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2008.05.25
平泉、ナミダ目。
世界遺産登録を目指す「平泉」に、イコモスが延期勧告。
当然のように登録勧告がなされるであろう、という思いは大きく崩れ、
それを前提に進めてきた岩手県、そして関連する市と町は落胆。
そしてそれに関わっている様々な政策施策も、分岐点に立たされている。
巷では「そうじゃないかと思ってたよ」なんてしたり顔の人もいるが、
それと一緒に「私もそう思いましたよ」なんていうのも非常にいやらしいので、
ここは一つ、陰ながら応援はしたいと思うのだが。
それにしても懲りないのは
「最善は尽くしたが」という過去の詠嘆だ。
最善を尽くしたのにこの結果では、
もはや登録の見込みは無いんだろう。
最善を尽くせなかったからこそ理解が得られず、
先方にも響かなかったのではないのか。
そういう理解をしないと、ただただ自己満足に浸るだけだ。
全国紙の一部でも、「平泉見送り」といった論調が目立つが、
そもそも全国規模で平泉、そして世界遺産登録への動きがあったとは
知られていないのではないか。
「石見銀山のような」と、先例に並べて語る向きも多いが、
石見銀山ほどの採り上げ方がなされているとは到底思えない。
地方から世界へ直接発信するというのも、流れとしては悪くないが、
国内での全国的認知度を上げずに打って出たところで、
世界から「知名度が低い」と言われるのも道理である。
いわば、「世界遺産としての価値」と「観光資源としての価値」を
両立せんがための思惑がやはりあるわけだが、
少なくとも岩手県内では、県民のあいだに「世界遺産としての価値」が
浸透しているとは思えない。
早い話、二律背反した価値を無理矢理統合しているようにしか、見えないのだ。
埋蔵文化財だらけの平泉を、
浄土思想というキーワードで異教徒に説明するのには骨が折れると思う。
何より、無宗教で通っている日本人が、どれだけ仏教に帰依しているのか、
世界の人々は想像だにしないのである。
カミもホトケもジーザスも、
年中行事に組み込むジャパニーズの宗教観において、
習俗として組み込まれている「寛容の心」こそが平和思想。
それが先方の前提に無いと、日本人の宗教観なんて伝わらない。
日本人が宗教の影響で「米」を神様の特別な植物と思ってるのは、
他国の人が牛や鯨を特別な感情で見るのに非常に近い。
これが伝わっていないから、日本人が米を特別視している意味が外国人には理解できない。
ずばり「宗教上の理由で日本はアメリカ米なんて輸入できないんです」って言えばいいのに
そういう主張がない日本。誰も言わないのが不思議でならない。(笑)
そういうわけで、日本人が自分達の心を主張しないから、
似て非なる仏教・上座部仏教のスリランカ僧に浄土思想を説明しても、伝わらないんだと思う。
いわんや西欧人をや。
世界平和を祈る心が、浄土の実現と言う形で
現実に具現化しました、という内容を目に見えない遺産で伝える以前に、
今の日本人、岩手県民がどこまでそれを理解しているのか。
それが今の日本にどう受け継がれているのか、
ここがカギになるだろう。
何しろ、日本は「大国」で「富国」だと思われているから、
満遍なく豊かさが満ちている先進国のイメージが拭えない。
日本の中で、東北という場所がどんな歴史を辿ってきたのかすら
外国人には見えない。
近畿を中心に支配が及んだ日本の中で、
平泉の位置は言わば「外国」であって、
異端視されながらも羨望の地であったことは想像に難くない。
被支配の歴史を重ねた東北に、
連綿と現世浄土の理想を伝えてきた寺院群と思想があり、
その背景には武力と権力とに抗する地域性の連続があった。
平泉を説明するには、戦後に到るまであらゆる面で先んじられた
東北全体のあり方にも言及しなければならないだろうし、
金本位で動いてきた日本と、銀本位の外国との交易についても触れなければならないだろう。
ともあれ、
日本国内でもコンセンサスの取れていない話を、
外国人に向けてプレゼンテーションしなければならないというハードルが、
今回の延期の大きな差し障りになっているように思った。
当然のように登録勧告がなされるであろう、という思いは大きく崩れ、
それを前提に進めてきた岩手県、そして関連する市と町は落胆。
そしてそれに関わっている様々な政策施策も、分岐点に立たされている。
巷では「そうじゃないかと思ってたよ」なんてしたり顔の人もいるが、
それと一緒に「私もそう思いましたよ」なんていうのも非常にいやらしいので、
ここは一つ、陰ながら応援はしたいと思うのだが。
それにしても懲りないのは
「最善は尽くしたが」という過去の詠嘆だ。
最善を尽くしたのにこの結果では、
もはや登録の見込みは無いんだろう。
最善を尽くせなかったからこそ理解が得られず、
先方にも響かなかったのではないのか。
そういう理解をしないと、ただただ自己満足に浸るだけだ。
全国紙の一部でも、「平泉見送り」といった論調が目立つが、
そもそも全国規模で平泉、そして世界遺産登録への動きがあったとは
知られていないのではないか。
「石見銀山のような」と、先例に並べて語る向きも多いが、
石見銀山ほどの採り上げ方がなされているとは到底思えない。
地方から世界へ直接発信するというのも、流れとしては悪くないが、
国内での全国的認知度を上げずに打って出たところで、
世界から「知名度が低い」と言われるのも道理である。
いわば、「世界遺産としての価値」と「観光資源としての価値」を
両立せんがための思惑がやはりあるわけだが、
少なくとも岩手県内では、県民のあいだに「世界遺産としての価値」が
浸透しているとは思えない。
早い話、二律背反した価値を無理矢理統合しているようにしか、見えないのだ。
埋蔵文化財だらけの平泉を、
浄土思想というキーワードで異教徒に説明するのには骨が折れると思う。
何より、無宗教で通っている日本人が、どれだけ仏教に帰依しているのか、
世界の人々は想像だにしないのである。
カミもホトケもジーザスも、
年中行事に組み込むジャパニーズの宗教観において、
習俗として組み込まれている「寛容の心」こそが平和思想。
それが先方の前提に無いと、日本人の宗教観なんて伝わらない。
日本人が宗教の影響で「米」を神様の特別な植物と思ってるのは、
他国の人が牛や鯨を特別な感情で見るのに非常に近い。
これが伝わっていないから、日本人が米を特別視している意味が外国人には理解できない。
ずばり「宗教上の理由で日本はアメリカ米なんて輸入できないんです」って言えばいいのに
そういう主張がない日本。誰も言わないのが不思議でならない。(笑)
そういうわけで、日本人が自分達の心を主張しないから、
似て非なる仏教・上座部仏教のスリランカ僧に浄土思想を説明しても、伝わらないんだと思う。
いわんや西欧人をや。
世界平和を祈る心が、浄土の実現と言う形で
現実に具現化しました、という内容を目に見えない遺産で伝える以前に、
今の日本人、岩手県民がどこまでそれを理解しているのか。
それが今の日本にどう受け継がれているのか、
ここがカギになるだろう。
何しろ、日本は「大国」で「富国」だと思われているから、
満遍なく豊かさが満ちている先進国のイメージが拭えない。
日本の中で、東北という場所がどんな歴史を辿ってきたのかすら
外国人には見えない。
近畿を中心に支配が及んだ日本の中で、
平泉の位置は言わば「外国」であって、
異端視されながらも羨望の地であったことは想像に難くない。
被支配の歴史を重ねた東北に、
連綿と現世浄土の理想を伝えてきた寺院群と思想があり、
その背景には武力と権力とに抗する地域性の連続があった。
平泉を説明するには、戦後に到るまであらゆる面で先んじられた
東北全体のあり方にも言及しなければならないだろうし、
金本位で動いてきた日本と、銀本位の外国との交易についても触れなければならないだろう。
ともあれ、
日本国内でもコンセンサスの取れていない話を、
外国人に向けてプレゼンテーションしなければならないというハードルが、
今回の延期の大きな差し障りになっているように思った。
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