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2008.06.15
秋葉原報道に思う
人と人との間隔が、うまく取れない人間が増えた。
これは勿論、「人づき合い」という内面においてでもあるのだが、
ただ単純に、道を行き過ぎる際の「間」の取り方が、
妙に下手糞な人間が増えたということでもある。
いつだっただろう?
次長が上司と、都内の歩道を話しながら歩いていた折のことである。
往来も激しくなく、幹線沿いで充分に幅もあるので、横に並んだ状態だった。
ところが向こうから来た二人組みは、
この広い歩道を真っ直ぐにこちら目指して歩いてくる。
我々が避けようとすると、わざわざというか・・・・我々の間を割って入ったのだ。
彼らは何を臆するでもなく、にこやかに笑って過ぎた。
その意味するところは、一体なんなのか?
「次長君、日本もいよいよ、格差社会のはじまりだよ
」
上司はその時、そう言った。
お互いに道を譲りあう謙譲の美徳、
話している人の間を割って入るというのは非礼なこと。
そんな思いが彼らにあったのかなかったのか。
そこに何らかのリアクションがあったでもなく、
猪突猛進よろしく、前進する人々。
こうした光景が、実はこれまでに何度か続いていた。
「格差が生まれることは、もう仕方のないことだと思う」
上司は続けた。
これは所得格差と言うよりも、人間としての質の格差。
今や所得格差は学歴格差に比例すると言われているが、
とても学校で埋められるようなものではない、教育格差だと。
ところで、先日起こった「秋葉原殺傷事件」は、
何とも痛ましく、ヴァーチャル上のような話だ。
事件の背景に見えるものは「格差」であり、
メディアはしきりにこの「格差」の意識させ助長する報道に懸命だ。
現実と仮想、現実と理想。
事件の核心は、「現実と非現実の穴埋め」ができなかった男が
「社会的格差の穴埋め」を訴えて無謀な手段に出たことにあると思う。
前者は個人の問題であり、後者は国家の問題。
この混同が、「秋葉原」という前者・後者の結節点で爆発した。
ほとんどの人が、調和を保ち現実を生きようと努力を果たしているのに、
彼にはそれが出来なかった。
それは、はっきり言って彼の個人的な内部要因によるものである。
しかし一方、この事件には、
妙に出来すぎたシナリオのような危うさがある。
つまるところ、
「小泉改革で生まれた経済格差の容認が原因」で苦痛にあえぐ男が
「ゆとり教育世代に共通して見られる知識と意識の喪失」で路頭に迷い、
「ヴァーチャルなネットでしか繋がることの出来ない若者の病理」を表すように
「オタク文化の聖地・秋葉原で」前代未聞の大量殺傷事件を起こした、
というものである。
さらにこの上、メディアが取り上げたくて仕方の無い「ニッポンの格差」で満ち溢れている。
産業に乏しい最果ての青森に生まれ、
地方最高の進学校に進むが大学には行けず、
遠方の短大から派遣労働がはじまり全国へ飛ばされ、
世界企業の工場が集まる静岡で不満をくすぶらせ、
東京のど真ん中を舞台に「勝ち組殺し」を訴え大量殺戮。
「中央と地方」「富裕と貧困」「高学歴と低学歴」
選択の余地がない「不平等」を訴える素材として
恰好だと認定された形だ。
しかし、この事件は、
そんな社会を断罪するような種類の事件とは、到底思えない。
「勝ち組」「負け組」という認識自体がただの流行語なのであって、
これを真に受けてしまう底の浅さ、ひいてはメディアの軽さが事件の本質ではないのか?
被害者についても、ことさら特定の故人にばかりターゲットを絞るやり方。
「格差」を印象付け、「負け組が勝ち組を・・・・」という
犯人の思い通りに論点を合わせてゆくテレビ報道。
テレビが言う「青森一番の進学校に入った彼」に、
満足な進学実績がなかったことを落胆する家族とその息子と、
学校と地域が抱える、ごく限定的でどうでもいい話。
彼は自分に興味が失せた家族と住むこともできず、
衆人環視の元にある青森では「青森一番の進学校卒」の看板が邪魔をし、
仕事もない青森に居続ける理由もなかったのだろう。
そんな、本当にくだらないスタートからこんな事件が起こった。
誰かが止めてくれれば・・・・なんて身勝手の最たるもの。
人との距離感が計れない彼に、誰が近づけようか。
社会に問題があるとすれば、
「再チャレンジ」が利きにくく「本音と建前」が強い日本の風土そのものか。
このあたり、この本の「レヴュー」が参考になります。
これは勿論、「人づき合い」という内面においてでもあるのだが、
ただ単純に、道を行き過ぎる際の「間」の取り方が、
妙に下手糞な人間が増えたということでもある。
いつだっただろう?
次長が上司と、都内の歩道を話しながら歩いていた折のことである。
往来も激しくなく、幹線沿いで充分に幅もあるので、横に並んだ状態だった。
ところが向こうから来た二人組みは、
この広い歩道を真っ直ぐにこちら目指して歩いてくる。
我々が避けようとすると、わざわざというか・・・・我々の間を割って入ったのだ。

彼らは何を臆するでもなく、にこやかに笑って過ぎた。
その意味するところは、一体なんなのか?
「次長君、日本もいよいよ、格差社会のはじまりだよ
」上司はその時、そう言った。
お互いに道を譲りあう謙譲の美徳、
話している人の間を割って入るというのは非礼なこと。
そんな思いが彼らにあったのかなかったのか。
そこに何らかのリアクションがあったでもなく、
猪突猛進よろしく、前進する人々。
こうした光景が、実はこれまでに何度か続いていた。
「格差が生まれることは、もう仕方のないことだと思う」
上司は続けた。
これは所得格差と言うよりも、人間としての質の格差。
今や所得格差は学歴格差に比例すると言われているが、
とても学校で埋められるようなものではない、教育格差だと。
ところで、先日起こった「秋葉原殺傷事件」は、
何とも痛ましく、ヴァーチャル上のような話だ。
事件の背景に見えるものは「格差」であり、
メディアはしきりにこの「格差」の意識させ助長する報道に懸命だ。
現実と仮想、現実と理想。
事件の核心は、「現実と非現実の穴埋め」ができなかった男が
「社会的格差の穴埋め」を訴えて無謀な手段に出たことにあると思う。
前者は個人の問題であり、後者は国家の問題。
この混同が、「秋葉原」という前者・後者の結節点で爆発した。
ほとんどの人が、調和を保ち現実を生きようと努力を果たしているのに、
彼にはそれが出来なかった。
それは、はっきり言って彼の個人的な内部要因によるものである。
しかし一方、この事件には、
妙に出来すぎたシナリオのような危うさがある。
つまるところ、
「小泉改革で生まれた経済格差の容認が原因」で苦痛にあえぐ男が
「ゆとり教育世代に共通して見られる知識と意識の喪失」で路頭に迷い、
「ヴァーチャルなネットでしか繋がることの出来ない若者の病理」を表すように
「オタク文化の聖地・秋葉原で」前代未聞の大量殺傷事件を起こした、
というものである。
さらにこの上、メディアが取り上げたくて仕方の無い「ニッポンの格差」で満ち溢れている。
産業に乏しい最果ての青森に生まれ、
地方最高の進学校に進むが大学には行けず、
遠方の短大から派遣労働がはじまり全国へ飛ばされ、
世界企業の工場が集まる静岡で不満をくすぶらせ、
東京のど真ん中を舞台に「勝ち組殺し」を訴え大量殺戮。
「中央と地方」「富裕と貧困」「高学歴と低学歴」
選択の余地がない「不平等」を訴える素材として
恰好だと認定された形だ。
しかし、この事件は、
そんな社会を断罪するような種類の事件とは、到底思えない。
「勝ち組」「負け組」という認識自体がただの流行語なのであって、
これを真に受けてしまう底の浅さ、ひいてはメディアの軽さが事件の本質ではないのか?
被害者についても、ことさら特定の故人にばかりターゲットを絞るやり方。
「格差」を印象付け、「負け組が勝ち組を・・・・」という
犯人の思い通りに論点を合わせてゆくテレビ報道。
テレビが言う「青森一番の進学校に入った彼」に、
満足な進学実績がなかったことを落胆する家族とその息子と、
学校と地域が抱える、ごく限定的でどうでもいい話。
彼は自分に興味が失せた家族と住むこともできず、
衆人環視の元にある青森では「青森一番の進学校卒」の看板が邪魔をし、
仕事もない青森に居続ける理由もなかったのだろう。
そんな、本当にくだらないスタートからこんな事件が起こった。
誰かが止めてくれれば・・・・なんて身勝手の最たるもの。
人との距離感が計れない彼に、誰が近づけようか。
社会に問題があるとすれば、
「再チャレンジ」が利きにくく「本音と建前」が強い日本の風土そのものか。
このあたり、この本の「レヴュー」が参考になります。
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