2008.10.05
「おくりびと」
映画「おくりびと」を、観る。
名だたる賞を受け、さぞやシリアスな内容なのかと思っていたのだが、
結構コメディタッチの演出もあって、ドアタマから驚く。
人は、生まれ来るときにも死に行くときも、一人である。
・・・というが、決してそんなことは無いのだな、と思う。
来る時も行く時も、この世の人との関わり無しには、それを達せない。
元気な時は病んだ自分を思わないが、
死を迎えるときの準備は、もっと縁遠い。
「行く順番」は、順番どおりではないというのに。
様々な、示唆に富んだ映画である。
日本人が持つ、「死への絶大なる尊厳」、そして「穢れの思想と差別」。
この表裏一体なる思いを、一身に受け、捧げる仕事=納棺。
遺体処理、という言葉で軽々しく説明されるものでないことは、
「旅立ち」に接する人々の仕事ぶりが明らかにする。
誰もが通る道の「関門」は、生ある人にとっていつも縁遠く、
「どこかで誰か知らない人がやっている」という
現実の幻想化によって、これを回避する。
死を迎えたくない、という思いが死を遠ざけるが、
死に接しない人間は誰一人いない。
誰もが飯を食い、排泄をし、欲望を満たしながら、
それらを過剰に表に出すことを嫌うのは、
人間が動物であることを意識から遠ざけたいからなのだろうか。
死ぬことを避けたいのは、死に接して涙を見せる動物のような本能を
人様に見せたくないと言う「恥の意識」が働くのかも知れない。
人は、若くても死ぬ。
多くは生まれた時とは違う姿で、死ぬ。
死は命のリレーであることを、この映画は問う。
映画では採り上げられない部分まで、思いを至らしめるところが
この映画の凄いところだ。
生まれたときと、同じ姿で死ぬ子どももいる。
遺伝子を残さず、心だけを残して去り行く人も、多く居る。
死が身近だった頃、地域のコミュニティだけで「門出」を飾った記憶。
山形・庄内の農村風景をバックに、そんな葬列が描かれる。
本木雅弘演じる主人公は、東京から地元へ帰って、
幼馴染や町の口さがない人々による噂の中で、生きる。
閉ざされた町のリアリティは映画以上だが、
遺体を粗末に扱う一部の葬祭業者と、
葬祭業者に罵声を浴びせる遺族もまた、現実を映している。
私事ながら、親族が葬儀をした葬祭会館で、
葬儀中の部屋に見学者を通そうとした職員が居て、面食らったことがある。
見学者の二人は、「いえ・・・それはちょっと」と引き下がったが、
職員は「どうぞどうぞ」と笑顔で勧めたのだ。
呆れて言葉も出なかったが、そういうところも盛岡市内にある。
奇しくも、この町は今、葬祭会館花盛り。
右も左も葬祭会館。
病院の目の前に、葬祭会館。
「病院から直送できます」と壁に大きく書かれたところもある。
葬儀は誰にも身近であると思いながらも、
こんなところに首をかしげる自分が居るのも、事実。
寺の中には、昔ながらの伝統やしきたりを重んじると宣言するところもあるのだが・・・
企業グループの「葬祭ビジネス」が広がり、
次から次と葬儀の流れ作業が連なる中、
本当に故人を偲びながら、心を込めた「門出」を飾る葬儀を考えたいもの。
「納棺師」という職業の重さについて、深く共感しながら、
火葬場で働く職員の言葉の重みが、ひときわ冴えた。
この映画に貫かれたものは、日本人の心にある
「死んだ人は皆、清らかな魂になって天へ行く」という死生観である。
この映画が海外で評価されたというのは、この点が理解されてのことなのかどうか。
日本を説明するのに、相応しい映画の一つであるかも知れない。
名だたる賞を受け、さぞやシリアスな内容なのかと思っていたのだが、
結構コメディタッチの演出もあって、ドアタマから驚く。
人は、生まれ来るときにも死に行くときも、一人である。
・・・というが、決してそんなことは無いのだな、と思う。
来る時も行く時も、この世の人との関わり無しには、それを達せない。
元気な時は病んだ自分を思わないが、
死を迎えるときの準備は、もっと縁遠い。
「行く順番」は、順番どおりではないというのに。
様々な、示唆に富んだ映画である。
日本人が持つ、「死への絶大なる尊厳」、そして「穢れの思想と差別」。
この表裏一体なる思いを、一身に受け、捧げる仕事=納棺。
遺体処理、という言葉で軽々しく説明されるものでないことは、
「旅立ち」に接する人々の仕事ぶりが明らかにする。
誰もが通る道の「関門」は、生ある人にとっていつも縁遠く、
「どこかで誰か知らない人がやっている」という
現実の幻想化によって、これを回避する。
死を迎えたくない、という思いが死を遠ざけるが、
死に接しない人間は誰一人いない。
誰もが飯を食い、排泄をし、欲望を満たしながら、
それらを過剰に表に出すことを嫌うのは、
人間が動物であることを意識から遠ざけたいからなのだろうか。
死ぬことを避けたいのは、死に接して涙を見せる動物のような本能を
人様に見せたくないと言う「恥の意識」が働くのかも知れない。
人は、若くても死ぬ。
多くは生まれた時とは違う姿で、死ぬ。
死は命のリレーであることを、この映画は問う。
映画では採り上げられない部分まで、思いを至らしめるところが
この映画の凄いところだ。
生まれたときと、同じ姿で死ぬ子どももいる。
遺伝子を残さず、心だけを残して去り行く人も、多く居る。
死が身近だった頃、地域のコミュニティだけで「門出」を飾った記憶。
山形・庄内の農村風景をバックに、そんな葬列が描かれる。
本木雅弘演じる主人公は、東京から地元へ帰って、
幼馴染や町の口さがない人々による噂の中で、生きる。
閉ざされた町のリアリティは映画以上だが、
遺体を粗末に扱う一部の葬祭業者と、
葬祭業者に罵声を浴びせる遺族もまた、現実を映している。
私事ながら、親族が葬儀をした葬祭会館で、
葬儀中の部屋に見学者を通そうとした職員が居て、面食らったことがある。
見学者の二人は、「いえ・・・それはちょっと」と引き下がったが、
職員は「どうぞどうぞ」と笑顔で勧めたのだ。
呆れて言葉も出なかったが、そういうところも盛岡市内にある。
奇しくも、この町は今、葬祭会館花盛り。
右も左も葬祭会館。
病院の目の前に、葬祭会館。
「病院から直送できます」と壁に大きく書かれたところもある。
葬儀は誰にも身近であると思いながらも、
こんなところに首をかしげる自分が居るのも、事実。
寺の中には、昔ながらの伝統やしきたりを重んじると宣言するところもあるのだが・・・
企業グループの「葬祭ビジネス」が広がり、
次から次と葬儀の流れ作業が連なる中、
本当に故人を偲びながら、心を込めた「門出」を飾る葬儀を考えたいもの。
「納棺師」という職業の重さについて、深く共感しながら、
火葬場で働く職員の言葉の重みが、ひときわ冴えた。
この映画に貫かれたものは、日本人の心にある
「死んだ人は皆、清らかな魂になって天へ行く」という死生観である。
この映画が海外で評価されたというのは、この点が理解されてのことなのかどうか。
日本を説明するのに、相応しい映画の一つであるかも知れない。
