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2015.01.21 公式
過日、とある「公式ホームページ」を見て気が付いた。
この文章のくだり、さっき見たページの文言と、まるで同じではないか?

そのページとは、「ウィキペディア」
誰もが自由に編集できる、ネット上の百科事典。
筆者の良心に委ねられるという究極の性善説に立ったシステムだが、
時に「編集合戦」が展開され、イデオロギーがぶつかることも少なくない。
その場合、見知らぬ誰かが「話し合いによる解決」を提案し、
紛争を解決するという言わば「言葉の戦場」とも言えるだろう。

公式ホームページにある文言を、誰かがウィキペディアに写したのではない。
それは間違いのない事実だ。
何故かと言えば、「その内容が誤っているから」
誰が「非公式」を真似て「公式」にテキストを上げたのか解らないが、
公式が非公式の内容を認めたことで、誤った情報はひとり歩く。
これは本当に恐ろしいことだと思う。

「ウィキペディア」を引用元にする困った人が、まだいる。
「ウィキペディア」は筆者へ引用を認めさせているが、
無断引用を認めてはいなしし、内容の正確さまでは保証していない。
極論を言えば、嘘を書いても記事としてそこに残る。
それを見極めるのが、「リテラシー」だ。

総務省が行った、興味深い調査がある。
「平成26年度 青少年のインターネット・リテラシー指標等」
これによると、インターネットの利用時間が長いほど、
その「リテラシー」が低いというのである。

この結果から何を導けるか?
「テレビを見すぎてバカになる、同様、ネットも程々にしておけよ」
ということか?

正論を導くなら、
ネットに頼らず、書籍やら何やらとよくよく比較して
一元的な情報に頼るなと言う総務省からのメッセージだろうか?(笑)
ここにもリテラシーが求められているわけだが。

ところが困ったのが、
書籍リテラシーという言葉にはお目に掛からないこと。
例えば歴史の研究者は「文献に残っていること」を裏付けとするが、
その文献内容が果たして正しいかどうか、確かめようも無いのである。

口述や口承は軽んじられるが、
文字に残っていれば考古の対象と成り得るのだとすれば、
未来の考古学はさぞや難儀するだろう。

あることないこと、尤もらしくネットが記す。
それを真に受けて、公式と称し記す。

これから先、「公式」と称することが、
どれだけ意味を持つだろう?
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