「花泥棒は咎められない」という
まことしやかな話が、世に浸透しているのか。

花は皆の目を楽しませる。
きれいだから、思わず手に取ってしまうのは許容される、とでも言うのか。
無粋なようだが、花でも草でも、他所様から無断で頂くという行為は犯罪である。
盗むという行為は、それが「拝借」「万引」という言い換えによって
なんとなく薄められているように聞こえるが、違法行為である。
いや、法の問題というより、人の生き方としての問題だ。

盛岡市で盛んに行なわれるようになった「ハンギングバスケット運動」で、
花が盗まれたり捨てられたりする被害が、続いているという。

「花を見て怒る人はいない」とも言うが、
平成の世では、そんな言葉も昔の格言も通用しないのだろうか。
都会だから田舎だから、という基準は多用したくないが、
田舎は平和、人の心も平穏、という幻想も崩れつつあるのが現状だ。

実際、「ハンギングバスケット運動」についても、
不平やら不満やら、文句を垂れている人を見なかったわけではない。
欧米発の外来文化は盛岡にそぐわないだとか、盛岡の産業に寄与しないだとか。
他にやるべきことがあるだろうとか、様々である。

このあたりは、現在の大阪府知事が孤軍奮闘している状況にも重なる。
福祉と医療の予算を削りながら、ライトアップは心の問題だからと続けるという主張の矛盾。
盛岡の場合はもっと根本的に、優先順位というより「産業基盤が薄い事実」確認から必要だが。

反対の立場も、一見正当性のある意見ではあり、それは主張として尊重すべきだが、
「花を飾る」という行為自体の美しさは、他に変えがたいものであるとは思う。

相手は生き物。
人の手をしてケアを続けなければならない花に対して、
水を与えているフツーのおっさんがいる風景と言うのは、実は非常に素晴らしい。
住んでいる場所を向上させようと言う意識が形になって見えるのは、
この街ではせいぜいこれが顕著である。

ハンギングバスケットに反対している人の仕業だとは思わない。
しかしそれにしても、主張の見えない行動が一番気持ち悪い。

何が面白くなくて花を盗んだり捨てたりするのか分からないが、
こうした行為を為すのは「泥棒」などという生易しいレベルのものではなく、
はっきり言って一種の「テロ」である。

盗んだ花を植えて楽しんでるとしたら、この精神構造の歪みようは尋常ではないし、
まかり間違って売ってるとしたら、その悪質さは重大犯罪。
根本的には、「皆で楽しみましょう」というところへ来て
根こそぎその思いをこそげ取るという行為が、民主主義への挑戦でさえあるのだ。

花かごが立て続けに痛めつけられる、というニュースは、内外に「悪影響」を及ぼす。
人の心に対する影響が、一番の被害だろう。
「人が頑張っても他の人から足の引っ張り合い」
「花が捨てられる街というダークな都市の印象」
いっそ、監視カメラでもといった気持ちすら現れる。

花泥棒については、諸説入り乱れる。
貧しくて花は買えないが、仏前に供えたい一心で思わずもぎ取ってしまった。
そんな信心を責めないという説がある。
しかしこれも解釈の問題。

信仰を促す例え話と取るか、
命ある花も、信心の心あれば生かし方で摘むことも殺生に当たらない。
そういう昔ながらの教え、とも受け取れる。

狂言の世界に、「花盗人」という演目がある。
一度ならず二度までも桜の枝を折り取った僧を、人々が懲罰のために縄で縛り上げた。
しかし僧は歌で反論、歌に感銘した人々は僧の縄を解きほどいた。
つまりは、「風流人を責めるな」の意味での解釈
「花盗人≠泥棒」は、ここから来ているのか?

しかし、ここで重要なのは、
僧が花を折ったのは仏前に供えるためではなかった、ということ。
歌を返せば罪を許そうと、家人自らが僧を詰問した、ということ。
さらに僧は、そもそも花盗人は昔から罪にならないと開き直っていた、ということ。
風流を理解していた家人ですら、花盗人は罪にならないなんて認識は無かったわけだ。

「紅葉狩り」に狩りをするわけでないように、
まして楓の枝を刈るわけでもないこの表現、
日本語は風流を解さない人間には運用不能な言葉ではある。

誤った認識で罪を犯す人が生まれるのは避けて欲しいが、
このあたり、マスコミはしっかりと伝えて欲しいものだ。

「花見」と言って、花を碌に見もせず
酒をあおるのが通例だったりもするが、
これもまた、日本人の奥ゆかしさでもある。

奥ゆかしさも、主張も見えないこの犯行に、
解決の糸口は見えるのか。
Secret

TrackBackURL
→http://byefornow.blog42.fc2.com/tb.php/162-16beb642