2007.05.05 江戸しぐさ
この盛岡で、「逆転」とも言うべき現象が起きていることに気づく。

都会のビジネスマンや学生が
ふらり一人で立ち寄るような店に、
盛岡では「家族連れ」が大挙して訪れている。

それは例えば、一杯290円のラーメンを売りにするような店であったり、
セルフサービスで天ぷらを盛るような「うどん屋」であったり、
学食の延長線上にあるような、いわゆる「食堂」である。

かと思えば、
「かしこまった外食の場」を求めて行列を為すのは、他からやってきた観光客だ。
しかもそれは、駅ビルやショッピングセンターのレストランモールである。
これを「所得水準の差」と断定するのは簡単だ。
しかし、所得が低いのならば、いくら商品が廉価とは言え、外食のほうが高くつくという見方もある。

「ファミリーレストランがあまり無いから」と言うのも理由の一つだろう。
しかしよく見れば、数少ないファミレスに入り浸っているのは、
家族連れと言うよりは、若者のみのグループである。
むしろ高齢者が入りにくい雰囲気すらあるし、
結果、「昔ながらの家族連れ」が見られるのは、前述のような「一人身の店」となっている。

あくまでも私見だが、
盛岡の町は「ハレの場」を失い始めている。
これは、都会の現状に対して、逆のベクトルを以って進んでいるということだ。

エスカレータの前で立ち止まってみたり、
他の客が見ているのに、商品棚の前でおしゃべりしてみたり、
「町のルール」を知らない、または失った人々がやけに増えた。
まさにこれは、「田舎くさい町」になり始めている証拠だ。

そもそも盛岡は田舎ではないのか、という批判もあるだろうが、
田舎でこそあれ、地方都市なりの都市文化は生まれていたのであり、
ここに暗黙のルールが生まれていたのは確かだ。
ところが以前より都市化しているこの町で、
進んでいる方向性は、どうにも「田舎向き」なのである。

越川禮子著の「江戸しぐさ」シリーズが、この事情に明るい。
長らく太平の世を謳歌した江戸において、市民が獲得した
「江戸しぐさ」という都市文化が、人間関係を円滑にしてきた、という内容。
国家論に関しては「拡大解釈?」と思える部分が無いではないが、
知らない人同士がともに生きてゆくうえで、どのような立ち居振る舞いが大切なのか、著者は詳しく述べている。

高層建築が無いなど、都市化の進まない見た目の都会性ではなく、
内容が垢抜けないことを「田舎っぽい」と言うけれど、
この本ではそれを「井中」と表現する。
つまりは「井の中の蛙」、外を知らない小さな料簡のことである。

スーパーのレジに行列が出来ているとき、
子どもがレジ棚によじ登っても何も言わない親。
危ないと注意するでもなく、迷惑だと嗜めるでもなく、
この棚から落ちて大怪我をしたら、親はスーパーを訴えるんだろう、多分。
後ろの客が生鮮食品を置こうとしているその棚に、
泥まみれの子どもの靴が上がっていることには、何も言わないのに。

そういう「井中」臭さが、田舎を本当の田舎にするのだ。

かたや携帯電話を扱う専門店では、こんな光景を見た。
カウンターに居座って、どの機種にするか、ずーっと悩んでいる。
ディスプレイがあるんだから、そこで決めてから手続きすればいいのに、
他人の迷惑も弁えず、しばらく悩み、さらに談笑する二人連れ。
後ろがつかえてますが・・・・。
機種交換手続きの期限時間を過ぎて、何とかならないのかと詰め寄る若い娘。
懲りもせず、アレが高いコレはダメ、と大声で商品批判。
その機種に変えてる客がそこに居るのかも知れないのに。

一方では、いちいち大声を上げて店員を呼びつけ、
家の中みたいに子どもらを遊ばせてる似たもの母娘。
「○○ちゃーん、どの番号がいいの?」って、
そんな子どもに語呂合わせの何がわかるよ一体?
民度低いよ、本当。(笑)

風土を形作るもの。
それは山とか川だけじゃなくて、人なんですよね。

ぶつかって「すみません」と言った時、
むこうから何かしらのアクションがあるのが都会。
盛岡では何も無いことが多くて、むしろ言わなきゃ良かったと思うことすら。

ぶつかっても謝らないのが都会っぽい、と勘違いして
謝らないのが田舎、と言っても過言ではないくらい。

ここでご紹介したいのが、「うかつ謝り」
ぶつかったら、ぶつけられた側もそのうかつさを謝ると言う「しぐさ」
これは大都市に限り存在したことではないわけで。

昔はそうではなかったと思うのですが、
こういう「都会性」が、地方都市にはめっきり失われましたね。
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