まれた経済格差の容認が原因」で苦痛にあえぐ男が
「ゆとり教育世代に共通して見られる知識と意識の喪失」で路頭に迷い、
「ヴァーチャルなネットでしか繋がることの出来ない若者の病理」を表すように
「オタク文化の聖地・秋葉原で」前代未聞の大量殺傷事件を起こした、
というものである。

さらにこの上、メディアが取り上げたくて仕方の無い「ニッポンの格差」で満ち溢れている。

産業に乏しい最果ての青森に生まれ、
地方最高の進学校に進むが大学には行けず、
遠方の短大から派遣労働がはじまり全国へ飛ばされ、
世界企業の工場が集まる静岡で不満をくすぶらせ、
東京のど真ん中を舞台に「勝ち組殺し」を訴え大量殺戮。

「中央と地方」「富裕と貧困」「高学歴と低学歴」
選択の余地がない「不平等」を訴える素材として
恰好だと認定された形だ。

しかし、この事件は、
そんな社会を断罪するような種類の事件とは、到底思えない。
「勝ち組」「負け組」という認識自体がただの流行語なのであって、
これを真に受けてしまう底の浅さ、ひいてはメディアの軽さが事件の本質ではないのか?

被害者についても、ことさら特定の故人にばかりターゲットを絞るやり方。
「格差」を印象付け、「負け組が勝ち組を・・・・」という
犯人の思い通りに論点を合わせてゆくテレビ報道。

テレビが言う「青森一番の進学校に入った彼」に、
満足な進学実績がなかったことを落胆する家族とその息子と、
学校と地域が抱える、ごく限定的でどうでもいい話。

彼は自分に興味が失せた家族と住むこともできず、
衆人環視の元にある青森では「青森一番の進学校卒」の看板が邪魔をし、
仕事もない青森に居続ける理由もなかったのだろう。
そんな、本当にくだらないスタートからこんな事件が起こった。

誰かが止めてくれれば・・・・なんて身勝手の最たるもの。
人との距離感が計れない彼に、誰が近づけようか。

社会に問題があるとすれば、
「再チャレンジ」が利きにくく「本音と建前」が強い日本の風土そのものか。
このあたり、この本の「レヴュー」が参考になります。

2008.06.14 晴れの日の雨
「チャグチャグ馬コの日には雨が降らない」というのが、
盛岡的定説である。

毎年6月15日、いわゆる「国指定無形民俗文化財」であるところの年中行事
「チャグチャグ馬コ」は、そもそも鬼越蒼前神社の「馬の祭」
馬産地であり、農耕馬を多く使った時代の名残で、
本来は、日頃の馬の労苦をねぎらう感謝の祭りだったそうだ。
「馬産地」とされた岩手の「らしさ」を物語る材料にも、よく用いられる。

現在のように観光化されたパレードが始まったのは、比較的新しいようで、
この晴れの日が「晴れ」となるのは、馬の神様のご利益、という見方も根強かった。

ところが今日、突然の雨である。

「今日は6月15日じゃないじゃないの」と言われそうだ。
そう、チャグチャグ馬コは、さらに踏み込んだ「観光向け」に、日程をずらしのだ。
6月15日に一番近い、土曜日に。

もっとも、観光向けだけではないだろう。
実際に馬を農耕に使っている人も居ない今、多くの人は勤め人となって
平日には休めないという人も多いはず。
これは、時代の趨勢と言うより他無い。

突然の雨に加えて、突然の地震。
「岩手・宮城内陸地震」と命名されたようだ。
これが現代でなければ、「神様の怒り」とでも捉えられないタイミング。
「日程をずらしたから雨に見舞われる=神様が怒っている」と、
実際に言う人に、何人か出会った。
非科学的といえばその通りだが、それだけ「馬」というものが
この町の人々のDNAには深く刷り込まれているということか。
これもまた、非科学的と笑わば笑え、だが。

馬といえば、岩手県が莫大な予算を投入して死守する祭り=岩手競馬であるが、
この岩手競馬が斜陽産業になったのは、
ちょうどこの「チャグチャグ馬コ」の日程変更の時期に重なる、という人もいる。
つまりは、馬の神様がお怒りになり、馬を通じて何かを訴えているのである。
重ねて言うが、いま次長は非科学的な話をしているのでそのつもりで。

本来、農耕馬と競走馬とでは馬種も方向性もちがうので、
馬産地の歴史を単純に競馬の歴史に重ね合わせることに無理はあるのだが、
何しろ「岩手競馬」は「生産地競馬」という位置づけから始まっているので、
馬への感謝を表す祭りとの関連性を指摘されれば、その通りである。

しかしながら、最近では水沢競馬場で
人気競走馬の名前にあやかって「トレジャー神社」を祀り、
馬の個人崇拝を進めるなど、看過しがたい事態である。
まぁ、駒形神社という馬がらみの神社が正式に神事を行なったにせよ。

ところで震源地に近い奥州市水沢区、こちらの状況は大丈夫でしょうか。

「馬との深い関わり」を謳いながら、本来の「馬への感謝」の意が
薄れていることへの警告とも取れる、チャグチャグ馬コの雨。
昨年だっただろうか、テレビで「ウマッコ」でなく「ウマコ」と連呼されるを見て、
馬産地の歴史も遠くなりにけり・・・と思った。

またいつからだろうか?
「チャグチャグ馬コ」を「チャグ馬」と略す寒々しい風潮。
「馬に関する事柄」がただただ巧いように利用されて、
本来の精神とか念、思いといったものが理解されていない現状。
実際に祭りに携わっている方々だけが、大変な思いをして伝えているに留まっている。

地鳴りのなったそのとき、ウマッコたちは何を感じたのか?
生ける神様達を扱う人々の労苦こそが労われて然るべき今だが、
雨のみならず地震までもに見舞われるチャグチャグ馬コ、
ただならぬ事態である。

今はどうか知らないが、
岩手県知事以下、盛岡・滝沢・矢巾の3首長が行列に参加した
全国最大級の「馬の祭礼」、
岩手県競馬ほどでないにせよ、それ相当のサポートがあるんでしょうな。

かつての6月15日に定められたのにも、「田植えの最盛期とかち合うから」という
本来の趣旨に外れない日程変更があったそうだ。
土曜日に移動する実質的な根拠があったにせよ、
それにともなう周囲のサポートは、間違いなく岩手競馬には劣る。
国が認めた「記録作成等の措置を構ずべき無形の民俗文化財」
なのに、ですよ。

盛岡競馬場に、祈りや感謝の姿は見えない。
いや、見えないようになってしまったのか、新しい建物になってから。
岩手競馬という「祭り」について、改めて考えさせられる今日である。

そして世界遺産登録延期勧告にも揺れる奥州市。
いろんな揺れを暗示し、体現する今日の地震。
余震は相変わらず、続いています・・・・・。
2008.06.07 工場萌え
「工場燃え」ではない。
だって、燃えたら困るでしょ。

横浜では最近、一風変わったツアーが開催されていると聞く。
いわゆる「京浜工業地帯」の工場夜景を、
海上からクルーザーで眺める、という趣味人の集いである。

参加料は6000円前後で、約1時間の行程。
全く興味のない人にとっては、
「大気汚染の元凶眺めに金払うなんて酔狂な」と断罪されかねない企画ではある。

しかし、ここにあるのは「萌え」という近代的な美意識である。
そもそも「燃え」という「発情」の隠語、誤変換から来ているというが、
「芽生える」の意味の元来の「萌え」とも少なからずリンクしており、
世間が常識的に美と認めない特定のものに、
春の訪れにも似た密やかな喜びを見出すところに、
萌えの萌えたる所以があるだろう。

アニメーションが描く近未来の描写にも似た無機的なメタルと、
絶え間なく燃え続ける石油精製工場の原初的な炎。
快適な都市生活を支え続ける営みに「構造美」を見出す価値観は、
美の奥ゆかしさを物語る一つの好例。

美意識を文章で説明する難しさはあるものの、
「人智の結晶」が集約された「人工美」への憧れ、と
解釈するのが一つの方法だろうか。

この感性を共有しよう、という動きが生まれるのが都会ならでは。
「美」に対する議論の展開する余地が広い・・・。

「工場萌え」の心には、
無駄をそいだ、洗練された機能美という意識があるのだと思う。
色をつけるでもなく、何かをアピールするのでもなく、
ひたすらに目的を遂げる美しさ。

美意識の中では、侘び寂び級です・・・。

とかく「美意識」のズレを検証する機会なんて日常ほとんど無いわけですが、
同じ風景を見て、「美を感じる人・感じない人」がこれだけ居るのかと思うと、
「目に見えない感性・感覚の違い」って、結構重要だと思う。
感じない人は一切感じないらしく、驚かされる。
次長、町なかを歩いても、気づくことが多い。

ビルの陰の湿った、誰も座りたくない場所に置かれたベンチ。
パーテーションだけで済むのに、「立入禁止」とあちこちに書き殴られた空き地。
度重なる車の入場で、茶色く地肌の見える川原。

キレイにタイル舗装された歩道が、道路工事で剥がされていた。
工事後に通りかかったら、そのタイルがなかったのか、
いびつに穴埋めするかのように、アスファルトが詰め込まれていた。
仮処置かと思えば、ずっとそのまんま。
タイル舗装した意味がないのである。
手抜き工事以外の何物でもないと思うが、これは「美しくない」のでは?

公共施設の壁に、
ガムテープをベタベタと張って注意書きが書いてある。
しかも手書きポップ。ただただ意思が伝わればいいという感覚だ。
剥がすとテープの粘着質が残って醜い。

ガラス面にもベタベタとポスターを貼りまくる。
ガラスにしているのは、開放的な雰囲気作りのため、
という建築家の思いは断ち切られている。
まともな管理者ならば、こんなことは許さない。
例えば「アイーナ」には、こんなポップは一切無い。

指定・提携駐車場で、
看板に提携先の会社のロゴマークを不適当に使った例。
似て非なるマークが並ぶのを見ると、
海外のバッタ物を見るような思い。
今どき、こんな看板つくる会社があるんですね・・・。

「工場萌え」な高い美意識を追求するには到らないにせよ、
こんな美意識がまかり通っているさなかでは、
何かしらのガイドラインや制約、お手本が必要なのだと思う。

「何を美しいと感じるか」
共通認識を得にくい問題ではあるけれど、
何かしらの確固たる基準は必要な時期に来ているんじゃないでしょうか?
2008.06.04 ギスギスバス
とある事情で、めったに乗らない「路線バス」に乗った。

車中には、今すぐにでも胃の内容物を噴出しそうなビジネスマンや、
交通弱者なんであろう若者(最近の若者は車を買わない傾向があるらしい)の姿。

次長、この路線は正直明るくないので、
見慣れぬ景色にどこまで行ったらいいものかと不安混じり。

運転は比較的荒く(笑)
急発進・急ブレーキ多数。
真っ直ぐな道路を猛スピードで走ったかと思えば、
対向車線から右折しようとする車にぶつかりそうになって、
クラクションと急ブレーキのダブル攻撃。
この衝撃は、対向車のみならず、我々乗客へのストレスとなった。

そんな中、事件は起きた。

ブザーが押され、停留所に止まると、誰も降りる気配がない。
停車時間、ほんの5秒位だろうか。
誰が見回すでもなく、当たり前に誰かが降りるのだろうと待っていた。
しかし、誰も降りない。
すると・・・

「降りる方、いないんですか? 発車しますよ!」

その後、2秒程度の沈黙。
誰も声を発しない・・・はずが

「もういいんじゃないですか?出てもっ!?」

堪忍袋の緒が切れたような口調で、乗客のオッサンが言い放つ。

さらに次長は、驚くべき運転手の一言を耳にした。

「降りないなら押さないで下さいよ、みんなが迷惑です!」

・・・いや、言いたいことは分かるんだけどさ。
間違って誰かが押したかも知れないし、それでも誰かが降りると踏んだのかも知れないし。
あの空気の中では、「間違えました」なんて到底言えない雰囲気。
あるいは、酔っ払いのおっさんが押したようにも思えるのだが・・・。

何より、ああいう一言によって、どれだけ雰囲気が悪くなるのか。
急いでたのかも知れないし、おっしゃることに間違いはないんだけど、
大勢の客を前に、しかも閉ざされたあの空間でそういう言葉を吐くもんかな・・・?

不特定多数の客に対して、半ば説教でもするように放たれる「迷惑」という言葉の重さ。
確信的に繰り返し押されたのならともかく、
たまたま押されたのであろうその一押しに、ダメ押しする捨て台詞。
なんというか・・・インフラを与ってる民間企業の勘違い発言っていうか。
様々な選択肢の中で選ばれる公共交通とは違う、寡占事業が陥るミス。

あのギスギスした雰囲気が、いまだに心苦しく思える。
こんな風景を見せられるくらいなら、
マイカーやタクシーを使ったほうが余程いい。

もしもあのボタンを押したのが自分だったら、と想像しただけで萎える。
公共交通利用を叫ぶのももっともなのだが、
こうした一つの心がけで、人の意識と言うのは大きく変わるものだ。
サービスとはへりくだる事ではなく、
お互いが快適に暮らせるための雰囲気作りにある。


話はそれるけど、
次長、同じものでも「対応のいい店」でしか買わない。
家から近かろうが、感じの悪いおっさんのいる店では絶対買わない。
だって笑顔がまったくなくて気分悪い・・・。

職人気質の店に、こういう傾向があるが、
作るのが得意な人が売るのも得意、なんてことはあり得ない。
作ってる自信で外に出るのは止めたほうがいいよ、ホント。

余談ながら、
あの車内に流れる独特の節回しもアナウンスも、
たまにだったら旅情に浸れるけど、毎日だったら拷問の一種
贅沢を言うようだが、もっと改善の余地はあると思うよ・・・。


2008.06.02 川田亜子さん
元TBSアナウンサーの、川田亜子さんが亡くなった
というニュースをウェブ上で知った。

組織を離れて、まだまだこれから、という人生の途上。
「もったいない」という言葉は適当でないかも知れないが、
まだまだこれから、活躍して欲しかった。

人はそれぞれに、苦悩を抱え込んで生きているものである。
亡き彼女が抱えた何かを、残された人々は憶測ばかりで書き立てるが、
実際、それは複雑で交錯した事情なのだろう。

一度「公人」のような立場に置かれた人の気の毒さは、
本人や家族の望まないところで、
あれやこれや推測で背景を晒されてしまうところにある。

元はといえば、一企業のビジネスウーマンである。
仕事の性格もあろうが、自らの命と引換えに安らぎを求めても、
なお「世間」という見えない存在が彼女の後を追う。

憧れ続けたであろう東京と言うステージで、何を掴み取り、また失ったのか。
北陸に生まれ、盛岡で少女時代を過ごし、上京した彼女。
この町では何を思い、夢見たのか。

今となっては何を偲ぶ術もない。
安らかにご冥福をお祈りします。
「花泥棒は咎められない」という
まことしやかな話が、世に浸透しているのか。

花は皆の目を楽しませる。
きれいだから、思わず手に取ってしまうのは許容される、とでも言うのか。
無粋なようだが、花でも草でも、他所様から無断で頂くという行為は犯罪である。
盗むという行為は、それが「拝借」「万引」という言い換えによって
なんとなく薄められているように聞こえるが、違法行為である。
いや、法の問題というより、人の生き方としての問題だ。

盛岡市で盛んに行なわれるようになった「ハンギングバスケット運動」で、
花が盗まれたり捨てられたりする被害が、続いているという。

「花を見て怒る人はいない」とも言うが、
平成の世では、そんな言葉も昔の格言も通用しないのだろうか。
都会だから田舎だから、という基準は多用したくないが、
田舎は平和、人の心も平穏、という幻想も崩れつつあるのが現状だ。

実際、「ハンギングバスケット運動」についても、
不平やら不満やら、文句を垂れている人を見なかったわけではない。
欧米発の外来文化は盛岡にそぐわないだとか、盛岡の産業に寄与しないだとか。
他にやるべきことがあるだろうとか、様々である。

このあたりは、現在の大阪府知事が孤軍奮闘している状況にも重なる。
福祉と医療の予算を削りながら、ライトアップは心の問題だからと続けるという主張の矛盾。
盛岡の場合はもっと根本的に、優先順位というより「産業基盤が薄い事実」確認から必要だが。

反対の立場も、一見正当性のある意見ではあり、それは主張として尊重すべきだが、
「花を飾る」という行為自体の美しさは、他に変えがたいものであるとは思う。

相手は生き物。
人の手をしてケアを続けなければならない花に対して、
水を与えているフツーのおっさんがいる風景と言うのは、実は非常に素晴らしい。
住んでいる場所を向上させようと言う意識が形になって見えるのは、
この街ではせいぜいこれが顕著である。

ハンギングバスケットに反対している人の仕業だとは思わない。
しかしそれにしても、主張の見えない行動が一番気持ち悪い。

何が面白くなくて花を盗んだり捨てたりするのか分からないが、
こうした行為を為すのは「泥棒」などという生易しいレベルのものではなく、
はっきり言って一種の「テロ」である。

盗んだ花を植えて楽しんでるとしたら、この精神構造の歪みようは尋常ではないし、
まかり間違って売ってるとしたら、その悪質さは重大犯罪。
根本的には、「皆で楽しみましょう」というところへ来て
根こそぎその思いをこそげ取るという行為が、民主主義への挑戦でさえあるのだ。

花かごが立て続けに痛めつけられる、というニュースは、内外に「悪影響」を及ぼす。
人の心に対する影響が、一番の被害だろう。
「人が頑張っても他の人から足の引っ張り合い」
「花が捨てられる街というダークな都市の印象」
いっそ、監視カメラでもといった気持ちすら現れる。

花泥棒については、諸説入り乱れる。
貧しくて花は買えないが、仏前に供えたい一心で思わずもぎ取ってしまった。
そんな信心を責めないという説がある。
しかしこれも解釈の問題。

信仰を促す例え話と取るか、
命ある花も、信心の心あれば生かし方で摘むことも殺生に当たらない。
そういう昔ながらの教え、とも受け取れる。

狂言の世界に、「花盗人」という演目がある。
一度ならず二度までも桜の枝を折り取った僧を、人々が懲罰のために縄で縛り上げた。
しかし僧は歌で反論、歌に感銘した人々は僧の縄を解きほどいた。
つまりは、「風流人を責めるな」の意味での解釈
「花盗人≠泥棒」は、ここから来ているのか?

しかし、ここで重要なのは、
僧が花を折ったのは仏前に供えるためではなかった、ということ。
歌を返せば罪を許そうと、家人自らが僧を詰問した、ということ。
さらに僧は、そもそも花盗人は昔から罪にならないと開き直っていた、ということ。
風流を理解していた家人ですら、花盗人は罪にならないなんて認識は無かったわけだ。

「紅葉狩り」に狩りをするわけでないように、
まして楓の枝を刈るわけでもないこの表現、
日本語は風流を解さない人間には運用不能な言葉ではある。

誤った認識で罪を犯す人が生まれるのは避けて欲しいが、
このあたり、マスコミはしっかりと伝えて欲しいものだ。

「花見」と言って、花を碌に見もせず
酒をあおるのが通例だったりもするが、
これもまた、日本人の奥ゆかしさでもある。

奥ゆかしさも、主張も見えないこの犯行に、
解決の糸口は見えるのか。