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ソチオリンピックが始まった。
そんな中、近頃のスポーツ選手を見て思うのは、その「饒舌さ」だ。

「今後どんな風に取り組んでいきたいと考えていますか」
早い話、「聞き手が意図していることが不明」である。
いったい、誰に何を伝えるためにこんなことを訊いているのか。
これから正に勝負にへ挑もうとする人間に、
まるで「秘したその手の内を見せろ」とでも言わんばかり。

「どう取り組もうがあなたには関係ないでしょう?」
そんな元も子もないことを言う愚者はおらず、
くだらない質問にも、選手はきちっと答えてみせる。
その姿はもはや「アマチュア」ではない。

「目標とするところは?」
「一番を目指す」に決まっているのだが、
選手らは、求められている(であろう)「前向きな言葉」をしっかりと選ぶ。
しかしそれは同時に、プレッシャーとして己に跳ね返るのだ。

長くも短くもなく、あくまでも適正に。
予定調和を重んじ、いかなる非難もされず画になる姿を想像しているだろうその姿は、
誰よりも「利口」

スポーツ界が建前を重んじるのは、今に始まったことではない。
かつては水泳や柔道、そしてスノーボードなどの各競技で、
「望まれない姿」と「逸脱した選手」をバッシングする動きがあった。

代表として選ばれたからには、
それなりに相応しい品格と秩序を弁えろと言うこと。
特にも見だしなみと言葉づかい、
決して間違ったことを言ってはいないのだが、この堅苦しさには
古めかしくも「出征」という言葉がよぎる。

「スポーツと政治は別だ」と言いながら、
その実オリンピックを「平和的な代理戦争」と見る向きもある。
国威を掛けて勝負する国がある以上、
国費を以てその支援が為されれば、それ相当の姿を、と。
「正論」ではある。

あくまでも技術やスピードが長けていることで選ばれたはずの人が、
総じて利口であるのは、
それだけの「フィルター」を抜けてきたことの表れでもある。
望み望まれたセリフを巧みに操るのは、何も悪いことではない。
だが思う。
それは、教育の成果なのか。仮にそうであっても寒々しい。
総じて「正しいこと」を言っているのに。

「支えてくれた皆さんの思いをしっかりと受け止めて」だとか
「答えを出せるよう全力でぶつかる」とか、
周囲の気持ちが先。何よりも先。
個を打ち出すのは、ずっとずっと後回し。

舌禍は不祥事とされれば個人の問題では済まされず、
指導者から所属団体、家族の果てまで「猛省と謝罪」を要求される風土。
「自分一人で大きくなったと思うなよ」とでも言いたげ。
確かにそうなんだろう。

「みなさんのおかげです」と公言しなければまるで「悪い子呼ばわり」。
画にならなければ無視、さもなくば攻撃。
社会や大人の事情と言うより、テレビの事情である。

本当に力のある人材が、ふるい落とされているのではないか。
そう思うことさえある。

結果が全てのこの世界、負ければ負け方にさえケチがつく。
結果を出せなかった人の背景にあるのは「個人の努力」だけではないはず。
そこに「国民の期待」まで負わせるのは、あまりにも勝手。

個々人の能力に、各々の努力・財力・行動力が加わった結果。
総合力で評価された結果だとすれば、
鬼才なんて、容易には世に現れない。
そもそも、鬼才天才を見出すような十分な態勢が整っているとは思えない。
その側面から言えば、日本は根本的に「外国とは姿勢が違う」
その中で世界に冠たる個人が生まれることこそが、本当に凄いことなのではないか。

「今一番伝えたいことは?」
晴れて一番になったとき、ここで求められる正答は、
「応援して下さった全ての皆さんへ、感謝の気持ちを伝えたいと思います」

分かっていて訊く。
求めに応じられるかどうか、テストするかのように訊く。
もはや自分自身と戦っていることは明白なのに。
聞き手の答えもすっかり定着した。
「感動をもらいました」「勇気を与えたと思います」
テレビを見て、演出がお仕事なのは重々承知の上だが、こう思う。
「あなたの感想など要らない」

選手が被災県出身であればその出身者としての、
被災者への思い、被災県民の期待まで、勝手に添えられる。
この過剰さは、被災県から見ても目に余る。

「御国の威信を掛け戦う郷土精鋭の御武運の報に我々臣民の苦難も晴れる思いであります」
時代が違えば、こういうニュアンス。

言葉が介在しすぎている。
何よりも、選手の努力そのものに光を。
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